硝煙はイタリアンローストの薫り
田柄満
第1話 純喫茶すのうどろっぷ
神居市の閑静な住宅街。海浜公園通りのなだらかな坂を上りきった先の小さなマンションの一階に、喫茶「すのうどろっぷ」は静かに佇んでいる。
重厚な木製ドアを開けると、ドアベルの軽やかな音色と共に芳醇なコーヒーの香りがふわりと漂ってくる。
店内はマホガニーの赤褐色を基調としたクラシカルな設えで、壁やカウンターが放つ木の温もりが心地よく、誰もが長居したくなるような落ち着いた空間のはずなのだが――。
「お客さん、さっぱり来ませんねぇ……」
バイトの大学生、北山小春が、暇を持て余してマホガニーのカウンターに突っ伏しながらぼやいた。
目鼻立ちの整った端正な顔とミディアムボブにカットされた薄いピンクブラウンの髪が、ピカピカに磨かれたカウンターの赤褐色にぼんやりと反射している。
「もう夜の7時ですからねえ、皆さんコーヒータイムというより晩ごはんの時間なのでしょう」
喫茶店のマスター、矢上亘(わたる)がキッチンで何かを作りながら小春に言った。
矢上の年齢は40を過ぎている。銀縁メガネを掛け、細身の身体にかっちりとしたベストと黒いエプロンを着こなした、物腰の柔らかい品の良いおじさんといった風貌だが、時折り腕まくりした時に見える隆々とした腕の筋肉は、喫茶店のマスターというより格闘家のものだった。
「うちもディナータイムとうたって、夜ご飯も出してるじゃないですかあ……」
キッチンからは肉を焼くジューッという音と香ばしい香りが漂ってきた。
「ランチもやってますよ」
「私、夕方から夜までの時間ここにバイトに入ってますけど、もうすぐ一年になるのに、お客さんと話すのは一日に一回あるかないかだし、長いと3日くらい誰にも会いませんよ。大丈夫ですか? お店潰れませんか?」
「おや? 心配してくださるのですか?」
「お店が潰れると、バイトしながら勉強出来るところがなくなって困るんですけど……」
大学生の小春はそう言い放つと、いそいそとバッグからタブレットとテキストを取り出し、課題のレポートに取り掛かった。
「ははは、手厳しいですねえ」
矢上は笑いながら、小春の隣のカウンターに料理を乗せた皿を置いた。白い湯気がふわりとたちのぼっている。
「さて、勉強も良いですが、新作メニューの試食もお願いしたいものですね」
真っ白な皿の上には、こんがりと焼けた肉団子のようなキョフテが四つ鎮座している。
そして横にはふんわりと盛られたトルコ風ピラウ、添えられたトマトと紫玉ねぎのサラダが彩りを添え、シンプルながらも食欲をそそるプレートに仕上がっている。
「わっ、すごい! これキョフテですよね!」
「流石、大学で料理サークルに入ってらっしゃるだけにご存じでしたか」
「はい! トルコの肉団子のような料理ですよね。食べるのははじめてです!」
「では、冷めないうちにどうぞ」
「いただきまーす!」
小春はフォークを手に取り、一番大きなキョフテに取り掛かった。カリッとした表面を突き破ると、中から立ちのぼる湯気と共にスパイシーな香りが漂う。ピラウに乗せ、ためらいなく口に運んだ。
噛むたびに、しっかりとした肉の弾力と、牛肉の濃厚な旨味、そしてクミンのスパイシーな風味が広がる。ピラウの鶏とバターのふくよかな味わいが優しくそれを包み込み、小春の舌の上で小さな異国の風が吹いた。
「ふわ……おいひい……」
小春は幸せそうに目をつぶり、味わいながら咀嚼して一口目を食べ終えると、目を見開いて矢上を見た。
「美味しい! これお金が取れますよ!」
「はい、そのつもりで作ってますから」
矢上は目を細めて嬉しそうに小春の様子を見ると、今度はコーヒーカップをカウンターに置いた。
「はい、食後のカフェ・オ・レです」
白いカップの中には柔らかく暖かそうなベージュ色のカフェ・オ・レが入っていた。コーヒーと甘い香りのミックスされた湯気が気持ちをホッとさせる。
小春は両手を小さく叩いて喜ぶと、一口飲んだ。
「マスターの淹れるカフェ・オ・レは天下一品です!」
「ありがとうございます。それにしても、コーヒーは苦手なのにカフェ・オ・レは飲めるのが不思議ですね」
「コーヒーの酸味が苦手なのかなあ。でも、マスターのカフェ・オ・レはいくらでも飲めますねえ」
「ペルーのカフェ・ウチュニャリという豆を使っています。しっかりした香りとコクを持った素直な味わいのコーヒー豆です……」
矢上は「……まるで小春さんのような豆かもしれません」と言おうとしたが、やめた。カフェ・ウチュニャリ、別名ハナグマコーヒーはハナグマの排泄物から取れる豆だからだ。
『世の中知らない方が良い事はたくさんあります』
そう思いながら、つい苦笑してしまった。
『そう、知らない方が幸せです……』
「どうしたんです? にやにやして?」
小春がイタズラっぽい笑いを浮かべながら矢上に聞いた。
「いいえ、なんでもありません」
小春は「ふーん」と、少し不満げに相槌を打つと、カフェ・オ・レの温かさで気分を変えるように一口飲んだ。次の瞬間、何かを思い出したように「あっ」と笑顔になって矢上に向かった。
「そうですよ! こんなに美味しい料理とコーヒーが出せるんだから、うちも宣伝に力を入れるべきです!」
小さな手で握り拳を作ると、矢上に熱弁を振るった。
「何より、勉強も出来て美味しいご飯まで食べられるバイト先が無くなったら私が困ります!」
矢上は苦笑すると、首をゆっくりと横に振った。
「いえ、宣伝をするつもりはないんですよ。半分趣味でやっているような店ですし、あまり繁盛されても困ります」
「でも、利益がないと困りませんか?」
「今の状態でも店は十分やっていけていますから、心配する必要はありませんよ。それに……」
矢上はカウンターの上にある小春のテキストとタブレットをちらっと見ると微笑んだ。
「お客さんにあまり来られると、勉強する暇がなくなりますよ?」
「あー、まあ。それはそうかも……」
小春は「うーん」と唸ると、残念そうに話を続けた。
「うちの料理研究サークル《Stella Kitchen》が今度テレビの取材を受けるから、すのうどろっぷの宣伝もしちゃおうかなって思っていたんだけどなあ……」
「頼みますからうちの宣伝はやめてください。……それより料理研究サークルがテレビに出るのですか?」
小春は嬉しそうに頷くと、身を乗り出して話を始めた。
「はい! 出ちゃうんですよお! CANVASってアイドルユニットがやってる『キャンバスキャンパス!』っていう学校バラエティ番組なんですよ!」
「『キャンバスキャンパス!』は私もちょっとだけ見た事がありますが、確かに男の子が司会をやってましたねえ」
「えへへ、実はCANVASに会うのちょっと楽しみなんです。明後日の月曜日、夜8時に放映します」
「わかりました。その時間、お店で見てみましょう」
矢上が食べ終わった食器を片付けようとしたら、小春も同時に手を出した。
「あ! 食器は私が片付けます」
小春が慌てて皿とカップを掴もうとしたら、手が滑って食器をカウンターの内側に滑り落としてしまった。
「あっ!」
次の瞬間、矢上はほとんど動いたようには見えなかった。カウンターの下から出した手には、小春が落とした皿とカップ、フォークやスプーンが、まるで矢上の右手に吸い付いたように収まっていた。
小春は目を丸くした。
「凄い! 絶対皿を割ってしまうと思ってました! 物音一つさせないなんて、どうやったんですか?」
「まあ、手品みたいなものです。……皿は私が洗いますよ」
「あ……あの、ごめんなさい」
「ははは、大丈夫ですよ。テレビ、楽しみにしていますね」
そう言うと、矢上は微笑んでシンクに向かって静かに皿を洗い始めた。
そんな矢上の背中を見た小春は、静かな湖の冷たい湖水の底に得体の知れない怪物が潜んでいるような、言いようのない空恐ろしさを感じるのだった。
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