第5話:風の庭、瑠璃の音

 洗濯物を取り込むとき、コーヒーを淹れるとき、電車の車窓から景色を眺めているとき。

 伊織はふとした瞬間に、あの展示会での講評のことを思い出していた。

 彼女自身、不思議に感じるほどに。


(なにが、そんなに嫌だったんだろう……)

 

 あるいは、若菜を知らずに作品だけを見れば、普通に受け止められたのかもしれない。

 この作者はこんな痛みを抱えている。ただ事実として、そんな風に鑑賞してしまえたかもしれない。

 でも自分は若菜のことを知っている。その軽やかさや、笑顔の奥の繊細さを肌で感じてきた。

 だからこそ、その作品から感じたその落差に、痛みの深さを覚えたのかもしれない。

 そしてその痛みは、そのまま伊織の胸に深く刺さって、ずっと抜けないまま。

 その度、伊織は本当に心臓が痛むような気がして、胸に手を当てた。

 

 父は言っていた。

 本当に誰かのことを知りたいと思ったら、その人の生み出したものに触れると良いと。

 

 作品はあくまで作品だし、嘘もあれば、あくまでその人の一面に過ぎないのかもしれない。

 それでも、伝わるものはある。

 だからその時のために、ちゃんと感じるための余白は、残しておくこと。

 感受性と、感性と。

 それは、理解するということとは、違う。

 ときには、閉ざしてもいい。

 耳を、目を、言葉を。

 でもそれは未来で、きちんと感じ取るため――

 

 そんな父自身は、閉ざすのが苦手な人のように、伊織には映った。

 それに、そんなこと言われたってと、当時は思っていたけれど。


 それでもたしかに、若菜の作品には訴えかけるものがあった。

 だからこそ、まるで花壇を踏み荒らされるような気持ちになった。


(……嫌な喩え。それじゃおんなじじゃない)


 鑑賞する、やわらかな支配のまなざし。

 でも、ちがう。自分にとっての若菜は、自分の花壇などでは決してない。

 それは例えば、いつも通う道の角にある、美しい白い家の庭園のような――決して手に入れるためのものでなく、ただ眺めて、憧れ、溜息をつくためだけに存在するようなもの。

 

 でももし、その中に綻びを見たら?

 剪定されていない枝や、枯れたまま置かれた紫陽花。

 きっとそれだって、うつくしく感じられるだろうと、伊織は理由なく思った。


 そんなことを考えながら、気づくといつもの散歩コースを外れていた。

 まぁ新規開拓だと鼻息荒く歩を進めるうち、が目に入ってくる。

 どこか若菜のアトリエに似た雰囲気を感じる白壁の洋館。海からは少し離れた、風の通り道。

 軒に、紫陽花のドライフラワーが吊るされているのが見えた。


 丸くかわいい樹形の木は、金木犀だろうか。

 その隣には、特徴的な銀葉の木。

 惹き寄せられるして近くで見ると、小さな青い実をつけていた。

 オリーブだ、と伊織は息を呑む。

 実際の木を見るのは初めてかもしれなかった。

 

 いけない、これではまた覗きだと視線を泳がせた先、庭先の女性と目が合う。

 薄手の、亜麻のワンピース。

 白い花をバケツの水に浮かべている。

 水無月。


「……伊織さん?」


 文乃だった。

 ちょっと待っててという彼女の言葉に従い、伊織は借りてきた猫みたいに神妙な面持ちで格子の門の前で待った。

 やがて穏やかな微笑みを湛えて門を開けた文乃に、伊織は開口一番言い訳のように言葉を溢れさせる。


「あの、ごめんなさい。すごく、素敵なお庭だったんでつい……文乃さんの、お宅だったんですね。ぜんぜん知らなくて、ほんとにたまたま……」


 文乃はそんな初々しい伊織の姿に柔和な笑みを浮かべると、息で撫でるように語りかける。

 

「どうぞ、そんなに緊張しないで。これもなにかのご縁かしら。よかったら、お茶の一杯でも付き合ってくださらない?」


 はい、と伊織は答える。

 迷いかもしれない。

 そんな、抵抗する気を失わせるような引力が、そこにはあった。

 命令されるのでなく、赦されるような、そんな心地良さを伴って。


 玄関に入ると、陽の当たった古い本と、ゼラニウム、それにサンダルウッドの混じったような匂いがした。

 通されたリビングには、ペルシャ風のラグにアームチェアが二脚。

 紅茶と珈琲かと問われ、伊織は遠慮がちに、珈琲と答える。

 文乃はキャニスターから豆を取り出し、手挽きのミルで豆を挽く。

 窓辺のレース越しに射す昼の光が、珈琲の湯気を透かして彼女の佇まいに陰影をつくる。

 風鈴の音がする。

 丁寧に淹れる文乃の所作は風が枝を揺らすように自然で、伊織は心を奪われた。

 

 若菜に通じる繊細さとともに、宵の海のような穏やかさと静けさを纏っている。

 伊織は思う。自分はいま、若菜の母ではない、ひとりの女性としての文乃に魅せられているのかもしれない、と。

 

 出された珈琲に、ちょうど久しぶりに焼いてみたのだというレモンのシフォンケーキを添えられる。

 すこし歪で、でもそれがなんだか、温かかった。

 

「ごめんなさいね、突然お誘いしちゃって」

「とんでもないです、私こそ、勝手に覗いてしまって」


 若菜でのアトリエの一件といい、伊織は自分の好奇心にうんざりしていた。


「お庭を褒めてもらえるの、すごく嬉しいの。あなたの眼、すごく綺麗だったから、余計に」


 急に褒められて、むしろ伊織の方が恐縮するように身を縮める。


「そんなの、初めて言われました。……ありがとう、ございます」


 照れ隠しのようにカップを口に運ぶ伊織の姿に、文乃は不思議に懐かしい気持ちになった。


「ほんとに、素敵なところですね。若菜さんのアトリエも、ここも。雰囲気はすこし違いますけど、大切にされてるんだなって、伝わってきて。憧れます」

 

 そう言って伊織は、アームチェアを無意識に撫でた。


「そう、なのかもしれない。伝わるものなのね。うん、そうなの。お花や、木や、家具、食べるもの。家鳴り。毎日変わる、潮の匂い。そういうものに丁寧に接してるとね、自分がやさしくされたみたいに思えるの。ひとりで暮らしてると、余計かもしれないけれど」


 伊織は疑問に思いながらも訊けずにいたことを見透かされたようで、恥ずかしくなった。

 

「そんな顔しないで。近くにお茶飲み友達もいるし、若菜も。いまは、あなたも」

「私は、そんな……でも、嬉しいです」


 それは伊織の素直な気持ちだった。

 なにか、滑らかでやさしいものに包まれているような。若菜ともまた違う感触を覚えていた。


「ねぇ、伊織さん。わたしたち、どこかでお会いしたことあったかしら?……ごめんなさい、なんか安っぽいナンパみたい」


 そんな風に笑いながら問う文乃に釣られて笑いながら、たぶんないと思います、と伊織は答える。


「そう、そうよね。なんだかすごく、懐かしい感じがして。お人柄なのね、きっと」


 そうして、どこか遠いなまざしを、窓の外の海へと投げる。


「若菜を見てても、分かるもの。最近のあの子、すごく穏やかな表情するの。きっとあなたのお陰なんだろうなって思ってたから。お礼が言いたくて」


 仲良くしてあげてね。

 そんな風に語り掛ける文乃は、母の顔をしていた。


 

 

「これ、良かったらいただいてくれない?」


 別れ際、文乃が差し出したのは、瑠璃色の硝子の風鈴。

 深い青は、じっと見つめていると波紋が浮かぶようで、月のようにも、目玉のようにも見えた。


「すごく綺麗……でも、いいんですか?」

「お邪魔でなければ、お近づきの徴に、是非」


 伊織は紙袋に入れられたそれを胸に抱くと、大切にしますと、小さな約束のように微笑んだ。

 



 それから一週間ほど経った頃だろうか。

 夜、習慣となりつつあった、ふたりの夕食の後の休息の時間。

 若菜がおもむろに口を開く。


「ねぇ、伊織。ひとつ、お願いがあるんだけど……きいてくれる?」


 いつになく真摯なその表情と声に、伊織は手にしていた麦茶のグラスを置いて、背筋を伸ばす。


「ふふ、そんなに緊張しないで。あのね、伊織に描いて欲しいものがあるんだ」


 なんだ、いつもの課題かと、伊織はどこか拍子抜けに思いつつ、続きを促すように小さく頷く。


「アタシのこと、描いて欲しいの」


 伊織は思わず、喉の奥に微かに残っていた麦茶でむせそうになった。


「あ、だいじょうぶ。ちゃんと隠すところは隠すから」

「当たり前です!」


 立ち上がりそうな勢いの伊織を、そんな怖い顔をしないでと若菜がたしなめる。


「布は纏うから」

「ぬ、布……?」


 その心許ない響きにおののく伊織の姿を、若菜はさも愉し気に眺めていた。


「ちなみに、初めてだから。自分からお願いして、誰かに描いてもらうの」


 そんな口説き文句に、伊織は耳まで赤くする。

 そしてもう、私でいいのかとは、問わなかった。

 若菜の瞳の色の深さが、すべてを語っているような気がしたから。


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