第2話 猫の手も借りたい夜
夜の街に、雨の匂いが残っていた。
湿ったアスファルトがネオンを映し、赤や青の光が水たまりの中でゆらいでいる。
その中を、黒いスーツ姿の男女が並んで歩いていた。
「……SNSで拡散された“尻尾付き店員”の動画、だと?」
「そうじゃ。投稿は削除されたが、魚拓が残っとる」
稲荷葵がスマート端末を差し出す。
画面には、コンビニのレジに立つ女性。その腰のあたりで、灰色の尻尾が一瞬だけ揺れた。
加賀見蓮は無言でネクタイを直し、短く息を吐く。
“特殊生態対策室・第七課”――通称、特対。
人と妖が互いを知らぬまま共に暮らす、その均衡を保つための機関。
存在自体はどこの記録にもないが、確かにこの世界の裏で息づいていた。
「見間違い、じゃなさそうだな」
「妖気も出とる。該当店舗、三ブロック先じゃ」
葵がイヤーピースを軽く押さえる。
蓮は空を見上げた。雲間に湿った月の輪郭が滲んでいる。
「夜勤明けのラーメンより、夜勤中のトラブルの方が多い気がするな」
「お主の言う通りじゃ。……じゃが、わしは夜勤明けのうどん派じゃ」
「はいはい」
「なに、聞け。うどんの真髄は“汁”じゃ。あの、関西風の澄んだ出汁よ。
目を閉じて啜ると、昆布と鰹の香りが鼻を抜けるんじゃ……。そしてな、お揚げを噛んだ瞬間――お揚げからジュワッと甘い汁が染み出して――」
「おい、よだれ出てる」
「っは! ……いかんいかん。話しておるだけで腹が鳴るわ」
「お前、出動中だぞ」
「うどんの話をしただけじゃ。罪はない」
葵が袖で口元を拭いながら、くすりと笑う。
その表情を横目に、蓮は端末を確認した。
投稿は深夜二時半。監視カメラは停止中。拡散から通報まで十五分。
――早すぎる。偶然にしては出来すぎている。
「……普通の猫又なら、夜勤なんか引き受けねぇだろ」
「それが今の世の中じゃ。妖も働かにゃ生きていけん」
「皮肉なもんだな」
二人の靴音が夜気の中に溶けていく。
ビルの角を曲がると、通りの先に白と青の看板が見えた。
光に照らされたコンビニの入り口。
その扉の隙間から漏れ出るコーヒーと肉まんとおでんの香りが、
妙に現実を引き戻してくるようだった。
⸻
自動ドアが開くと、電子音が小さく鳴った。
深夜のコンビニ特有の、少し乾いた冷気と甘じょっぱい香りが蓮の鼻をくすぐる。
コーヒー、肉まん、そしておでんの出汁――。
それらが混ざり合って、妙に懐かしい匂いをつくっていた。
中では、一人の女性が床を拭いていた。
長時間労働のせいか、頬はややこけ、手の甲には小さな火傷の跡。
その姿を見た瞬間、葵の尻尾がわずかに揺れた。
「猫屋千紗、で間違いないな」
「は、はい……。特対の方ですよね」
「うむ。稲荷じゃ。こっちは加賀見蓮、調査官じゃ」
千紗は深く頭を下げる。
申し訳なさと疲労が入り混じった声で、ぽつりぽつりと話し始めた。
「本当に、すみません……。寝不足で、少しだけ気が緩んでしまって……」
「動画を撮られたのは、偶然か?」
「はい。夜勤中、立て続けにお客様が来て……。気づいたら、腰のあたりが……」
千紗の言葉が震える。
人に化けて生きる妖にとって、“尻尾を見られる”というのは致命的な失態だ。
けれど――その震えは、罪悪よりも恐怖に近かった。
「重大案件か?」
蓮の低い声が響く。
葵は首を横に振った。
「いや、ただのうっかりじゃ。普段は真面目にやっとる娘らしい」
「うっかり、で済めばいいけどな」
「うっかりを隠すのが、わしらの仕事じゃろ」
その一言に、千紗の肩が少しだけ緩んだ。
店内の片隅では、おでん鍋の湯気が静かに立ち上っていた。
大根の輪切りが柔らかく膨らみ、卵の表面に薄い色が染みている。
それを見ていた葵の腹が、ぐう、と鳴った。
「……なあ、千紗。おぬし、なんでそんなに働いとる?」
「え……?」
「妖は長命じゃ。無理をせんでも、時間はいくらでもあるじゃろ」
千紗は俯いたまま、かすかに笑った。
「新人が辞めちゃって……代わりに夜勤を全部引き受けてたんです。
でも、猫又って“働き続けるほど人間に近づける”って言われてて……
だから、もう少し頑張ればって思って……」
葵が軽く煙草を取り出し、火をつける。
紫煙の向こうで、その金の瞳がやわらかく揺れた。
「のぅ千紗。わしら妖は“人の真似”をするもんじゃが、“人の無理”まで真似する必要はないぞ」
「……はい」
「ライフワークバランス、っちゅうやつじゃ」
蓮が小声で突っ込む。「それ使い方あってるか?」
「細けぇことはよい。要は、ちゃんと休めということじゃ。
ちゃんとバランスを考えて仕事せんと、人間なら過労で死んでしまう場合もある。
……まあ、時には踏ん張らねばならん時もあるのは分かるがの」
千紗は、ほっとしたように目を伏せた。
「……気をつけます」
「うむ。それでええ。わしら、長生きするために生きとるんじゃからな」
その直後、イヤーピースから通信音が鳴る。
『こちら一ノ瀬。動画の拡散経路、追跡完了。投稿者アカウントは削除済み。
SNS上では“合成映像”扱いになっています』
「早いな、灯」
『監視カメラ映像も解析中。異常なし』
「了解。現場は収束でいいな」
蓮が通信を切る。
おでんの湯気がゆっくりと立ちのぼり、冷えた空気をほんの少し温めた。
葵は鼻をひくつかせながら、目を細める。
「……はぁ、いい匂いじゃ。出汁の香りが腹に染みる」
「任務中だぞ」
「“香りを嗅ぐ”まではセーフじゃ」
「お前の線引き、曖昧すぎる」
そのやり取りに、千紗が小さく笑った。
ほんのわずかに、夜の空気が和らいだ気がした。
通報の処理を終え、外に出ると夜風が少し冷たかった。
人間に戻った猫屋千紗は、深く頭を下げて小さくつぶやいた。
「……すみません。本当に、気が緩んでたみたいで」
「まぁ、疲れてる時は誰でもそうなる」
蓮は淡々としながらも、声にわずかな柔らかさを滲ませた。
「でもな、働きすぎると妖もほつれるんだろ」
「はい……。気をつけます」
葵が腕を組んでうなずく。
「ライフワークバランスは大事じゃ。人間なら過労死、妖なら化け崩れじゃぞ」
「……そんな言い方あります?」千紗が苦笑した。
蓮は少しだけ口元をゆるめ、軽く手を振った。
「まあ、たまにはゆっくり飯でも食え」
千紗は一瞬きょとんとしてから、ふっと微笑んだ。
「はい。ありがとうございます」
二人は店を後にし、夜気の中を歩き出す。
街灯の明かりが、葵の金の髪に反射してきらりと揺れた。
「……蓮、腹が減った」
「……今、俺が“飯でも食え”って言ったばかりだろ」
「うむ、だから食う」
「その切り替えの速さ、見習いたいわ」
結局、彼女に押し切られる形で、二人は再びコンビニへ戻る。
ドアのベルが鳴る。
夜の冷気と一緒に蓮と葵が入ってくると、カウンターの向こうで千紗が顔を上げた。
少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに柔らかく笑った。
「……あれ、戻ってきたんですね」
「うむ、腹が減っての。任務後の補給は大事じゃ」
「そういう言い訳を覚えるな」蓮がため息をつく。
千紗は吹き出し、レジ横のおでん鍋を指した。
「今ちょうど、味がしみてきたところですよ」
「おぉ、運命の導きじゃな」葵の尻尾がぴくりと揺れた。
おでんの香りが店内を包み、湯気が蛍光灯の光をぼかす。
大根、玉子、ちくわ……どれも金色のつゆに沈んでいる。
その隣では、蒸し器の中から肉まんの甘い香りが漂っていた。
「……どうする?」蓮がつぶやく。
「うむ……おでんも肉まんも、どちらも尊いのぅ」
「選べないのか」
「選ぶなど無粋じゃ。どちらも味わえばよい」
そう言うや否や、葵は肉まんコーナーの前にしゃがみ込み、
あんまん・ピザまん・肉まんをひとつずつ手に取った。
「……全部買う気か?」
「味はすべて試すのが探究心じゃ」
「探究の方向、絶対に間違ってるだろ」
千紗は思わず笑いをこらえながらレジを打つ。
「おでんもですか?」
「もちろんじゃ。……それと――」葵がふと蓮を見上げた。
「みんなの分も買っていこう。灯や直美にも差し入れじゃ。
任務帰りに温かい飯があると、心がほぐれるじゃろ?」
その言葉に、蓮はわずかに目を細めた。
「……そうだな。たまには、あの無表情組にも息抜きが必要か」
「よし、決まりじゃ。わしらは“特対飯テロ部隊”と名乗る!」
「その名乗りはやめろ」
紙袋にたっぷり詰めたおでんと肉まんを手に、二人は店を出た。
オフィスまでは歩いて十五分。
夜明け前の空に湯気がゆっくりと溶けていく。
歩きながら、葵が肉まんを一つ取り出して蓮に差し出す。
「ほれ、蓮。補給じゃ」
「お前、結局自分でも食うだろ」
「共食こそ、信頼の証じゃ」
蓮は苦笑しながらそれを受け取った。
葵は隣でおでんの串を口に運び、満足げにうなずく。
「……やっぱり、おでんは染みとるな」
「肉まんも悪くない」
二人の湯気と笑い声が、夜明けの街に静かに溶けていった。
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