『月』(おかしな噺 続章・特別編)

橘夏影

第1話:潮の匂い

 梅雨の晴れ間、遠く海鳴りが聴こえる。

 窓際に置かれた小さな花瓶が、微かに震える。

 真剣な表情でキャンバスに向かう彼女の頬を、潮の匂いをはらんだ風が撫でた。


「じゃーねー、ワカナちゃーん」

「はーい、また来週。車に気をつけてー」


 制服姿のふたりの女子高校生を、若菜はアトリエの玄関でひらひらと手を振って見送る。

 ふぅ、とひとつ息をつくと、左手で空に線を描く彼女の匂いが若菜のところまで風に乗って運ばれてくる。

 ユリと、スズランと。


 そんないい匂いさせられると、堪らなくなる。 

 若菜は沸き起こる情動を抑えながら、彼女に淑やかな猫のように近づいた。

 筆に迷いを見せる彼女の右手に、背後からそっと手を重ねる。


「もっと気持ちに指先をゆだねてみて。伊織いおりの感じるままで、いいんだよ」

 

 若菜の切りっぱなしのセミボブヘアが、伊織と呼ばれた彼女の頬に触れる。

 

 ――ああ、ジャスミンとサンダルウッドだ。

 

 その濡れた肌の奥にある、たしかな熱。

 燻された薫りに吸い寄せられ、若菜は伊織の首筋に鼻先を擦りつける。

 青い血の筋が浮かぶ白い肌は、きっと母親譲り。

 

 伊織はくすぐったさに身を捩り、その手から絵筆が零れる。

 からりという音がした。

 

 そしてそのまま空になった指先を、若菜の言ったとおりに彼女の首に回すと、風と戯れる白いカーテンの奥で、ふたつの月が重なる。

 若菜の喉の奥で、行き場を失った音が小さく跳ねた。


 どれほど時間が経ったろうか。

 きっと、それほど長くはない。

 名残惜しそうに、ふたりの間を渡した透明な橋がふつりと切れる。

 

「先生が生徒に手を出したら、ダメなんですよ」

「キミ、今年で二十六でしょ?」

 

 伊織は少し拗ねたような表情で、若菜を甘く睨んだ。


「……いいんだよね?」


 若菜が伊織の瞳に星を探すように見つめる。

 

「え……う……ここで……?しかもまだ……日が高いし……」

「伊織姫がお望みなら……じゃ、なくてさ……」


 若菜の意を察し、伊織は顔を赤くして俯くと、膝の上で固く手を握る。

 それから一度瞼を閉じ、小さく息を吸い、吐く。

 ふたたび瞼を開くとともに、ゆっくりと顔をあげた。

 

「……うん。もう決めたから」


 窓の外からは、雨の匂いがした。

 

 

 

 *

 



『……もう、無理です』


 会社の上司との面談で伊織がそう零したのは、年度の変わる直前の三月だった。

 もっと他の言い方をしようと思っていた。

 ちょっと体調が思わしくなくて、業務量を調整したい。

 そういう自分がなるべく不利にならない言い方をすべきだと、人事の友達から言われていたけれど。

 そんな余裕は、もはやなかった。

 

 新卒で念願の出版社に勤める幸運にあやかり、やる気に満ちて、それでも朝も夜もない激務に、次第に時間の感覚が曖昧になっていった。

『風通し、良い方だと思うけどなぁ』

 同期の者はそう言うけれど、上の人間と仲良くやれるかによって事情は変わってくる。

 自分のやりたいことが出来ていない。それでも、いまは我慢だと周りからは言われ、自分にも言いきかせながら三年目で限界がきた。

 

 自宅のトイレに掛けてあるカレンダーを見た。

 長い間、月のものが来ていないことに気がついた。

 交際していた相手とも近頃はあまりから、恐らく妊娠ではないだろうと不安を握りしめ、独りで婦人科を受診した。

 診断結果は過労と心的ストレスによる無月経症。

 紹介された心療内科でもらった診断書を手に、会社との対話に臨んだ。


『……OK』


 あ、いまたぶん、こいつは駄目だと思われた。

 感情を抑えた上司のその一言に、伊織は自分の体が透けるような気がした。

 やっぱり女は弱い。使えない。きっとそんな風に思われたかもしれない。

 そんなことをぼんやり考えていると、目の前の男の眼も、吐く息も、すべてがプラスチックでできているみたいに感じた。


 伊織は休職したのをきっかけに引っ越した。

 物はあまり持たない方だったし、三年前から開けてない段ボールも多かったから、業者を使わず友達に手伝ってもらって手早く済ませた。

 

 その日、伊織は転居先の近く、材木座の浜辺をあてどなく歩いていた。

 潮の音と、砂を踏む音を聴いているだけで、落ち着いた。

 

 ふと、子どもの声が聴こえた。

 なにかのワークショップだろうか。

 浜辺で子どもたちと、大人も混じってスケッチブックを広げていた。

 貝殻や、海の絵を描いているようだった。

 

 そんな参加者たちの間を、ステップを踏むようにして笑顔で渡る女性がひとり。

 袖をロールアップしたロングのデニムジャケットに、白いブラウスと、生成りのパンツ。

 若く見えたが、彼女が指導しているようだった。

 

(髪……サラッサラ……)


 無意識に、自分の髪に手が触れていた。

 視線の先の彼女との違いに、伊織は急に恥ずかしくなって目を逸らそうとした。

 でもその前に、見つかってしまった。

 ふたりの視線が砂の上で交わる。


 女性の口の端が、やわらかく持ち上がる。

 それだけで伊織は、その場に縫い付けられたように動けなくなった。

 サクサクと音を立て、大股で数歩。声が聴こえる距離まで歩み寄ると、彼女は言った。


「呼ばれちゃいました?」

「……え?」


 話し始めると、そのどこか浮世離れした雰囲気はより鮮明になった。

 妖精みたいなひとだ、と伊織は思った。

 

「目、合っちゃったし。お時間あったら、ちょっと描いていきませんか?」

「え、あっ……」

 

 いつもの伊織なら、遠慮してそそくさと退散していただろう。

 でもその時の彼女は、女性の瞳に宿る光に抗えなかった。


 ――嗚呼、呼ばれたのかもしれない。

 

 それは、願望かもしれなかった。

 

 女性はデニムジャケットのポケットを漁って、ひとつの紙片を取り出す。

 名刺だった。


atelier Tsubakiアトリエ ツバキ……?」

小鳥遊若菜たかなしわかなっていいます。あそこで、色々やってるんで、よかったら」


 両手で几帳面に名刺を受け取る伊織に、若菜は高台にある二階建ての白い洋風建築を指さした。

 

 ちょっと驚かせてしまっただろうか。

 そんな風に曖昧に微笑んで振り返ろうとした若菜が、踵を返す。


「あの……!ほんとに、体験していっても、いいですか……?」


 考えよりも先に、伊織はそう口にしていた。

 なにか手を動かすと良いと医師に言われていたということはあったにせよ、そんな自分に伊織自身がすこし、驚いていた。


「……もちろん!」


 一瞬の驚きの後、若菜に笑顔が咲いた。

 若菜にとっても、この時から既に、伊織の存在は不思議に心を動かした。


「あっ、私、沢渡伊織さわたりいおりって言います」


 伊織さん、と若菜は音のかたちを確かめるように、繰り返す。

 それだけで伊織は、大きな白い手で、やさしく体を撫でられているような心地がした。


 材木座海岸から徒歩三分。

 若菜のアトリエは、古い外国人住宅地の一角に立つ、戦前の輸入木材を使った白壁の洋館だった。

 通りを挟んだ向かいには小さなパン屋と花屋が並ぶ。


 一階はギャラリーを兼ねた吹き抜けの高い天井。

 奥には小さなキッチンと、浜辺で拾ったと思しき流木でつくったオブジェや、簡単な作業台が目についた。

 床には絵の具の跡がそこかしこに残っている。


「コーヒーでいい?」

「あ、そんなお構いなく……」

 

 そう言った後、小さく「コーヒーは好きです」と答えた伊織に、若菜の中でなにかが解けるように感じた。

 

 あの日、伊織は浜辺で絵を描いたあと、後日あらためて来てくれという若菜の言葉に従い、今日初めてこのアトリエに足を踏み入れた。

 開講日は水曜から土曜の週に四日。

 週明けは大学での講義や研究を行い、週後半をアトリエでの指導に当てている。

 夕方の五時以降の夜間は一般生徒には開放せず、個人制作の時間にしているが、今日のような場合は例外だ。

 

「平日お仕事なら、土曜でもいいし、伊織さんのペースで」


 そう言いながら、コーヒーの薫りとともに、若菜が戻ってくる。

 ねぐらに向かうカモメの声と波音が聴こえる中、伊織は繭に包まれるような安堵を覚えていた。


「いいところ、ですね。すごく、落ち着きます……毎日来たいくらい」

「え、いいよ。ぜんぜん、大歓迎」


 若菜の抱きとめるような態度に、伊織は戸惑った。

 そこには嘘がない気がした。

 それでも、きっと誰にでもこうなんだ、これがこの人の普通なのだと、自分の心に楔を打つ。

 

「いまちょっと、休職中で。お医者さんからは、なにか手を動かしたほうがいいって言われてて、もし本当にご迷惑でないなら」


 そんな脛に傷のあるような自分は、もしかしたら迷惑かもしれない。普通はそんなことを、名前を知ったばかりの相手に話さない。それでもそうさせるのは、伊織の罪悪感のようでもあり、若菜のアトリエの世界観が、伊織を無防備にするようにも思われた。

 伊織は、思わず俯き、若菜の足元に目を伏せる。

 

「じゃあ、よかったら手伝って貰っちゃおっかなぁ」


 えっ、とその思いがけない言葉に、伊織は顔をあげる。

 目が合った若菜の顔は、先ほどまでの指導者の顔とは、すこし違って見えた。

 どこかイタズラっぽい、肩の力の抜けた表情。

 

 若菜の提案は、朝の準備や、夕方の片付けを手伝ってくれないかというものだった。

 その分は、受講料から差し引けせてもらう、と。


「なんなら、朝食だってつけちゃうし」


 二階が居住スペースになっているのだと、若菜は説明した。

 

「どうして、そんなに親切にしてくださるんですか?」


 意図せず滲みそうになる声を抑えながら、伊織は若菜に問う。今やさしくされるのは、間が悪い。だから、なにか合理的な理由を探してしまったのかもしれない。


「あ、ごめんね。そうだよね、ちょっと胡散くさいよね。大丈夫、ただちょっと、需要と供給が合うかなーと思っただけなんだ。伊織さんはいま時間があって、アタシは、気軽におしゃべりしながら、手伝ってくれるアシスタントみたいな女の子、ちょうど欲しかったからさ」

 

 そんな若菜の取り繕うような言葉に、伊織はいくらかほっとして、胸の奥がすっと冷たくなった。


「あ、こちらこそ、ごめんなさい。全然そんな、邪推してるとかじゃなくて、ほんと、ありがたくて。……あれ?」


 一度溢れ出すと、それは堰を切ったかのように止めどなく。

 溢れる感情の雫を、伊織は両手で塞ぐようにして顔を覆った。

 自分はほぼ初対面の相手の前で、いったいなにをやっているんだろう。

 そんな風に自分を叱咤するも、涙は一向に止まってくれなかった。


 ごめんなさい、ごめんなさい――

 

 そう何度も謝りながら、伊織はスツールの上で震える体を、懸命に息を吸って抑えようとした。

 ふわりと、ミモザと柚子を混ぜたような香りが広がる。

 指の隙間から恐る恐る見ると、若菜がハンカチを差し出していた。

 ゆっくりでいい、そう穏やかな声で告げる若菜からハンカチを受け取ると、伊織はそのまま、澱のように堪ったものを流れるに任せた。たぶん、三ヶ月分くらいはあった。


「今日は、とんでもないご迷惑を。ハンカチ、ちゃんと洗って返しますから」


 夜の帳が降りる頃、若菜はアトリエの入り口で伊織を見送る。


「わかりました。ちゃんと、返しに来てくださいね」


 どこか芝居がかった雰囲気で、若菜はそう告げた。

 それからふたりで目を合わせて笑いあうと、伊織に胸にさざ波が立つ。

 

 いけない、はやくこの人から離れないと。

 これ以上、迷惑をかける前に。

 

 そう思いながら、その日一番の笑顔をつくった。

 

 


 

 

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