C評定の意味
結局、空を見上げながら呆けていると体が光り輝き、帰ることができた。
行きは胃液を絞り出すほどの地獄だったのに、帰りは一瞬。
気づけば白い空間に戻っていた。
最初に起きたときとは違って、迎え入れてくれる人はいなかった。
あの強面の男性はどこへ行ったのだろう。
方向音痴にしては珍しく勘が働き、向かう方向が何故かわかったため、ゆっくりと進んでいく。足音だけが、静かに響く。
――ここは一体どこの世界なのだろうか。
固有名詞は聞き取れなかったが、それ以外はリスニングに問題がなかったので、以下のどちらかだろうと推測している。
1. 日本語を用いている
2. 自動翻訳機能が働いている
多分後者な気がしなくもないが、正直どちらにせよ助かっている。
英語の授業ですらヒイヒイ言っているのだから、更に異世界語の勉強をさせられるなんて溜まったもんじゃない。
廊下を抜けると、突然「総合窓口です」みたいな看板が似合いそうな空間に出た。
え、ファンタジーかと思ってたら、市役所感がすごいんですが。
ずらりと並んだ机。山積みの書類。無表情でペンを走らせる人々。蛍光灯の下で黙々と作業をする姿は、まるで年度末の税務署のようだ。
コピー機の音すら聞こえてきそうだ。いや、この令和にコピー機って。
辿り着く先は天国や地獄かもと怯えていたのに、まさか行政機関に来るとは思わなかった。
……書類を持ってるんだから、門前払いはされないよね?
眼の前に行列が2列あり、特に違いが見当たらなかったため近い方に並ぶ。
手元にある書類と言い、おそらく何かしらの手続きが必要なのだろう。
……そう、書類。
謎のキラキラは戻ってきたタイミングで一枚の紙へと変貌を遂げた。
こういう場合は羊皮紙みたいな雰囲気のある紙が手に入るかと思っていたが、学校のお便りとして配られるコピー用紙と大差ないような、安い手触りだ。
謎の文字で書かれた書類。
異世界文字とやらなのだろうか。
紙が薄すぎて裏に若干透けているのがなんともリアルだ。
言葉は自動翻訳だが、文字についてはその限りでないという、よくある異世界設定なのだろうか。
リスニングはかなり苦手だがリーディングは学校教育で慣れているため、勉強の機会さえ貰えれば、最低限なんとかなるだろう。なるはずだ。だといいな。
「次の方」
「はい」
自分の番になったため、書類を手に前へ向かう。
……やばい、こういうとき何言えばいいんだろう。
カンペ無しでの会話がかなり苦手で、スピーチや電話の際もしっかり原稿を作ってから本番に望む派だったことを思い出した。
多分病院の診察券を出す感覚で行けば問題ないはず……。
「ええっと、初めてなんですが」
「初めての方は隣の列になります。……次の方どうぞ」
――え。
女性はしっしっ、と手をふると、自分には目もくれずに後ろの人間に声をかけた。
聞いてないが?
初診、再診で受付が違うような運用をしているなら、2つの列でもっとわかりやすく明示しておいてくれ。
なんののぼりも立っていないじゃないか。
憤慨しながらもう1つの方の列に並ぶ。
――どうして何も説明してくれないんだろう。
初めてだから、わからないのは当たり前なのに。
言いたいことはたくさんあった。でも、言えなかった。
列を間違えたのは自分。文句を言う資格なんてない。そう思うと、喉の奥で言葉が固まって、出てこなくなる。
どうやら他にも列を間違えてしまった人がいるらしく、こちらの列の最後尾は若干カリカリしている人が多いような気がした。
みんな不機嫌そうに黙っている。
――わたしも、あんな顔をしているんだろうか。
大人しく列に並んで黙って自分の順番を待つ。
陰キャは空き時間に初対面の相手と仲良く会話などできないのだ。
それに、今は誰とも話したくない。
ただ、この妙に冷たい空気の中で、自分の番が来るのを待つだけ。
待つこと数分。
今度こそ自分の番が回ってきた。
「初めての方ですね」
「はい……」
よかった、今度は合っていたようだ。
ホッとしながら、握りしめていた書類を提出する。
順番が来て、あちらからは日本語で何かを書かれた薄い板を差し出された。
――あれ、こっちは読めるんだ。
首を傾げながらも覗き込んで、思わず顔をしかめる。
生年月日欄は空白。住所も空白。自分の名前欄すら空白だった。
――何もない。
何もかもが、消えている。
まるで存在そのものが消されてしまったような、そんな空虚さが胸に広がる。
自分が誰なのか、どこから来たのか、いつ生まれたのか。
そんな当たり前のことすら、もうわからない。
手元の板が、やけに冷たく感じられた。
「えっと……これ、埋めなくていいんですか」
声が震えそうになるのを、必死で堪える。
「既に消失しているデータは回復不能ですので」
事務的に告げられた。声に抑揚がなく、感情が死んでいる。
――回復不能。
その言葉が、胸に突き刺さる。
もう、戻らない。思い出せない。取り戻せない。
手元の板に指を走らせると、ひんやりとした感触が伝わる。紙ではなく石のような硬質さで、すべすべしている。妙に既視感のある触感だ――。
不思議な懐かしさに指が止まった。
固まったわたしを見て女性は機械的に質問を投げかけてくる。
「他になにかありますか」
「あ、人名が聞き取れないことがあったんですが……」
「それは個人情報保護の観点からの仕様なので気にしないでください」
「えっ?」
個人情報保護?仕様?
また急にシステマチックな。
先程からファンタジー感がガラガラと崩れていく。本当にここは一体どこなのだろうか。
「はい、次の方」
あっさり処理され、流れ作業に乗せられるようにして、わたしは隣の女性の前へと押し出された。
無機質に事務的な処理をされた最初の女性よりは柔らかい雰囲気をまとっている。
果たしてこの女性はちゃんと質問に答えてくれるだろうか。
「よ、よろしくお願いします……」
「どうだったかしら、初めての案件は」
「正直何がなんだかさっぱりで、流れに身を任せていたら終わったという感覚でした」
……初っ端から質問のタイミングを逃した。
だが、会話の方向性としては先程からの謎現象に繋がっている。
なんとか軌道修正を図ることで、自分の欲しい情報を引き出すことができるかもしれない。
「これからこんな感じで案件をさばいてもらうことになるから」
「案件、ですか?」
「様々な人の悩みを《案件》として管理するのが本部の役目なのよ」
「はぁ……」
「まあそこまでしんどい内容は少ないと思うわ」
少ない、であって0ではないんですね?
「あの、そもそも――」
ここがどこなのか、何をする場所なのか、聞きたいことは山ほどある。
「評定だけど、C判定ね」
話を遮られてしまった。
――C判定。
基準が分からないが、音の響き的にあまり良くなさそうなのは伝わった。
どうやら、わたしはここでも劣等生らしい。
――ああ、この感じ。
頑張っても、頑張っても、「普通」止まり。
努力しても報われなくて、でも文句も言えなくて。
いつもそうだった、気がする。
記憶はないのに、この感覚だけは残っている。
――本当に、進歩がない。
「大学なら赤点ギリギリよ、もう少し頑張りなさい」
「通ったことないので知らないです……」
テストでいうと60点くらいということだろうか。
真面目にやったつもりなのに、C判定。なんだか理不尽な気がする。
でも、言い返せない。いつもそうだ。言いたいことがあるのに、言葉にできない。
喉の奥で、悔しさだけが渦巻いている。
「まず時間がかかりすぎね。15分もあれば十分に終わる案件だと思ったのだけれど」
それは正直自分も思っていた。
まずぬいぐるみを忘れている事に気がついたタイミングで、自転車が出発する前に荷物へ滑り込ませることができたら万事解決だったのだ。
もしくは見失わずに追いかけて、こっそり自転車のかごにぬいぐるみを忍ばせるのでも良かっただろう。
でも、方向音痴だったのは仕方ないじゃないですか。
そもそも説明が足りなかったのでは?
「あとは保育園への侵入が減点」
「……もしかして、何らかの罪に問われるんですか?」
ミッション達成のため、と正当化したが、やはりまずかったのだろう。
いや、園庭にはたしかに入ったが、建物内には一歩も足を踏み入れていないため、なんとか許していただけないだろうか。
「そういうわけじゃないけれど、まあ初心者があまり大人数のいるところへ向かうのはちょっと、色々とリスクがね」
リスク?
何のリスクなのか、具体的に教えてほしい。
それにしたってぼんやりとした説明だ。
「そういうときは事前に許可を取るとか、確認をしなきゃだめよ」
「はぁ……」
一体どのタイミングで、誰に確認をすべきだったのかさっぱりわからない。
もやもやとした思いを抱えたまま、それでもマシンガントークに気圧されてうなずくことしかできない。
言いたいことは山ほどあるのに、言葉が出てこない。
こういうとき、もっと上手く反論できたらいいのに。
「D判定が続くとランクが下がったり、ペナルティがあるから気をつけなさいね」
ペナルティ?
それは一体どんな内容なのか。
聞きたいけど、聞くのが怖い。
「……ちなみに今回はどういう対応が正解だったんでしょうか」
聞きたかったのに、また別の質問が先に出てしまう。
いつもこうだ。大事なことを聞けない。
「そのくらい自分で考えなさいな。これだから最近の若い人は」
急にディスられてしまった。
流石に説明が少ないでしょう。見て盗むにも限度があると思うのですが。
それでD判定を量産するようになったらどうしてくれよう。
心の中で反論するが、声には出せない。
いつもこうだ。言いたいことがあるのに、言えない。
「あの、少し質問したいことが……」
「書類手続きは終わったので次の手続きに進んでちょうだいね。ここ、混みやすいから」
まるでリプレイのように、わたしはあっさりと廊下の奥へ押し出された。
結局、何も聞けなかった。
自分の名前も、ここがどこなのかも、これから何をすればいいのかも、よく分からないまま。
白い廊下を歩きながら、ため息をつく。
足音だけが、静かに響く。
誰もいない廊下で、自分の足音を聞いていると、妙に心細くなった。
――どこへ行っても、わたしは変わらないな。
そんなことを考えながら、わたしは次の場所へと向かった。
言いたいことが言えなくて、流されるままで、何も掴めない。
名前も、記憶も、居場所も。何もかもが、曖昧なまま。
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