最低最悪のOJT

 ――いや、なんだ今の。

 少しドラマチックな始まり方をした気がしたが、気のせいだった。

 

「おえぇぇ……」


 すごく、気持ち悪い。


 胃が持ち上がったまま降りてこない。内臓全部がぐちゃぐちゃにかき混ぜられたみたいに。


「うぅ...」


 吐きそう。でも、吐けない。


 喉が締め付けられる。こめかみがズキズキする。


 

 記憶の無い間に下降が止まったようで、意識を取り戻した後は内臓に纏わりつく浮遊感にえずいていた。


 自分の三半規管の弱さを舐めていた。

 しかし、吐き気がするということは、肉体があるというわけで、つまり転移なのだろうか。

 ――そうだ、こういう時こそ現状把握だ。

 まだ痛むこめかみを抑えながら立ち上がり、ゆっくりと顔を上げる。


「玄関……?」


 何と、わたしは知らない人様のお家で蹲っていたようだ。


 革靴とパンプスとマジックテープの小さな靴が並ぶたたきに、上がり框には花柄の玄関マットが敷かれている。

 棚には家族写真、子どもの創作物のようなもの、家や車の鍵などが整理されている。

 日本家屋特有の光景に、ますます自分の置かれた状況が分からなくなる。


 あの白い空間はどこへ行った?

 強面の男性は?

 青白く光るパネルは?

 そして何より――ここはどこ?

 

 ……これ、不法侵入確定では?


 この状況で自分の姿を視認されてしまうと途轍もなく面倒なことになってしまいそうなので、不思議な力で透明になっていることを祈るしか無い。

 なぜだかは分からないが、玄関の扉は開かないという直感があったため、おっかなびっくり半開きのドアを通過してリビングへと向かう。


 窓辺にたなびく薄いレースのカーテン。

 部屋の中央にはダイニングテーブル。

 テーブルの上に置かれた、端っこが少し焦げたトーストに、子ども向けキャラクターの描かれた菓子パンのパッケージ。

 プラスチックのコップに注がれているのは、おそらくリンゴジュースではないだろうか。


 眼の前にはごくごく普通の一般家庭が映っていた。

 今までの非日常感から一気に揺り戻されて、二重の意味で眩暈がする。

 

 ……朝はご飯派なので多分わたしの家ではなさそうだな。

 完全に許容を超えた情報量を処理し切ることができず、どうでもいいことをつらつらと考えていると、ドタドタという音と共に階段から小さな影が飛び出した。

 

『ぱぱー!』

『遅いじゃないか、%&$#』

 

 まったくもって気が付いていなかったが、どうやらキッチンに父親らしき人物が居たようだ。この距離でわたしを無視して普通に会話しているということは、やはり自分の存在は見えていないらしい。

 

 しかし――何だろう。

 突然だったからなのか、混乱のせいなのか、うまく聞き取れない部分があった。

 おそらく保育園児の娘と父親の会話であることは推測できたのだが、名前だけが、どうしても耳に入ってこない。

 

 いや、正確に言えば、聞こえているはずなのに、脳が認識を拒否している。

 まるで音がノイズに変換されて、意味を成さない音の羅列になってしまうような感覚。


 昔から人の名前を覚えるのが苦手だったが、聞き取れすらしないのは別の問題な気がする。気持ち悪い。


『もうすぐ保育園に行く時間だから、ご飯を食べて、すぐに着替えような』

『うん』

 

 モヤモヤを胃と思いに抱えていると、父子がテーブルに座り会話を続ける。

 

 ――この状況を見せた人物は、一体わたしに何を期待しているんだろうか。

 ここに落ちて(?)くる前の会話では、わたしに仕事をさせたいという話だった。小さな子どものいる家で行う仕事といえば、ベビーシッターや家事代行だろうか。

 いや、今から保育園に行くタイミングで呼び出されるベビーシッターなど意味不明だろう。

 急に契約先に連れて来られた家事代行サービスにしては状況説明と本人わたしのスキルが不足し過ぎている。

 そもそもこんなアクロバティックな方法で従業員を送り込む業者の話なんて聞いたことがない。

 何でも燃えると言われている現代だが、これに至ってはご時世関係なく大炎上しかねない。


『いってきまーす』

 

 と、いつの間にか登園準備を済ませて玄関を出ようとする二人。

 やばい、何も理解できないまま状況に変化が生まれようとしている。

 取り残されないように注視していると、女の子が肩からかけているカバンから何かがぽろりとこぼれ落ちた。


『……?』


 視線を奪われ、思わず拾って手に取ってみる。

 どこか懐かしいような手触りに口元が綻びかけ、いやいやそんな場合ではないと口を結び手元を眺める。

 どうやら、タオルで作ったうさぎ、のようなものだ。大きな耳が特徴的で、手作り感のある温かみがある。


 柔らかい。


 手触りが優しい。作ってくれた人の温かみを感じる。

 

 わたしも、こういうものを大切にしていた、気がする。

 

 口元が、綻びかけた。


「……いやいや」


 そんな場合じゃない。

 

 わたしの視点が手元に集中してしまっているのがよくなかったのだろうか。

 ハッとして目線を上に向けると、父子共に、落としたものには気が付かず玄関を出ていくところだった。

 

「……わ、忘れ物ですよ」


 思わず声が出てしまうが、見えていないということはもちろん聞こえもしないようで、スルーされてしまう。

 先程通れそうにないと感じていた玄関は、家主の手によって開かれれば問題なく通行できるようで、慌てて後を追うように外へ向かう。


 ……想像以上に日光が眩しい!

 先程まで白い謎の空間、空調の効いた室内と快適な環境に居たからか、激しさを増す暑さに思わず蹈鞴を踏んでしまった。

 

 わたしがうだうだしているうちに、娘が自転車のチャイルドシートに乗せられてヘルメットを被るのが視界の端に映る。

 

 ……ちょ、ちょっと待って。

 慌てて走ったがもちろん自転車に追いつけるような脚力をチート能力として手に入れたわけでも無し。

 豆粒のように小さくなっていく背中をただ呆然と眺める他なかった。


「どうすればいいの……」


 暑さにやられたのか、3度目の目眩がしてきたような錯覚を覚えたため、とりあえず部屋に戻ってみる。

 誰も居ない伽藍としたリビングには、直前まで確かに居た父子の残香が漂っており、思わず心細さに涙が出てしまいそうだ。


 ……くだらないことに思考を飛ばす暇があったら、と必死に目の前の状況について考える。

 この状況がゲームにおけるクエストのような物だと考えると、おそらく『忘れ物を届けよう』という初心者向けイベントなのだろう。

 しかし、見えも聞こえもしないのにぬいぐるみを動かすことは問題ないのだろうか。そもそも手で持てている時点で何かがおかしい気がする。

 どこまで干渉が許されているのか線引きが見えないため、この後の最適解がわからず困惑するしかない。


 ウロウロと視線を彷徨わせていると、ローテーブルの隅っこに置かれたチラシが目に入った。


『わかば保育園 夏祭りのお知らせ』


 ――これじゃない?


 チラシを手に取り、内容を確認する。


 現在地がよくわからないが、大きなスーパーを目印にして保育園を目指すように地図が記載されているため、電柱や掲示板を確認しながらの移動であれば何とかなるだろう。


 側から見たら、年齢を間違えているとしか思えないおつかいに見えるのかもしれないと考えながら、チラシとぬいぐるみを握りしめて、わたしは踏み出した。


 ▽▲▽

 

「すっげぇ時間かかった……」


 外に出てみると思った以上に閑静な住宅街であり、スーパーがどこにあるかなどさっぱりわからなかった。

 とりあえず信号や大きな通りが出るところまで直進しようと東西南北試してみたが、まさか一番最後が正解だったとは。よくよく振り返ってみると徒歩10分程度で着ける距離だった。それを5倍以上時間をかけてしまうとは。

 記憶と一緒に方向感覚も落っことしてしまったみたいだ。今回のことが解決したらまとめて探しに行かねば。

 

 ――閑話休題。


 建物の表札を確認する。

 

『わかば保育園』

 

 チラシと見比べる。

 名前、場所共にあっていそうだ。


「さて、ここまで来たのはいいとして……」


 誰かさんが到着まで時間をかけすぎたせいで、確実に父親はもうこの場にいないだろうから、娘にタオルうさぎを渡せばミッションコンプリートだろう。

 だろうことはわかるのだが。


「やっぱり入らないとダメかな……」


 先ほどの住居侵入に関しては、気が付いたらという感覚であり、また不可抗力であった為そこまで気にならなかった。だが、自分で意思を持って保育園に足を踏み入れるのは、文字通り一線を越えてしまう気がする。

 先程の流れを踏まえればわたしの姿が視認されない事はほぼ確実だが、仮に誰かにこの姿を見られてしまっていたら、不法侵入罪以外の余計な風評被害が付いてしまいそうだ。


 ――ええい、ままよ。


 正門でまごまごしていても事態の進展が見られない為、意を決して敷地内に足を踏み入れる。


 特にトラップが仕掛けられているわけでもなく、ごくごく普通の園庭の風景が広がっていた。

 砂場に滑り台、鉄棒にブランコ。

 風景に見覚えがなかったが、記憶喪失のせいなのか、幼児期健忘のせいなのかはっきりしない為割愛させていただく。


 決意して敷地内に侵入下はいいが、建物に足を踏み入れるのは流石に勇気が出ない。

 出入りを見逃したら大変だし……と自分に言い訳をしながら、園庭から順繰りに確認をすることにした。


 人の顔を覚えるのはかなり苦手であるため、朝の顔を見つけられるか自信がない。幸い、人の声を聞き分けるのは得意――なはず――であるため、甲高い声が聞こえる場所を虱潰しに探していく。


 園庭を歩き回る。

 砂場で遊ぶ子どもたち、先生に甘える子どもたち、追いかけっこをする子どもたち。

 みんな楽しそうに笑っている。

 その中に探している子はいない。

 

 ――園庭の隅っこ、小さなお城のようなミニハウスの中。


『ミミちゃん、ミミちゃん……』


 グスグスと泣きながらスモックの裾を握りしめる女の子。目元は真っ赤に腫れ上がり、髪の毛はぐちゃぐちゃになっていた。


 ――多分あってる、はず。

 直感だけでなく、状況証拠的にもこの子がうさぎを忘れた今朝の子である確率が高いだろう。

 顔を見れば思い出せるだろうって?わたしの記憶能力の低さを舐めるな。

 名前すら思い出せない状態で、人の顔なんて覚えられるわけがない。

 

 タオルの持ち主に確信を持ち、思わず手に力を込めると、何故だかわたしのお気に入りのガーゼケットが思い出された。

 ――わたしも小さい頃は外に持ち歩いてたなぁ。

 手触りの良いそれを思い浮かべたが、どうしても柄だけが思い出せない。

 そこまで記憶力が悪かったかなぁと首を傾げていると。


『ひっ、ひっく、ひぅ』


 泣きすぎてやや過呼吸気味になっている女の子に思わず姿勢がピンと伸びる。

 これ以上焦らす(?)のもなんなので慌ててこの子にアプローチを掛けることにした。

 ほぼ確定だろうけど、さり気なくぬいぐるみを視界に入れて、反応がなければ別の子を当たることにしよう。


 ミミちゃん、と呼ばれているだけあって、大きな耳のついたウサギを模したタオルハンカチの飾りを、ミニハウスの窓の部分に立てかける。


 そして、どうしようかと数秒迷ったあと、コンコンと外壁を叩いてみた。


『……?』


 どうやら、わたしが発した音はしっかり伝わったようで、キョロキョロと周りを見渡した女の子がミニハウスから体を出したあと――


『ミミちゃん!!』


 感動の再会を果たした。


 ……よかった。だいぶ時間がかかってしまったが。

 

 女の子はぬいぐるみをひしっと抱きかかえている。涙で濡れた顔が、一気に笑顔に変わる。


 その表情を見ているだけで、何だか胸が温かくなった。

 大切なものを取り戻した喜び。

 それを見守ることができた。


 誰かを助けられた――それが、嬉しい。


 記憶はない。過去もわからない。

 でも、この温かさだけは、確かにある。

 

 

 これでノルマ達成……ってことだよね?

 この後自分はどうなるんだろうか、まさか似たようなことを繰り返しやらされるんだろうか……。


 

 そのとき。


 どこからともなく、キラキラと光る塊が降ってきた。


 「...?」


 反射的に、手をお椀の形にして受け止める。


 眩しい。

 すごく、眩しい。


 正直眩しすぎて視界に不快感があるのだが、不思議と暖かさや冷たさといった温度の情報は感じない。


 光は手のひらの中でゆっくりと形を変えながら、やがて小さな球体のようにまとまっていく。


 「...なにこれ」


 綺麗。

 でも、何?

 

 「持って帰れってことかな……でも何に使うの、これ?」


 人に見えてなさそうな気がするし、ファンタジー感たっぷり。

 集めたら何かに換金できるとか……?いや、そんなゲームみたいな話あるんだろうか。

 まあ、帰宅許可が出たと思って素直に喜んでおこう。

 自分の方向感覚に不安を覚えてしまったので、土地勘のない場所に居続けるのも怖い。

 落ちてくる前の空間も大概慣れているとは言い難いが。


 両手を丸め、眼の前の非現実的な現象に呆けていること数秒。


「帰り道のルート案内とか……ないんですか……?」


 知らない保育園から知らない白い空間への帰り方なんて、方向音痴関係なくベリーハードであることを悟ったわたしは途方に暮れたのだった。

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