第6話:手のひらの星図

 制作は三回に分けて行われることになった。

 一回目に下塗りと主線を入れ、二回目から本格的に仕上げていく。

 

 そして、三回目。

 八月末の満月をスタージョンムーンというのだと伊織が教えると、その日が良いと若菜がリクエストした。

 伊織は星が好きだった。村の実家には小さな天文台があるのだと若菜が言うと、伊織は目を丸くした。

 

 月明かりが、若菜の姿を浮かび上がらせる。

 肩から胸へと掛けられた生成りの薄い綿の布に、やわらかく光がとおる。

 布は、解けない程度に、どこか頼りなく。

 若菜の呼吸にあわせて、襞のように揺れていた。

 

 彼女は床の上で、膝を抱くようにして座っている。

 腕の中には、枯れた紫陽花の束。

 褐色の花弁の中に、かすかに残る紫が、伊織の瞳で揺れていた。

 

 その背のなだらかな線も、やや俯いた眼差しも、すべては、若菜の意思によって伊織の前に差し出されていた。

 

 私が描くのは、肌ではなく光。

 髪ではなく、気配。

 

 そんな風に自分を落ち着かせながら、伊織は若菜のいまを写し取る。

 時の経過とともに光の伝う頬を、唇を、肩を。

 絵の具の匂いと、乾いた花のカビのような香りと、若菜の息づかいが混ざる。

 見つめて、描いているのは伊織の方なのに、伊織は自分が、星に眼差されているような気持ちになった。

 

 五時間に渡る制作の間、伊織は度々、若菜の体に手を伸ばして支える。

 その度に、若菜は痺れた体に、新しい色が垂らされるように感じた。

 そして最後に伊織が筆を置いたとき、立ち上がろうとしてよろめいた若菜に、伊織が駆け寄る。

 そのまま支えるようにして、ふたりでキャンバスの前へ。


 なにかが足りない気がする。

 瑞々しさなのか、痛みなのか。

 なにかは分からないが、欠けている気がした。

 伊織は小さく、唇を噛む。


「まだ、なにか足りない……?」


 そう問うた若菜の湿った息が、伊織の汗ばんだ首筋を撫でる。

 視線が交わる。

 伊織が息を呑むのと、ふたりの影が重なるのは、ほぼ同時だった。


「足りないです」


 ほとんど泣きそうなその声は、伊織。


「あんな火照った目で見るの、ずるい」

「火照ってなんか……」

 

 やっぱり、見透かされている。

 ただの欲望ではない。でもそれは、疼きだった。

 目の前で無防備な姿を晒す彼女を、もっと深く知りたい。

 そんな、切実で、透明な、熱だった。


「アタシも、知らないから。伊織が、教えて? 足りないもの」


 自分のことは、自分が一番知らないのかもしれない。

 とりわけそれが、深い場所になればなるほど。

 それなら、自分は若菜の鏡になりたいと、伊織は思った。

 そうして、若菜が自身のうつくしいものを探り出せるなら、いくらでも自分を差し出せる。

 それはきっと、自分にとっても必要なことかもしれない。

 若菜という鏡に映った自分を見つめて、そうしてようやく、ひとりとひとりに、なれるのかもしれない。

 誰にでもできることでは、ないからこそ。

 

 砂糖菓子になったみたいだと、伊織は夢見心地に思った。

 自分の輪郭を若菜がなぞるたび、境界線がくっきりと鮮明になるように感じて、それからゆっくりと融けて、曖昧になっていく。

 

(……男の人と、ぜんぜんちがう)


 その指先も、唇も、舌も。

 触れ合うものすべてが、まったく違うマテリアルで出来ているような。

 同じ人間なのに、別の生き物のように感じた。


 それは相手が女性だからなのか、それとも若菜が特別なのか。

 きっと後者なのだと、伊織は思った。


 伊織が涙を流すたび、若菜は親猫が子猫にするように、それを掬う。

 しょっぱい。

 そう言いながら、でも、笑わない。

 いまは笑わなくてもいいのだと、言われているような気がした。

 赦されているのだと。

 

 やわらかくて、甘くて、冷たくて。

 それでも芯は、火照っている。


 制作と行為の疲れで微睡みながら、伊織がそんな風に言うと、若菜はケラケラと笑った。

 なにかに喩えて、と伊織が強請せがまれる。

 

「ホットワッフルのバニラアイス添え……みたいな?」

「じゃあ、男の人は?」

「……岩おこし?」


 ツボにハマった時の常のように、若菜がお腹を抱えて笑う。

 いまはその揺れが、直に伊織に伝わってくる。

 それがなんだか、無性に愛おしかった。


 伊織は以前考えたことを、ふと思い出した。

 若菜が、おひとり様でも良いかもしれないと言ったとき、若菜くらい魅力的な人でも、そんな風に思うのかと。

 そういう人は、自尊心が高くて釣り合う相手がいないから、きっとひとりでいるのだろう。

 かつての自分なら、そんな無責任な考えをどこかで抱いていたかもしれない。

 傲慢さゆえなのだろう、と。


 でも、若菜と関わって、そう単純なことではないと。そんな当たり前を痛感した。

 こんなに思いやりがあって、感受性も感性も豊かで、楽しくて。

 でも、それ故に、きっと感じすぎてしまうのかもしれない。色々なことを。

 だからこそ、いつも努めて、軽やかに振舞っている。

 人はその軽やかさに惹き寄せられるけれど。

 きっと若菜にとっては、ヤスリを擦りつけられるような気持ちになることも、あるのかもしれない。

 ずっと、不協和音を聴かされているような。

 自分と相手のかたちの違いを、突きつけられ、押しつけられて、寄り添えば寄り添うほどに、やわらかい方がただ傷つき擦り減っていく。

 

 そんなのは、おかしな話だと、伊織は思う。

 以前の自分だったら、仕方ないと吞み込んでいたかもしれない。

 そういうものだと。

 

 でも、若菜がそんな風に苦しむのは、いまやもう耐え難い。

 この感情は、なんなのだろう。

 ただの同情でも、恩義でもない。


 伊織は、薄目を開ける若菜を見る。


 そうだ。当たり前のことなのだ。

 自分が想う、最も尊く、うつくしいものが、貶められている。

 それが、許せない。


 支配でも、崇拝でもなく。

 川の流れのように、空の青さのように、山の緑のように。

 ただそこにあるものを、見つめていたい。

 誰のものでもないし、平伏す対象でもない。

 ただ、寄り添い、ともに歩むもの。


 だからこそ、憤る。

 

「……伊織?」


 不安げな若菜の髪に指を通すと、伊織は立ち上がる。

 そのまま、ピアノの奥の薄闇へと融けていく。


「これ、触ってもいいですか?」


 そんな伊織の手が添えられているのは、古ぼけたナイロンのギターケース。


「うん、いいけど……?」


 ジッと音を立てて中から取り出されたそれは、年季の入ったアコースティックギター。

 若菜がこのアトリエに移り住んだ時から、忘れ去られたように片隅に置かれていたものだった。

 伊織はケースのポケットに入ったままのチューナーでチューニングをすると、ピアノの椅子に腰かけ、組んだ足の上にギターをかけて爪弾き始める。


 ――〝月の光〟。


 言わずと知れた、ドビュッシーの名曲。

 どこか男らしくすらある伊織の姿と軽やかな旋律を、若菜はうつ伏せに両手で頬杖をついたまま、耳に流した。

 

「伊織ってさ、期待を裏切らないのに、ちょっと外してくるのがズルイよね」

 

 弾き終えたあと、若菜のそんな言葉に、伊織は「私、なにか外してました?」と不安そうに問う。

 若菜は可笑しくなってコロコロと子犬のように転がった。

 ねぇ、なんですかと伊織に軽く揺さぶられながらも、全裸で足を組んでギターを弾く姿のことだとは言えず、笑いを噛み殺した。


「学生のとき以来、ずっと弾いてなかったから……お耳汚しを」


 そう言って伊織は自分の爪を見つめる。


「アコースティックって、爪伸ばすんだっけ?」

「だいたいの人は、そうだと思う」

 

 若菜は、ふうん、と特に面白くもなさそうに漏らした後、小さく「そのままがいい」と呟いた。

 

 

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