第6話 第三の車輪、官僚の橋

(東都大学病院・集中治療室前 / 午前3時)


カテーテル治療は、成功した。

佐々木美緒(ささき みお)のバイタルサインは安定し、今は鎮静剤で深く眠っている。


「……たこつぼ心筋症でした。極度の精神的ストレスが引き起こしたものです」


あの医師——名を「城戸(きど)」という——が、桐谷冴(きりたに さえ)と小野寺結衣(おのでら ゆい)に説明していた。その顔には、規則(ルール)を破った興奮と、職務を果たした安堵、そして今後訪れるであろう査問への覚悟が入り混じっていた。

「……ありがとうございました」

結衣は、その場で崩れ落ちそうになるのを、冴が支えた。

「礼を言われる筋合いはない。職務を果たしただけだ」

城戸医師は、ぶっきらぼうに言った。


「だが、桐谷先生。あなたの“仮処分申立”は、続けてください」

「……え?」

「俺は、規則を破った。査問委員会(リスクマネジメント)に、この判断の“正当性”を示さねばならない」

城戸は、ERの喧騒を背負いながら言った。

「あんたの『法』が、俺の『医療』を、事後承諾でいいから守ってくれ。……じゃないと、次の医者は、もうこの“橋”を渡れなくなる」


冴は、城戸の目を真っ直ぐに見返した。

(……法が、現場に“借り”を作ってしまった)

「……必ず。必ず、申立は通します」

冴は、深く頭を下げた。

弁護士としてではなく、同じ「制度」と戦う、一人の人間として。


***


(都内・某テレビ局 社会部 / 午前5時)


「——デスク! 第七版、差し替え間に合いますか!」

社会部のフロアが、夜明け前の薄暗がり(視覚)の中、異常な熱気を帯びていた。

天羽麗奈(あもう れいな)が「燃料(リーク)」を投下した、懇意のデスクが怒鳴り返す。


「何だ! 死亡記事か!」

「いえ! 逆です! 昨夜の東都大病院の搬送、例の“同性婚訴訟”の原告です!」

「……知ってる。それがどうした」

「同性パートナーが『家族じゃない』と手術同意を拒否され、治療が一時ストップしました!」


記者が、興奮して原稿を突き出す。

「医師が、最終的に規則を破って執刀。一命を取り留めた、と」

デスクの目が、カッと見開かれた。

「……制度の、壁」

「はい! まさに“命”と“制度”の天秤)です! しかも……」

「まだあるのか!」

「原告は、DV加害者の元パートナーから脅迫を受けていた。そのストレスで倒れた、と。ネタ元は……東都大病院の、城戸医師(本人)です」


デスクは、椅子を蹴立てて叫んだ。

「……印刷に回せ! 見出しは『法なき家族、命の壁』だ! 政治部(・・)には絶対に渡すな! これはイデオロギー(政治)じゃない、人命(社会)の問題だ!」


***


(法務省・民事局長室 / 午前8時30分)


法務省民事局長・高坂(たかさか)は、不機嫌そうに湯呑みの茶(味覚)をすすった。

彼の前には、今朝の社会面(・・)のスクープ記事と、彼の部下である真壁ひかり(まかべ ひかり)が、直立不動で立っていた。


「……真壁くん」

高坂は、新聞紙を指で叩いた(聴覚)。

「これは、一体どういうことかね」

「記事の通りと、認識しております」

真壁は、表情を変えずに答えた。

「私が聞いているのは、そこではない」

高坂の苛立ちが、声に滲む。

「なぜ、昨夜、東都大病院から『同性パートナーの医療同意』に関する問い合わせがあったことを、私に即時報告しなかったのかね?」

「局長はすでにご退庁されておりましたので、緊急性は低いと判断し、今朝のブリーフィングでお伝えする予定でした」

「緊急性が低いだと?」

高坂の声が、大きくなる。

「朝刊トップだぞ! しかも、例の“違憲判決”の原告本人だ! これはもはや、単なる法解釈の問題じゃない、政治マターだ!」


真壁は、待ってましたとばかりに、一歩前に出た。

「局長。だからこそ、ご提案がございます」

真壁は、高坂のデスクに、一枚のA4資料を滑らせた。

表題:『医療現場における「家族」の定義に関する行政通達(草案)』

高坂は、そのタイトルを見ただけで、顔をしかめた。

「……、だと? 正気かね」

「正気です」

真壁は、即答した。


「これは、天羽麗奈議員が非公式に提示してきた、あの“地雷”そのものではないか」

「天羽議員の私案を、昨夜の“事案”に基づき、法務省民事局の管轄(ロジック)として再構成したものです」

真壁は、完璧な官僚答弁で返した。

「再構成……?」

「天羽議員の案は『性的指向による差別の禁止』という、“理念”が先行していました。それでは、内閣法制局も、ましてや党の保守派(鷲尾派)も納得しないでしょう」

「当たり前だ」

「ですが、局長。昨夜起きたのは“理念”の問題ではありません。“法解釈の現場的混乱”です」


真壁は、記事の『医師、規則破り執刀』という部分を指差した。

「医師法、医療法、民法(親族編)。関連法規が、現代の家族形態(パートナーシップ)を想定していないため、医療現場が“違法な医療行為”か“患者の死”かという、究極の選択を迫られている。これは、法治国家の“バグ”です」

真壁は、息を継いだ。

「そして、局長。法解釈の統一性を図り、行政の現場(病院)の混乱を収拾することこそ、我々、法務省民事局の“所掌事務”ではありませんか?」

高坂は、押し黙った。

真壁の論理(アーキテクチャ)には、一点の隙もなかった。

「イデオロギー(理念)の問題」を、「官僚の職務(所掌事務)」へと、完璧にすり替えてみせたのだ。

「……しかし」

高坂は、最後の抵抗を試みた。

「この通達を出せば、政治がどう反応する……。内閣法制局(虎口)は、何と言うか。鷲尾先生が、黙っていると思うかね?」

「内閣法制局は『既存の法律の解釈・運用』の範囲内であれば、文句は言えません。これは“新法”ではありませんので」

真壁は、淀みなく答えた。

「そして、鷲尾先生には……」

真壁は、そこで初めて、わずかに人間的な表情を見せた。

「……こう、ご説明申し上げるべきかと」

「……何だ」

「『先生。これは“家族の形”を変える話ではございません。病院で“命”を落とす国民を、一人でも減らすための、事務的な手続き(運用改善)です』と」


高坂は、深く、長く息を吐いた。

湯呑みの中の茶は、すっかり冷め切っていた。

「……その草案(それ)を、内閣法制局(おとなり)に持っていくのは、君かね?」

「……私が、参ります」

高坂は、決断した。

「……いいだろう。局議には、私から通す」

彼は、冷めた茶を飲み干した。「だが、真壁くん」

「はい」

「君は、キャリアを失うかもしれんぞ」

真壁ひかりは、無表情のまま、深く頭を下げた。

「……承知しております」


「第三の車輪(行政ルート)」が、官僚機構の分厚い扉をこじ開け、ゆっくりと、しかし確実に回転を始めた瞬間だった。


***


(桐谷冴の仮オフィス / 同日朝)


冴は、ほとんど一睡もせずに朝を迎えていた。

仮処分申立書の最終チェック。城戸医師への報告。美緒と結衣のセーフハウスの再手配。

弁護士として、やるべきことは山積みだった。

だが、彼女の心は、昨夜の城戸医師の言葉に囚われていた。


『あんたの「法」が、俺の「医療」を守ってくれ』


(……守る?)

冴は、法廷ノートに視線を落とした。

「朝の空」色のインク。

自分は、法は「攻める」ものだと思っていた。

違憲判決を勝ち取り、古い制度の「壁」を打ち破る、鋭い「矛」だと。

だが、城戸医師は、法を「盾」として求めた。


(……城戸医師は、規則を破った。美緒さんは、助かった。でも、それは“法”の勝利ではない)


それは、現場の個人の良心に依存した、属人的な「奇跡」だ。

「奇跡」に頼らなければ救われない制度(システム)は、欠陥品だ。

冴は、仮処分申立書の最後の署名欄に、万年筆を走らせた。

この申立が通っても、救われるのは美緒と結衣だけ。

次の「美緒さん」は、また同じ壁にぶつかる。


(……麗奈)


彼女の脳裏に、昨夜のタクシーの中での、あの冷たい声が蘇る。

『あなたの怒りを、私が“燃料”にする』

その時、事務所のドアがノックされ、事務員が朝刊を手に飛び込んできた。

「先生! これ! 朝刊の社会面!」

冴は、差し出された新聞紙に目を見張った。

『法なき家族、命の壁』

『医師、苦渋の決断「規則破り」執刀』

(……これか)

冴は、記事の熱量に圧倒された。

麗奈が言っていた「燃料」とは、これだ。


自分の現場での「怒り」と「絶望」を、彼女は一夜にして、全国民が目にする「社会問題」という名の「政治的エネルギー」に転換してみせた。

(……あなたは、それ(・・)を“燃料”にして、一体、何を動かすつもり……?)


***


(国会議事堂・廊下 / 同日午前)


法務省での激論から数時間後。

真壁ひかりは、内閣法制局の参事官との「非公式折衝」を終え、重い足取りで霞が関の合同庁舎に戻ろうとしていた。

法制局の感触は、最悪だった。「時期尚早」「立法趣旨の逸脱」——予想通りの「壁」だった。


(……やはり、官僚(わたし)だけでは、この“橋”は架けられない)


その時、国会の議員用通路を通りかかった彼女の視界の隅に、見慣れた人影が映った。

天羽麗奈。

彼女は、まるで待ち伏せしていたかのように、公衆電話(象徴)のブースの陰に立っていた。

周囲に秘書はいない。

真壁は、足を止めなかった。

麗奈も、彼女に話しかけない。

二人は、すれ違う。

ただ、すれ違う、その一瞬。

「……“燃料”は、燃え上がっています」

麗奈が、誰にともなく、前を向いたまま呟いた。

「……“橋”は、架かりますか?」


真壁は、足を止めずに、同じように前を向いたまま答えた。

声は、書類を読み上げるように、平坦だった。

「……“設計図(通達草案)”は、完成しました」

「……」

「ですが、“検査官(内閣法制局)”が、虎口(こぐち)です」


すれ違った後、真壁は一度だけ振り返った。

麗奈は、窓から差し込む「光」の中に立ち、こちらを見ずに、静かに頷いていた。

その胸元で、小さな天秤が揺れていた。

「第三の車輪」は、回り出した。

だが、その前には、日本という国家の「法(ロジック)」の門番が、静かに、しかし強固に立ちはだかっていた。

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