第2話 キャンバスキャンパス
CANVASはトシキとコウタの二人で構成されているアイドルユニットだ。
何にでもチャレンジする姿勢がファンに支持されて、テレビで彼らを目にしない日はない。
特に『キャンバスキャンパス!』は高校や大学の部活やサークルに「潜入」して様々な事に挑戦する人気バラエティー番組で、高視聴率を維持していた。
メンバーのトシキは神居大学に向かうロケバスの窓で、国道沿いの海岸に沈む夕陽をぼんやりと眺めながら、隣に座っているコウタに問いかけた。
「コウタぁ。せっかくの生放送スペシャルなのに、なんで神居大学の料理研究サークルなん? なんか地味じゃない?」
「うん? そこのサークルの部長がね、あの春日井官房長官の娘さんで俺たちのファンなんだってさ。プロデューサーが局の上の方から行ってくれと頼まれたらしいよ」
「あー、なるほどねえ……」
トシキはそっけない返事を返すと、興味なさそうにまたぼんやりと海を眺めてボソッと小声で呟いた。
「官房長官の娘……か。ま、せいぜい『アイドルトシキ』を演じてみせますか」
しかし、その声は車内の騒音で誰にも聞かれることはなかった。
『キャンバスキャンパス!』生放送の収録日。料理研究サークルStella Kitchen部長である。春日井桜子は人生で一番緊張していた。
「トシキ君に会える!」
そう思うだけで胸が張り裂けてどうにかなりそうだった。CANVASがデビューしたときからの熱烈なファンで、桜子の部屋はCANVASグッズで埋め尽くされていた。推しのトシキが一緒に料理を作ると知った時は危うく卒倒しかけて小春たちを慌てさせた程だった。
神居大学の調理研究室では、小春たちが準備に追われていた。場所や道具の手配と食材の用意などで、数日前から大忙しだった。
「部長、この材料どこに置きますか?」
女子部員に尋ねられた小春が振り返ると、部員が驚いた。
「あ! 副部長だった! 本当に後ろ姿が部長とそっくりですよね」
「えへへ」
嬉しそうにしていた小春に部長の春日井桜子が呆れた様に返した。
「私のどこがいいのか分からないけど、小春は真似るよね」
「うん、髪も同じ色に染めちゃった。だめかな?」
「だめではないけど、私がくすぐったいよ」
北山小春と春日井桜子は小学四年生の頃からの付き合いだ。
ある日、小春を襲おうとした変質者を桜子が蹴り飛ばして河原の土手から転がり落としたのがキッカケだった。それ以来、小春は強くてリーダーシップのある桜子に憧れてついて回るようになった。
小中高どころか大学まで一緒で、桜子が料理研究サークルを立ち上げて部長になったときは、小春は無理を言って副部長に就いたのだった。
コアラに似ているから「コアラ子」なんて呼ばれている桜子にしてみれば、自分より美人で可愛い小春がついて回るのが不思議でならなかった。
――
喫茶「すのうどろっぷ」では、矢上が食器の洗い物を終えて、コーヒーを淹れながら一息ついていた。
『学校バラエティ! キャンバスキャンパス!はじまるよー!』
突然、タイマーセットされていたテレビから大きな音が鳴って顔を上げた。
「おや、もう始まりましたか……」
矢上は淹れたコーヒーを手に取って、カウンターに座ると壁のテレビに目をやった。
テレビの画面にはアイドルユニットCANVASの二人が軽快な音楽に乗って学校内をコミカルに走り回るアニメが流れていた。
オープニングが終わるとロングショットでスタジオが映る。カメラに向かって座っているMC役の芸人と局アナの背後にはひな壇が配置され、招待された高校生や大学生が並んでいた。典型的な視聴者参加バラエティのスタジオ配置だ。
「キャンバスキャンパス生放送スペシャルゥウウウ!!!」
MCが手を叩きながら盛り上げるとひな壇から拍手が上がる。
「はい! 生放送スペシャルの今回はトシキとコウタが神居大学で料理研究サークルStella Kitchenに潜入していまーす!」
「早速みんなで呼んでみましょう。トシキー! コウター!」
スタジオから呼ばれると、神居大学の長く薄暗い廊下で、トシキとコウタがカメラに向かって「チャッス」と二本指で挨拶した。
ひな壇から「キャー!」と歓声が上がった。
トシキがヒソヒソ声でテレビに向かって話す。
「今ですね、神居大学の調理研究室の前にいます。この中にですね、《Stella Kitchen》のメンバーが料理を作っているので、潜入してみようと思います」
コウタが人差し指で「シーッ」とジェスチャーしてから扉をそっと開けると、2人は静かに部屋に入った。
調理用のシンクやコンロが並ぶ教室では、サークルのメンバーが忙しそうに何かの料理を作っていて、その周りで照明やカメラを持った番組スタッフが囲むように撮影していた。
「コンロの火を少し弱めてね、油の温度には気をつけて……」
部長の春日井桜子がメンバーに指示をしている。カメラの前でも物おじせず、指示の仕方は堂々としたものだった。
トシキとコウタは他のスタッフの影に隠れながら小春と桜子の後ろにそっと近寄ると、後ろから声をかけた。
「こんばんわー! 今、何をやってるところですかぁ!?」
小春と桜子はビックリして振り返ると、トシキとコウタが後ろにいるのを見てのけぞった。
「わ! ビックリしました!」
「へっ! あっ、ト、トシキ君!?」
普段はサークル員をガッチリとまとめ、強いリーダーシップを発揮する桜子が、推しのトシキの姿を認識した瞬間、まるで全身の骨が抜けたように腰砕けになり、テーブルに手をついた。
「コアラ子さーん!」
小春の叫びも虚しく、桜子は青ざめた顔でヨロヨロしている。トシキが笑顔で桜子にマイクを向け、意気込みを尋ねる。
「今日はよろしくお願いしま〜す!どんな料理に挑戦しましょうか!」
桜子は両手で顔を覆い、蚊の鳴くような声で呟いた。
「うぅ、むり、むり……推しが…実在してる…」
このままでは収録にならない。小春は、憧れの桜子がピンチであること、そしてテレビの生放送中であることを理解し、意を決して前に出た。
「あ、あのですね! 今、サバサンドをみんなで作っている所なんです!」
ふにゃふにゃになっている桜子の横から、小春は必死にサバサンドの説明を始めた。
桜子に憧れて身につけたリーダー然とした振る舞いと元来の明るい人懐っこさが功を奏して、慣れない料理にチャレンジしているトシキやコウタとも友人のように会話をしていた。
他の女優やアイドルにも引けを取らない小春の顔立ちが、撮れ高優先のディレクター達の目について、その後はほとんど小春しか映されなかった。
トシキは自分の質問に一生懸命に答えようとする小春に興味を持ち始めていた。
仕事上、女優やアイドル、女性ファンとの接点が多く、「親しい関係」になったこともある。
だが、それはいつも『CANVASのトシキ』というブランドに向けられた好意だった。自分の中では「そういうものだ」と割り切っていた部分もあった。
しかし、小春は同年代の子にありがちな芸能人に対する媚のようなものがなかった。『CANVASのトシキ』ではなく、一人の人間として一生懸命説明してくる。
それがトシキには懐かしく、心地よかったのだった。
――
喫茶「すのうどろっぷ」のカウンターで、矢上はコーヒーを飲みながらテレビを見ていた。
一生懸命説明している小春の後ろに、一見スタッフのように見える男が何人か映っているのを見て矢上は目を細めた。「セキュリティが何人かついていますね、それもかなり腕が立つ」と独りごちたが、次の場面で眉をひそめた。
アイドル相手に会話している小春のアップに『神居大学料理研究サークルStellaKitchen 部長 春日井桜子さん』とテロップが打たれたのだ。
小春の堂々とした説明と見た目の良さから、番組が部長の桜子と間違えてテロップを打ってしまったのだろう。
「これは、まずいですね……」
テレビの画面のスタジオの質問にハキハキと答えている笑顔の小春とは対照的に、矢上はしかめ面で画面を睨んでいた。
突然、カランカランとドアベルが鳴った。
ドアを開けたのは、仕立ての良いスーツを着た恰幅の良い中年の男、通称「フクロウ」だった。背はあまり高くなく、黒髪をオールバックに撫でつけ、鼻の下と顎に髭を蓄えていた。その姿は、まるで七福神の恵比寿のようだった。左手には鯛ではなくアタッシュケースを持っている。
「どうも、こんばんは」
男は矢上に会釈すると、ずかずかと店内に入り、カウンターの上にアタッシュケースをそっと乗せてからテレビに目をやった。
「あんたがテレビを見ているとは珍しいね」
フクロウはにこっと笑った。この男は笑うと本当にビールのラベルの恵比寿に似ていると思った。
「知り合いが出ていたものですから。……あなたも、コーヒーを飲みに来ただけというわけではなさそうですね?」
「うむ、豆を買いに来た。とびきり深く焙煎されたイタリアンローストの豆をね」
矢上は、フクロウの目をまっすぐ見た。軽い緊張が走る。
「産地は?」
「アゼルキア産」
矢上の銀縁メガネの奥の瞳が、僅かに揺れた。
「豆の種類は?」
「ゲイシャ種だが、どうかね?」
返事をじっと待つように矢上を見据えた。
「アゼルキアですか……あそこの豆はとびきり苦いですが、ありますよ」
フクロウは少しホッとしたような表情を浮かべると話を切り出した。
「アゼルキアは知っての通り、旧ソ連領で未だに政情不安な国だ。今、元反体制派指導者のミケイル・カーンという男が日本に滞在中で亡命申請をしていてな」
フクロウはアタッシュケースからミケイル・カーンの写真を取り出してカウンターの上に置いた。中東系の顔だちの男だ。
「B.F.(ブラック・フラッグ)が関わっていますね?」
「早いね」フクロウは微かに笑った。
「日本に亡命申請中の元反体制派指導者カーン氏の身柄を確保するために、国際テロ組織のBFが動いているという情報がある。BFのリーダーは向井彰という男だ」
もう一枚、写真を出した。
中東の砂漠をバックに、スキンヘッドで髭面、サングラスを掛けた男が白い歯を見せて笑っている。男はAK-47を構えて、捕虜と思われる男に銃口を突きつけていた。
「馬鹿な……向井だと!」
矢上は、顔から血の気が引くのを感じた。
「もしかしたら、向井は官房長官の娘を狙っていませんか?」
「ほう、よくわかったな」フクロウは目を丸くした。
「テレビの番組にしては、春日井桜子の周りのセキュリティの数が多かったですから。官房長官の娘である春日井桜子を誘拐して、水面下でミケイル・カーンとの交換を要求する。向井なら考えそうな事です」
「流石、数多の戦場を駆け抜けてきたSnowdropだ、切れ味は落ちていないな」
フクロウは文字通りの恵比寿顔で笑って頷いた。
「任務の目的はアジトに隠れているBFの殲滅だ、これは超法規的な処置であり限定的な殺人も許可される。ただし、君の身に何が起こっても当局は関知しない……いいな」
矢上が黙って頷くとフクロウはアタッシュケースを開けた。中には、メモリーカードと官房長官の裏金を思わせる分厚い札束、幾つかの鍵とManurhin MR73が、布にくるまれて収められていた。
「Manurhin MR73、3インチバレル。.357弾を使うリボルバーの中でも、この銃の信頼性は群を抜いています。よく用意出来ましたね」
「特別に使用許可を取った。苦労したよ。ただ、申し訳ないが弾は拳銃に入っている六発だけだ」
「充分です」
「うむ……ケースにはBFの情報と豆の代金も入っている。動きたまえ、矢上。君の平穏な日常は終わった」
突然、スマホが鳴った。フクロウは矢上を手で制すると怪訝な顔でスマホに出た。
「なに? そんなことがあるか?……うむ、わかった。それもこちらで対処する」
スマホを切ったフクロウが矢上の方を向くと、真剣な表情で言った。
「北山小春が学校から姿を消したそうだ……」
「どういうことですか」
「忘れ物を取りに一人で駐車場に向かって、そこで消えたそうだ」
悪い予感が的中した矢上は目を瞑ると奥歯を噛み締めた。
――
フクロウが店を出た後だ。
ドアの向こうに気配を感じた矢上に緊張が走った。ドア横の壁に背中をつけて、外の気配を感じ取る。
『足音。歩幅が狭い。左脚をわずかに引きずる癖のある歩きかた。呼吸音。初老の男。訓練された形跡はない』
ドアが開くと、初老の男が入ってきた。すぐ横に矢上が立っているのに気付くと男は驚いて目を剥いた。
「申し訳ありません、今日はもう閉店しております」
丁寧に対応する矢上に、男は一瞬文句を言おうとしたが、慇懃な矢上の態度の中にただならぬ気配を感じとると「なんだよ!」と一言だけ言って退散した。
男が去ると、矢上はドアに鍵を掛けて、窓のブラインドを全て下ろした。カウンター以外の照明を消すと、棚から深煎りさせたインドネシア産マンデリンを取り出して豆を挽き始めた。
極細挽きにしたパウダー状の豆をエスプレッソマシンに掛けると、プシュという小気味良い音と共に、カップに黒い液体が糸の様に注ぎ込まれる。
「マンデリン深煎り極細挽き、エスプレッソ」
エスプレッソ用の小さいカップに入ったコーヒーを一気に飲み干した。
口の中にコクと苦味が広がる。熱いコーヒーが喉を通り臓腑に染み渡ると、全身のスイッチが切り替わり感覚が研ぎ澄まされていく。
矢上は大きく息を吐いた後、コンバットブーツと黒い戦闘服を着込み、カウンターの後ろのドアから、ガレージに入った。
ガレージにはGolf II GTI 16Vがアルパインホワイトのボディを艶かしく光らせて眠っていた。
「ホットハッチのGolf II GTI 16V、1987年製の古い車だ」
矢上はドアを開けると運転席に滑り込んだ。
ハンドルを握ると、先月この車で小春と買い出しに行った時、あまりにガタピシ動いていたので「今時、カーナビも付いていないほど古いんですから買い替えた方がいいですよ!」と言われたことを思い出して、口元を綻ばせた。
車のキーを3回、強く押し込んでからイグニッションを回すと、別回路に火が灯った。
目覚めたエンジンがブゥオォォン!と低く勇ましい咆哮を上げる。
ホイルスピンさせてガレージを出ると、Golf II GTIは獲物を狙う猟犬のように、夜の街に白いボディを溶け込ませていった。
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