暁ノ約束 ―A Promise Beyond Time―

第1章 静寂の午後


2011年3月11日――。

午後2時46分の少し前、仙台の空には、まだ穏やかな陽射しが差していた。

斉藤悠真は、アパートの狭いリビングで、湯気の立つカップ味噌汁をすすっていた。

「……やっぱ、母さんの味噌汁のほうがうまいな」

そう呟いて、テーブルの端に置かれたラップがかかった皿に目をやる。母が作ってくれた焼き鮭と、昨夜の豚汁の残り。冷蔵庫の上に貼られたメモには

「バイト頑張れ!」と母の文字。丸い字だった。

大学の講義が地震の影響で休講になり、悠真は家族の住む実家に戻ってきていた。

仙台駅から地下鉄に揺られ、住宅街の外れにある築二十年の平屋。どこか懐かしさが染み込んだ木造の床を、弟のスリッパがパタパタと駆ける音がしていた。

「兄ちゃん、もうコントローラー返してよー!」

「はいはい。ほら、落とすなよ」

笑って渡したゲーム機に弟が飛びつく。奥の部屋では、母が洗濯物を畳む音がする。

なんでもない午後だった。

どこにでもある、どこまでも続くと思っていた――はずの。

そのとき。

低く、地の底から響くような唸り声が、家全体を揺らした。

悠真の背筋を、氷のような感覚が駆け抜ける。

「……地震か?」

口にした瞬間、床がぐにゃりと歪んだ。まるで大地が生き物のようにのたうち回り、天井が悲鳴を上げる。

「悠真っ!」

「お母さん、こっち来て!」

「兄ちゃ……!」

叫び声、割れるガラス、崩れ落ちる棚。

何かが当たって、悠真の頭が鈍く痛んだ。咄嗟に母と弟をかばおうとしたその瞬間、天井が崩れ落ち、家の構造が一瞬で崩壊した。

目の前が、真っ白になった。

身体が浮くような感覚。次の瞬間には、何か重いものに背中を押し潰されていた。

音が消えた。

世界が、静かだった。

土と煙と血の匂いだけが、ゆっくりと意識の底に沈んでいく。

「……っ、か……あ……」口が動いても声は出ない。

目を開けようとしても、瞼が重くて持ち上がらない。

――終わるんだ。

ぼんやりと、そう思った。その時。

「……あなたの時間は、まだ終わっていません」誰かの声が、瓦礫の隙間から届いた。

それは不思議と暖かく、どこか懐かしい声だった。

女とも男ともつかない声。優しさの中に、どこか「約束」を含んだような響き。

悠真の意識が、ゆっくりと、闇の奥へと引きずり込まれていく。

そして――彼は、目を閉じた。

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