第2話:ソアーヴェの夜
伊織が若菜のアトリエに通うようになって三ヶ月ほどが経った。
水曜日から土曜日まで、彼女は毎日足を運び、朝の準備を手伝い、昼食を
もっとも、昼食は時間がないため頼んでおいたお弁当で手早く済ませ、朝も夜も食事を共にするようなことを伊織は避けた。
時々、夜に食事に誘われたがそういうときは、決まって外食。
アトリエは伊織にとって居心地が良かった。
自分のアパートの部屋よりも、ずっと。
でもだからこそ、伊織は距離を保とうと意識していた。
元々美術部だった伊織にとって、若菜の手伝いはすぐに慣れたし、制作していると全身の痺れが取れていくような感覚があった。
回復している。
そういう、淡い手ごたえがあった。
それでも、馴染めば馴染むほどに、伊織は落ち着かなくなった。
若菜が伊織を指導するとき、準備でなにかを手渡すとき、ふと触れ合う肩や手の感触が、その度にじんわりと残る。
自分はやはり弱っているのだろうと、どこか他人事のように思った。
ある時、買い物に出た帰り、夕立にあって傘も差さずに、ずぶ濡れで帰ってきた若菜の髪をドライヤーで乾かしたりした。
これじゃお母さんだと可笑しくなりながらも、初めて会ったときに伊織の目を捕えた髪が、いま濡れて自分の指先に絡んでいることに、爪先が浮くような心地がした。
そういう些細なことの度に、呼吸がわずかに乱れそうになるのを、聴かれてはいないかと、気が気でなかった。
一方の若菜は涼しい顔で、それが余計に伊織の孤島の苔のような孤独を募らせた。
その日、友人に誘われて都内の美術展に行った帰り、ほとんど陽の落ちた浜辺を伊織はひとり歩いていた。
シュルレアリスムに関する企画展だった。
ああいうの、若菜は好きだろうか。
そんなことを考えていたせいか、目が、アトリエの上で留まる。
(ご飯、ちゃんと食べてるかな)
教室を締めた後、各々に制作をすることがあった。
そうした折り、若菜は集中し始めるとしばしば夢中になる。
自分が声をかけなければ、このままずっと何も食べないのではないかと伊織はよく不安になった。
そういう時、なにか夜食でも作っておこうかとキッチンに足を向けては、いやいけないと、コップに水を汲んでは飲み干した。
若菜にとっての伊織の印象の一部は、よく水を飲む人になっていた。
大丈夫、ちょっと前を通りかかるだけ。
そのときまだ一階の灯りが点いていたら、軽くノックしてみようか。
それで空腹に気づいて何か食べてくれたら、自分は十分に役に立ったと言えるだろう、と。
実際にアトリエの前につくと、まだ部屋は明るかった。
ノックしようとするが、やはりお節介だろうかと、既のところで手が止まる。
集中していたら水を差してしまうかもしれない、相手だっていい大人なのだ。
伊織はそう思って、温かな灯を横目に見ながら去ろうとするも、窓のカーテンの隙間から中の様子が垣間見える。意図せず、覗くような形になってしまった。
デニムのジーンズの裾。でも、向きがおかしい。
近づいてよく見てみると、中で若菜が倒れているのが見えた。
(……うそ……)
波の音が遠くで割れ、風鈴の音のように儚く消えた。
ドアには鍵がかかっている。
伊織はもつれそうになる指先でポーチの中から預かっているアトリエの鍵のスペアを探りだし、ドアを開ける。
勢いよくドアを開け、若菜に駆け寄ろうとした伊織と、半身を起こしかけ、首だけでこちらを見る若菜の目が合う。
若菜の顔には、なにごとかと驚いた表情がワカメみたいに貼りついていた。
汗ばんだ頬と額に髪が張り付いていて、いつものような精彩は欠いていたものの、意識はハッキリとしているのが見て取れる。
「え……あの……なに、してるんですか……?」
「いや……ちょっと行き詰っちゃって……床と仲良ししてただけ……なんだけど……冷たくてつい……」
伊織はへなへなとその場に崩れ落ちた。
今度は若菜の方がそんな伊織に駆け寄る。
「ごめんっ!なんか、心配させちゃった感じ……だよね……?」
「無事ならいいです」
それだけをなんとか口にすると、伊織は内心で「馬鹿みたい」と泣きたい気持ちになった。
覗きまがいのことをして、勝手に勘違いして、取り乱して、逆に心配されている。
もうこのまま自分も床と一体になってしまいたい。
そうすれば、若菜が
いや、自分はまたなにか、おかしなことを考えている。
伊織が急にすっくと立ちあがるものだから、若菜が驚いて一歩後ずさる。
お騒がせしてごめんなさい、帰ります、という伊織を若菜の声が引き留めた。
「ねぇ、ご飯、一緒に食べてかない?」
恥ずかしさに今すぐ立ち去りたい気持ちと、無碍にするのも申し訳ないという気持ち、そしてなにより彼女と時間を過ごしたい本音が伊織の中で鬩ぎ合う。
結局、じゃあどこにしますかという伊織に、今日は疲れたから家でゆっくり食べたいと、若菜がいつになく
そんな声で言われたら断れない。
「えっと……じゃあ、私が作ります」
え、いいの?と若菜の顔が途端に綻ぶ。
そんなにいい顔をされたら、もう絶対に断われない。
でもきっと台所に立ってしまえば、いまのこの胸の騒めきも収まるような気がした。
若菜に許可を取って冷蔵庫を見る。
卵にヨーグルトに牛乳、チーズ。乳製品が目立ったが、野菜はあまりなかった。
「ちゃんと、ご飯食べれてます?」
伊織の問いに、若菜はバツの悪そうな顔を浮かべながら、にへらと笑った。
もっとも、伊織自身も独りのときはつい適当に済ませてしまうところがあったから、若菜のことばかり責められなかった。
丁寧な生活に憧れはあれど、一緒に食べてくれるひとがいないと、甲斐がない。
それでも実際に誰かと一緒になれば、それはそれで忙しくなるのかもしれない。
買い物に行くという伊織は、なにか食べたいものはないかと若菜に問う。
「なんでも……だと、困っちゃうよねぇ。でも、伊織さんは食べたいモノないの?伊織さんの普段食べてるものとか、好きなものがいいなー」
そんな若菜の言葉に、なぜかすこしだけドキリとした。
今度は自分の方が、覗かれているような気がした。
若菜が自分の〝普通〟を知ろうとしている。
普通というのは普遍のようで、実は一番違うものだと、伊織はまさに痛感している日々だった。
だからこそ、そんな普通を共有するということには、重力がある。
口元に手を当て、伊織はしばし考える。
――カルボナーラ。
なんとなく、カルボナーラが食べたいと思った。
ボンゴレにも惹かれたが、今日はもうあまり砂抜きをするような気分ではなかった。
生クリーム抜きの方が好きなのだがそれでもいいかと尋ねると、アタシも、と若菜が笑う。
スーパーでパンチェッタやサラダ用の野菜などを買い足し、若菜が制作する様子を眺めながら伊織は調理を始めた。
弱火でじっくりとパンチェッタの油をオリーブオイルに移していると、香ばしさに釣られて若菜がふらふらと匂いを嗅ぎに来た。
子どもか動物みたいだな、と伊織は可笑しくなった。
料理ができ、ふたりで手を合わせると、おいしい、天才だと絵に描いたように褒める若菜に、伊織はなにも言わずにデザートのパンナコッタを出す。若菜はしばし、呆然としている。
「……え、結婚する?」
若菜の過激な発言に、そんな軽薄な人とはしません、と伊織はぴしゃりと返す。
そう、ただの軽口。ただの冗談。当たり前に。
自分たちは女同士で、まだ出会って三ヶ月しか経ってなくて、そもそも住む世界が違う。
リアリティがないからこそ、言えること。
(なんで私、そんなこと考えてるんだろう)
言い訳を並べるような自分の思考が、ひどく間違ったことに感じられて、急に気分が暗くなった。
私はまた、こうやってすぐに、誰かに依存しようとしているのだと。
特別なことなど、なにもなく。いつも通りに。
若菜がすっと席を立った。
そう言えばいいものがあるのを忘れていたと、奥からごそごそと何かの瓶を出してきた。
ソアーヴェだ。
今日は飲んでもいい日かと尋ねる若菜に、そんな良いものをいただけない、と伊織は防衛線を張る。
飲むと何かが零れてしまいそうな気がした。
体が火照って、自分の輪郭が曖昧になって。
伝わるものは、なにも声ばかりとは限らない。
「お母さんがお酒好きだから、たまに置いてくんだよね。ほっといても腐っちゃうし、ひとりで飲むのも、ねぇ?」
ワインが腐るわけがない。いや、これも冗談だ。
若菜といると、いつもペースを乱される。
そして結局、気づくと首を縦に振っている。
「……じゃあ、飲みます」
なにが「じゃあ」なのかと自分を詰りながらも、光を返すグラスの縁が、伊織の瞳で揺らめいた。
伊織は腹をくくった。
若菜がどうせならと伊織を二階に誘う。
白い木の階段を上ると、開け放たれた窓から入ってくる風が心地よかった。
オーク材の無垢のフローリングは、すこし日焼けしたような色味をしていた。
窓際にはシンプルなアイアンフレームに生成りのリネンのベッドと、モスグレーのソファ。流木とガラスのローテーブルが並び、奥には古いグランドピアノがひとつ、鎮座していた。
若菜に導かれるようにして、ソファに腰を下ろすと、窓の向こう海に月が尻尾を垂らしているのが見えた。
イメージ通りだと、伊織は思った。
隣に若菜が腰を下ろした瞬間、体から糸が一筋、抜けていくような気がした。
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