第8話 記事と「取引」

(ニューズ・フロント紙・編集局 / 深夜)


白洲乙葉(しらす おとは)は、編集局の自席で、たった一人、青白いモニターの光(視覚)を浴びていた。

時刻は、午前2時を回っている。

再生中の映像には、音声がない。

だが、その無音の映像は、この国の立法府と司法府の根幹を揺るがす、最も雄弁な「爆弾」だった。


(……間違いない)


天羽麗奈と、桐谷冴。

地裁判決の夜、二人が別々のタクシーで、数十分の差を空けて同じタワーマンションに吸い込まれていく。

法務委員会参考人招致の前夜、そして当日の朝、二人が別々に出ていく。

東都大病院の騒動があった夜、二人が憔悴しきった様子で、再び同じ「家」に帰っていく。


白洲の指は、止まっていた。

目の前のスクリーンには、書きかけの記事が点滅している。


見出し:『婚姻平等法案、推進議員と担当弁護士に「利益相反」の重大疑惑』


ジャーナリストとしての本能が、サイレンを鳴らしていた。

これは、単なるセレブの「スキャンダル」ではない。

天羽麗奈は「立法」の当事者。桐谷冴は「司法」の当事者。

二人が私的な関係にあるとすれば、桐谷弁護士が法廷で勝ち取った「論理」も、天羽議員が国会で訴える「理念」も、全てが“個人的情実”という疑念に汚染される。

法の「天秤(メタファ)」そのものが、最初から傾いていたことになる。

これは、国民の知る権利に応える、紛れもない「公共性」のあるスクープだ。


(……だが)

白洲は、マウスを握る手に汗が滲むのを感じた。

(……私が、これを報じたら、何が起きる?)


脳裏に、法廷での桐谷冴の、のような声が蘇る。


『法は、“当事者性”ではなく“論理性”で動くべきです』


白洲がこの記事を出した瞬間、日本中が「論理性」ではなく、二人の「当事者性」だけに注目するだろう。

鷲尾泰臣(わしお たいしん)ら、保守派の歓喜する顔が浮かぶ。

法案は、廃案。

通達は、撤回。

地裁判決の「違憲」という文字は、「不純な動機による司法の暴走」と上書きされる。


(……私が、それを望んでいる?)

白洲は、自問した。

自分が書きたいのは、二人の女のセンセーショナルな関係か?

それとも——。


彼女は、数日前の朝刊、自社の社会部が放った『法なき家族、命の壁』という、あの重いスクープ記事に視線を移した。

(……私は、あの“壁”の、続きが知りたい)


白洲は、書きかけの記事(未送信の記事)のウィンドウを、閉じた。

そして、代わりに別の番号に電話をかけた。

相手は、天羽麗奈の秘書官。


「ニューズ・フロントの白洲です。天羽先生に、緊急の確認事項がございます。今夜……いえ、今からお時間をいただくことは可能でしょうか」


***


(法務省・民事局長室 / 同時刻)


「——だから、これ以上の“逸脱”は認められん、と法制局(おとなり)は言っているのだ!」


民事局長・高坂の苛立った声が、深夜のフロアに響いていた。

彼の前には、内閣法制局の「赤字」がびっしりと入った通達草案(設計図)が突き返されている。

真壁ひかり(まかべ ひかり)は、その「赤字」を無表情で見つめていた。


『現行民法の「婚姻」の定義を、行政通達ごときが拡張解釈することは、立法府(国会)の権能を侵害する』

『医療現場の“混乱”は理解するが、それは“立法(法改正)”で解決すべき問題であり、行政(通達)の裁量の範囲ではない』


(……虎口(こぐち)が、閉じた)


麗奈が投下した「燃料(世論)」は、法務省(ここ)までは動かした。

だが、日本国家の「法(ロジック)」の門番である内閣法制局は、その火を冷徹な論理(アーキテクチャ)で消し止めた。

「第三の車輪」は、完全に停止した。


高坂は、この「負け戦」を終わらせたがっていた。

「……真壁くん」

「はい」

「天羽議員には、私から『法制局の抵抗が強く、困難』と伝える。君も、これ以上……」

「局長」

真壁は、静かに遮った。「まだ、手はあります」

「……何?」

「法制局を動かすのは、政治家の“圧力”ではありません。彼らが最も恐れるもの——“世論(がいあつ)”、そして、我々(官僚)よりも強固な“法解釈(ロジック)”です」


だが、その「世論」は、法制局の壁に阻まれて届かない。

真壁は、自分の無力さを感じていた。

(……天羽先生。あなたの“燃料”は、ここまでです)


***


(都内ホテル・ラウンジ / 午前3時)


白洲乙葉は、冷め切ったコーヒーカップを見つめていた。

天羽麗奈は、約束の時刻通り、一人で現れた。

いつもの完璧な微笑み。だが、こんな時間に呼び出された意味を正確に理解している目だった。


「……それで、白洲さん。私(わたくし)の睡眠時間を削ってまで、確認されたい『緊急の事項』とは、何でしょう?」


麗奈が、牽制するように言った。

白洲は、ICレコーダーをテーブルに置いた。

だが、録音ボタンは押さなかった。

「先生。私は昨日、『嘘』をつきました」

「……と、仰いますと?」

「『真壁さんとの密会はガセだ』と。……ですが、先生は、法制局と戦う真壁さんを、国会の廊下で激励しておられた」


麗奈の微笑みが、わずかに硬直した。

白洲は、続けた。


「そして、私は、先生が桐谷冴弁護士と、同じマンションに帰宅されるのを、この目で確認しました」


沈黙。

ラウンジのBGM(ジャズ)の音が、やけに大きく聞こえる。

麗奈は、動かなかった。

背後の窓は暗く、彼女を守る「逆光」は、ない。

彼女は、ただ、白洲の目を真っ直ぐに見返していた。

その目には、政治家の仮面(ペルソナ)の奥に、一人の人間としての、深い疲労と、覚悟が浮かんでいた。


「……白洲さん」

麗奈が、絞り出すように言った。

「あなたは、それを記事に?」

「記事は、書きました」

白洲は、淡々と答えた。

「『利益相反』。法案も、通達も、全てが“情実”の産物として潰される。鷲尾先生が、一番喜ぶ見出しでしょうね」

麗奈は、ゆっくりと目を伏せた。

その細い肩が、一瞬、震えたように見えた。


「……なぜ、今、それを私に?」

「確認するためです」

「……何を」

「先生。私は、政治家の“スキャンダル”が書きたいのではありません」


白洲は、初めて、ジャーナリストとしての「本音」を剥き出しにした。

「私は、“制度”が書きたい」

麗奈が、ハッとして顔を上げた。

「もし、私がこの記事を出せば、議論は『二人の関係』に矮小化される」


白洲は、続けた。

「私が知りたいのは、そこじゃない。私は、東都大病院で起きた『制度の壁』の“続き”が知りたい。……先生。あなたのリークで世論は動いた。だが、肝心の法務省(真壁さん)が、内閣法制局(虎口)で止まっている。……そうですね?」


麗奈は、目の前のジャーナリストの「意図」を、ようやく正確に理解した。

白洲は、この「爆弾(スキャンダル)」を、脅迫の材料として持ってきたのではない。

「取引(ディール)」の材料として持ってきたのだ。


「……」

麗奈は、小さく、しかし強く頷いた。

「分かりました」

白洲は、ICレコーダーをポケットにしまった。

「先生は、私に“個人的な関係”を話す必要はない。その代わり、内閣法制局が、今、どの条文の、どの解釈で、通達をブロックしているのか。その“制度の壁”の、正確な設計図(ロジック)を、私にください」


麗奈の目に、驚きと、そして、このジャーナリストに対する畏怖に似た「奇妙な信頼」が浮かんだ。

「……白洲さん。あなたは、それをどうするおつもりで?」

「私は、あなた方の“関係”は報じない」

白洲は、立ち上がりながら言った。

「代わりに、法制局の“怠慢”と“時代錯誤な法解釈”を、スクープとして報じる。……“政治部”ではなく、“社会部”の、人命に関わる『制度の欠陥』として」


麗奈は、息を呑んだ。

白洲は、スキャンダルという「政治的爆弾」を、法制局という「行政の壁」を打ち破るための「論理的砲弾」に、すり替えようとしている。


「……民事局長室です」

麗奈は、決断した。

「高坂局長。彼が、法制局の“赤字”が入った草案そのものを持っているはずです。……彼を、叩いて」

「……感謝します」

白洲は、それだけを言い残し、ラウンジを去っていった。


***


(都内タワーマンション / 午前4時)


麗奈は、亡霊のような足取りで、自室のドアを開けた。

リビングのソファには、明かりもつけず、桐谷冴が座っていた。

彼女の前のテーブルには、膨大な訴訟資料が積み上がっている。

「……おかえり」

冴の声が、暗闇から聞こえた。「遅かったわね」

「……ええ。少し、“厄介な”会合が」

麗奈は、ジャケットを脱ぎ、冴の隣に力なく座った。


彼女は、今夜起きたこと——自分たちの秘密が、一人の記者に完全に握られたこと——を、冴に言えなかった。

この「法(ロジック)」の体現者の前で、そんな「政治(取引)」の話を、どう切り出せばいいのか。

これは、自分が呑むべき「濁(だく)」だ。

「……法制局の件?」

冴が、暗闇の中で問いかける。

「真壁さんは、どうなったの」


麗奈は、冴の顔を見つめた。

この、揺るがない、真っ直ぐな瞳。

この瞳を守るためなら、自分はいくらでも「濁」を呑もう。


「……大丈夫」

麗奈は、精一杯の微笑みを作った。

「……もうすぐ、“援護射撃”が来るわ。法制局の、古い“論理”を吹き飛ばす、強力な“砲弾”が」

「……そう」

冴は、麗奈の言葉の裏にある、硝煙の匂いには気づかない。

彼女は、目の前の資料に視線を戻した。


「……良かった。こちらも、進展があった」

「え?」

「高裁(こうさい)の、口頭弁論期日が決まったわ」


冴の横顔は、次の戦場である「高等裁判所」という「建築(アーキテクチャ)」を、すでに見据えていた。

麗奈は、その横顔を、ただ黙って見つめていた。

自分たちの足元に仕掛けられた「爆弾」の存在に気づかないパートナーの、その「純粋さ」を守れたことに、安堵しながら。

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