第2話

 ハマっているソシャゲのお得なセットだけを購入するために多少の課金し、バーチャルユーチューバーの配信などを見ながら勉強をしていたら、地元で就職する際には下手な大学よりも融通の効く、それなりの偏差値の高校に入学することになったのだけど、僕の家からその高校までの通学路にある信号と踏切の挙動の噛み合わなさに気づいたときは、流石に絶望したね。


 赤信号か、踏み切りか、必ずどちらかで引っ掛かる。せっかく徒歩で通学できる距離の高校に合格したのだから、これを回避するためにわざわざ早起きをするのは損した気分にもなるし、そうなると遅刻ギリギリに家を出て、信号か踏切のどちらかに必ず朝の快活な歩みを止められるという生活が、高校入試で合格した時点で決まっていたわけだ。


 もちろんこれは初日には気づくことのできない絶望だった。高校の入学式を間近に控えた僕というのは、期待と憂鬱から来る緊張を胸に通常よりも早い集合時間に合わせて、少しだけ早起きをした。そうすると信号にも踏み切りにも引っ掛からなかった。アスファルトを新品の靴で叩くうちに、きっと色んなことが身体に馴染んで、期待と憂鬱は、希望へと変わった。僕の高校生活の初日というのは、誰の邪魔もされない完璧なスタートを切ったのだ。


 そんなわけで中学校の体育館とさほど変化のない高校の体育館で入学式が行われている間、装飾されたお花の花粉症にビビりながらも、僕は希望を持って大人しく椅子に座っていた。周りの連中の顔つきはそりゃ不安もありけりといった様子だったさ。僕だけが新しい学び舎の新鮮な雰囲気に呑まれず、こうして希望だけを持って座っていられるのは、僕がもう、ライトノベルを読んでいないからだった。


 黒瀬さんからフラれた後、僕はライトノベルを読むのをやめた。ラノベが嫌いになったわけではなかったし、フラれたことがトラウマになったというわけでもない。ただ一瞬でも付き合っていた恋人に振られたことで、少しだけ大人になってしまったのだと思う。ラノベの設定や世界観に、ワクワクできなくなったのだ。


 ライトノベルからの卒業を自覚している間にも、何の変哲もないテンプレートな入学式が恙なく終了し、僕たちはぞろぞろと自分たちが配属された教室へと入っていく。一年四組の教室は、その棟の端から二番目の場所にあった。一番端っこは何にも使われていない予備の教室だ。もちろん昔は使われていたのだろうけど、僕たちの学年から五クラスから四クラスに減ったのだ。ひとえに少子化の影響だった。もちろん、クラスが減ったことで、定員も減ったわけで、僕たちの世代というのはなかなか頭の良い人たちが集まっていると言えた。


 担任の畑中という若い青年の教師が教壇に上がると、チャーミングなえくぼを僕たちに向けながら、自分が国語の教師であること、野球部の顧問であること、それから大谷翔平の凄さを語った。釈迦に説法だ。僕たちは小学校六年生のときに大谷からグローブが届いた世代なので、このエンゼルス、ドジャースの順番で応援してきたであろう担任よりも、大谷の凄さを知っているのだ。


 というわけもあり生徒の食いつきが悪いと察した畑中先生は、そうそうに用意してきた話を切り上げ、「それじゃあ、みんなに自己紹介をしてもらおうかな」と言い出した。入学式の辺りからありがちな展開が続いていたので、ここで自己紹介をさせられることもなんとなくそうじゃないかなって予想できていた。


 出席番号が名前のあいうえお順で並べられている関係上、右端に座っている赤星(一番バッターとしては相応しすぎる名前)くんが立ち上がり、赤星蓮人、椎中出身、好きな食べ物はステーキ、というポテンヒットのような自己紹介をすることで、続く生徒はそれに倣ったように、名前、出身中学+アルファ(趣味とか部活とか)をテンプレートとして、ボソボソと、あるいは調子良く自己紹介をしていくけど、しかし本当にその人の個性や性格が表れるのは何を言ったかではなくて、緊張の一瞬を終えて座ったあとのホッと安堵するような仕草や、上手く話せなかった後悔が滲むような表情にあったから、それを眺めていくうちに、だんだんと僕の順番が近づいてきた。


 丁度、真ん中くらいだったかな。それまでの自己紹介を踏まえた必要最低限の台詞をハキハキと伝え、その後にある表情が重要だって気づいていたから、僕は愛嬌を見せながら、自然な演技で緊張が解けたようなホッとしたときの表情を演技しながら着席した。替わりに僕の後ろの生徒が立ち上がって、いやそれはただ立ち上がっただけじゃなくて、僕たちの退屈な青春を切り裂く、ラノベのヒロインのような、琴線に触れる起立だった。


「英中出身、椎名紡央」


 その名前を聞いてふーんと思ったとき、僕の脳裏を強烈なデジャヴが襲った。この光景や瞬間をどこかで体験したことがあったような気がしたのだけど、明確に思い出すことはできない。気のせいか、それとも忘れてしまったのか。


「好きなものはラノベ」


 きっと忘れていただけだ。

 多くのライトノベルは、このような自己紹介から始まった。

 それを今、思い出した。

 デジャヴの正体はそれだった。


「『ようこそ実力至上主義の教室へ』『Re:ゼロから始める異世界生活』『ノーゲーム・ノーライフ』『僕たちは友達が少ない』『ゼロの使い魔』『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』『この素晴らしい世界に祝福を!』『問題児たちが異世界から来るそうですよ?』『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』『ゴブリンスレイヤー』『りゅうおうのおしごと!』『とらドラ!』『『ソードアート・オンライン』『ブラック・ブレット』『とある魔術の禁書目録』『デュラララ‼』『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』『魔法科高等学校の劣等生』『エロマンガ先生』『甘城ブリリアントパーク』『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』『デート・ア・ライブ』『六花の勇者』『ベン・トー』『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』『弱キャラ友崎くん』『負けヒロインが多すぎる!』『灰と幻想のグリムガル』これらはわたしの家の本棚に並んでいるライトノベルたちです。いつでも貸し出すことができるので、ライトノベルに興味がある人がいたらわたしのところまで来てください」


 ビビッと来たね。僕は思わず後ろの席を振り返った。

 紡央は意思の強そうな大きな瞳をした、ネイビー混じりの黒髪の少女だった。


 これから一年間を一緒に過ごすことになるだろうクラスメイトたちはこれでもかと口を開けてポカンとしている。ただただ有名なライトノベルのタイトルを羅列するだけで、きっと紡央の高校生活は瓦解した。静寂には清々しさすらあったけど、この沈黙を受けて紡央は顔を顰めた。思っていたクラスメイトの反応とは違ったのだろうか。


「……特技はモノマネです。えー、アニメ『Re:ゼロから始める異世界生活』より、レムの台詞」


 まだ行くんだ。すごいなこの女子は。指先から放たれた紙飛行機のように、このときの紡央はどこまでも飛んだ。咳払いとチューニングを挟んで、紡央は口を開いた。


「……『鬼がかってますね』」


 たしかに似ていたさ。しかし人気アニメキャラのモノマネができるくらいでは、取り返しのつかない空気になっていたのだ。M1で滑り大魔神が降臨したときのような「おー」という反応と愛想笑いは、クラスのなかでも陽気な人たちが見せた、最大のフォローだった。


「図書室に『涼宮ハルヒの憂鬱』が置いてあったので、この高校に来ました。以上です」


 教室がそれまではなかった拍手で包まれたのは、紡央による衝撃的な自己紹介によって、みんなのフォームが完全に崩れてしまったからだ。辞め時を見失った拍手だったが、紡央の後ろの席に座る男子生徒の勇者のような起立によって、教室は日常を取り戻しつつあった。


 一方で紡央は自分の自己紹介にたいへん満足したようで、やり切った感のある表情で椅子に座っていた。しかし、翌日以降の紡央の表情はとても憤りを感じているようなそんな顔になる。紡央の元にライトノベルを借りに来る生徒は一人もいなかったのだ。


 そうだよな。

 僕や紡央が思っているよりも、みんなラノベに興味がないんだ。

 ライトノベルというのはそういう本だった。

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