特対 — 特殊生態対策室 —
@takuya_0528
第1話 地下四階の扉
雨上がりの夜は、街灯が舗装の上でにじむ。
勤務を終えた加賀見蓮は、ゆるんだネクタイを指で直しながら、駅へ向かって歩いていた。胸ポケットの振動は止んでいる。もう呼び出しはない——はずだ。
背後で短く切れる悲鳴が、空気の温度を変えた。
「ひったくりです! 誰か!」
体が先に反応した。スーツの上着を片手に、加賀見は走り出す。
濡れたアスファルトが靴底を吸い、排気と生乾きの雨の匂いが喉にささる。
黒いパーカーの背中が、路地を三つ飛び越えるように走っていく。
角を曲がるたび、夜の音が変わる。
居酒屋の笑い声、電車のブレーキ、ビルの間を抜ける風。
追いつけない距離じゃない——そう思った瞬間、犯人が電柱を蹴った。
壁面を、駆け上がった。
足が二歩、垂直に。
非常階段の踊り場に、軽く飛び乗る。
「……冗談だろ」
足は止まらなかった。
現場の反射は理屈より速い。加賀見は塀の継ぎ目をつかみ、肩で呼吸を切りながら、狭い裏通りへ回り込む。
犯人が着地の瞬間に重心を崩す。そこを狙って体をぶつけた。
「逃げんな!」
濡れた路面に二人分の音が散り、背中と肩で押さえ込む。
骨の細い感触。若い。肘が暴れ、指がもがく。
手錠は——ない。今日はもう私服の帰りだ。
それでも、関節のかけ方は覚えている。重さを一点に集め、呼吸を奪う。
「警察だ。落ち着け」
言い聞かせる声の上から、別の声が滑り込んだ。
「こちらで対応する」
低く、乾いた音色。
顔を上げると、路地の入口に黒いスーツの男女が二人。
無地のネクタイ、表情は均質。胸元に所属を示すものはない。
「……あんたら、誰だ」
「一般警察の管轄外です」
男の方が近づき、加賀見の肩に“置く”だけの力で触れる。
体勢がわずかにほどけ、その刹那に、犯人の身体がするりと抜けた。
女の方が一瞬こちらを見る。目が、街灯を過剰に拾ったように冷たく光った。
「この件は“処理済み”と報告してください」
反射で掴みに行く前に、風が抜けた。
黒服の二人も、押さえていたはずの若い背中も、気配ごと薄くなる。
路地の奥で、猫が一声鳴いた。雨粒が看板から落ち、地面で弾ける。
濡れた掌だけが確かで、夜だけが静かだった。
⸻
翌週の朝、上司に呼ばれた。
課の空気はいつも通り——電話、キーボード、紙の擦れる音。誰もこちらを見ない。
机の上に、封筒が一枚。白。角が新品のまま尖っている。
「加賀見。辞令だ」
開けば、事務的な書体が並ぶ。
環境省 自然環境調査局 特殊生態対策室(通称 特対)へ出向を命ずる。
発令日:明日付
「……環境省?」
口から漏れた言葉が、紙の上で浮いて見えた。
「そんな部署、ありましたっけ」
「知らん。だが決裁は通ってる。行け」
会話はそこまでだった。
誰も理由を持っていない。あるのは手続きだけ。
封筒の紙質は厚く、端がわずかに手に食い込む。
自席に戻り、検索欄に“特殊生態対策室”と打つ。
ヒットは薄い。更新の止まった説明ページ、問い合わせ先は代表番号。担当者名は空欄。
「特対」の略称だけが、なぜかどこかの議事録に残っている。
知らない場所へ行く気配が、背中を冷やした。
それでも——辞令は辞令だ。時計は前にしか進まない。
封筒を鞄にしまう。紙が擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
気づけば、あの夜の光景がまた脳裏をよぎる。
壁を駆け上がった靴裏。光を拾いすぎる目。
そして、路地の冷たい空気。
——特対。明日。
見えない文字が、心のどこかでゆっくりと形をとりはじめていた。
⸻
翌日。
環境省・第七庁舎。
加賀見は指定された時間にエントランスへ着いた。
朝の出勤ラッシュ。スーツ姿の職員たちがゲートを通り抜け、
談笑しながらそれぞれのフロアへ散っていく。
どこにでもある平凡な官公庁の光景。
昨日の“特対”という言葉だけが、現実味を帯びないまま胸の奥に残っていた。
「加賀見さんですね。——お待ちしていました。」
声をかけてきたのは、控えめな笑みを浮かべたスーツの女性。
年齢は三十前後。
だが、どこか“職員”というよりは“案内人”のような佇まいだった。
「こちらへどうぞ。オフィスへご案内します。」
加賀見は頷き、彼女の後をついてエレベーターホールへ向かう。
ちょうど一基の扉が開き、数人の職員が乗り込んでいった。
女性はそれをちらりと見ただけで、乗ろうとしない。
「次のエレベーターにしましょう。」
「え? 今のでも——」
「……少し混んでいますので。」
口調は柔らかいが、拒絶の余地がなかった。
加賀見は口を閉じ、静かに頷く。
数十秒後、ホールの人影が途絶えた。
エレベーターが再び上階から降りてくる音だけが響く。
女性はそのとき初めて動いた。
ポケットからカードを取り出し、パネルにかざす。
電子音が鳴り、存在しないはずの階層が浮かび上がる。
【B4】
「……B4?」
「通常の職員は使わない階です。
特別な部署のオフィスがその下にあります。」
彼女の声は淡々としていて、説明というより“告知”に近い。
加賀見が乗り込むと、扉が静かに閉まった。
下降が始まり、軽い耳鳴りがした。
最初は普通のモーター音。
だが、途中から、金属の外側を何かが擦るような感触があった。
耳の奥で、微かなざわめきが混じる。
風の音にも似ているが、もっと——“生き物”の息に近い。
冷たい汗が背中を伝う。
加賀見は拳を握り、無理に息を整えた。
やがて、電子音。
ディスプレイが“B4”を示す。
扉が滑るように開き、光が流れ込む。
空気が一段冷たく、照明は白いのに影が濃い。
沈黙の中で、女性が一歩前に出て言った。
「ようこそ、特殊生態対策室へ。」
その背後にある鉄扉の中央、小さなプレートが目に入る。
Authorized Personnel Only
その下、手書きのような墨跡。
「此より結界内」
意味も知らぬまま、加賀見は息を呑んだ。
風が吹き抜けた気がする。
それは空調ではなく、どこか“生き物の吐息”のようだった。
⸻
鉄扉の向こうは、想像していたよりも“普通”のオフィスだった。
白い壁、蛍光灯、書類棚、コピー機の音。
だが空気が違う。
酸素がわずかに薄い気がする。いや、違う。
匂いだ。空調に混じって、金属と土と、線香のような匂いが漂っていた。
案内の女性がデスク前で足を止めた。
「室長、加賀見さんをお連れしました。」
デスクの奥に座っていた男が顔を上げる。
五十代半ば、白髪交じり。
背筋を伸ばし、目の奥が獣のように光っていた。
「ご苦労。加賀見蓮巡査、だな。」
「はい。」
「私は榊原、ここの室長だ。——昨日の件、よく対応した。」
声は低く、しかし温度を感じない。
感謝でも称賛でもなく、“確認”のような響き。
「君のような人材を、うちの課は必要としている。」
「……うちの課?」
「環境省 特殊生態対策室。通称“特対”。」
榊原室長は静かに立ち上がった。
背後の壁には、地図と電子パネル。
日本地図の各地に小さな光点が散っている。
赤、青、白——色ごとに点滅のリズムが違う。
「ここでは“見えないもの”を扱う。
君が昨日、路地裏で見たのは人間ではない。」
加賀見は息を呑んだ。
頭の奥で、壁を駆け上がったあの影がよみがえる。
「待て、まさか——」
「そうだ。“妖”だ。」
室長は淡々と続ける。
「この国には、古来より人と共にある“異類”が存在する。
姿を隠し、名を変え、人の形を借りて今も生きている。
我々の仕事は、その均衡を保つことだ。」
「……均衡?」
「人間と妖の共存を守る。つまり、どちらにも肩入れしない。
君にはその中立の目を期待している。」
加賀見は言葉を失った。
理解よりも先に、現実が遠のく感覚。
庁舎の空調音が、やけに耳に刺さる。
そのとき、室長の視線が奥のドアへ向いた。
「ちょうどいい。相棒を紹介しよう。」
ドアがノックされ、ひょいと開いた。
そこに立っていたのは、長い髪を後ろで束ねた女だった。
スーツの上着の下に白シャツ。
姿勢が妙に軽く、どこか時代錯誤な落ち着きをまとっている。
「葵、入れ。」
「はぁい、室長殿。」
明るい声。
だが語尾の抑揚が独特で、古い響きが混じる。
彼女は軽く一礼し、加賀見に笑いかけた。
「加賀見殿じゃな。わしは稲荷葵と申す。今日からわしが相棒じゃ。よろしくのぅ。」
「……“わし”?」
「歳の話はするもんじゃないぞ、若造。」
加賀見は思わず彼女を見つめた。
見た目は二十代前半、どう見ても年下。
だが、目の奥の光は何か違う。
人間の時間とは別の層に生きているような、底の見えない深さ。
「……はぁ、なんなんだこの職場。」
小さく漏らした声に、葵が唇を吊り上げた。
「ふふ、慣れるのぅ、若造。」
室長の咳払いが、それを遮った。
「二人とも、勤務時間中だ。廊下でやれ。」
⸻
室長室を出ると、廊下には人の気配がほとんどなかった。
照明は昼光色なのに、光の端に薄い霧のような揺らめきが漂っている。
外の庁舎と同じ建物とは思えない。
「さて、と。」
葵が首を回し、軽く伸びをした。
「案内してやるかの。ほれ、ついて来い。」
歩幅が小さいのに、妙に速い。
加賀見は半歩遅れてついていく。
「さっきの室長、あれ本当に人間なんですか。」
「さあのう。あの者は、昔からああじゃ。」
「いや、“昔から”って、どれくらい昔なんです?」
「んー、百年か、二百年か……どっちじゃったかの。」
歩きながら、さらりと言った。
軽口に聞こえたが、冗談には思えない。
加賀見は返す言葉を失い、ため息を飲み込んだ。
廊下の奥に進むにつれ、空気が変わる。
壁沿いには見慣れない装置。
古びたお札のようなものが貼られた金属パネルが、一定のリズムで光っている。
まるで心臓の鼓動のように。
「ここが“結界層”の境目じゃ。」
「……何の層ですか?」
「人と妖の境をぼかす膜、みたいなもんじゃな。
人間だけじゃ耐えられん空気を、うまく馴染ませるんじゃ。」
そう言って、葵は軽く肩をすくめた。
「まあ、気にせんでええ。慣れれば匂いも感じんようになる。」
言われてみれば、確かに空気の匂いが変わっていた。
湿った土と、冷えた鉄のような匂い。
それが喉の奥に薄く残る。
「で、さっきの話ですけど、妖って本当に——」
言い終える前に、葵が立ち止まった。
振り返った顔に、わずかに笑みが浮かぶ。
「言葉より早いほうが、分かりやすかろうて。」
その瞬間、視界の端で何かが揺れた。
白。
ふわり、と光を反射して波打つ。
尻尾だった。
雪のように白く、三本。
柔らかそうな毛並みが、照明の下で静かに揺れる。
根元から、確かに彼女の身体に繋がっていた。
空気が一瞬止まる。
音も、呼吸も、時間も。
「……嘘だろ。」
声が掠れた。
頭の奥で、昨日の光景が再生される。
壁を駆け上がった影。黒服の男女。
そして今、目の前で揺れる尻尾。
葵はいたずらっぽく笑った。
「驚いたか? ほれ、触ってもええぞ。」
「いや、結構です!」
「そうか。遠慮深いのぅ、若造。」
尻尾が軽く揺れ、ほのかに光る。
狐火のように、柔らかい白い光。
幻ではない。触れずとも分かる“現実”。
加賀見は頭を抱えた。
「なんなんだこの職場……。」
葵は肩をすくめて笑った。
「慣れるから安心しろ、若造。」
⸻
廊下の突き当たりに、曇りガラスの扉。
内側から、人の声と紙をめくる音が聞こえてくる。
「ここが特対のオフィスじゃ。」
葵が軽くノックもせず、ドアノブを回した。
瞬間、加賀見は息を呑んだ。
白い蛍光灯の光。
机、パソコン、書類棚、コピー機、コーヒーメーカー。
どこからどう見ても“普通の職場”だ。
だが、視界を横切るものが、普通ではなかった。
頭に角を生やした青年がキーボードを叩き、
河童が湯気の立つマグカップを運び、
奥では羽を畳んだ女性が書類をホチキスで留めている。
誰もが当然のように働いている。
異形であることが、日常であるかのように。
「……冗談だろ。」
加賀見の呟きに、葵が肩をすくめた。
「現実じゃよ。ここは“見えんもの”を相手にする職場じゃ。」
そのとき、奥のカウンターからスーツ姿の女性が歩み寄ってきた。
先ほど、加賀見をここまで案内してくれたあの女性だ。
「お疲れさまです、葵さん。加賀見さんは先ほどぶりですね。」
静かに微笑むその顔。
前髪の奥の瞼がゆっくりと開き、
その下から大きな琥珀色の瞳が現れた。
人よりもわずかに大きい――それだけで、印象が違う。
光を受けると、まるで硝子のように深く透き通る。
「監察補の一ノ瀬 灯(あかり)と申します。
以後、お見知りおきを。」
名刺を差し出す仕草は洗練されていたが、
その目が、まっすぐに加賀見を見ていた。
心の奥まで覗かれているような視線。
「この子はのぅ、怖そうに見えて優しいぞ。」
葵が笑いながら加賀見の肩を叩く。
「昔は子どもの妖の世話係じゃったくらいだからのぅ。」
一ノ瀬がため息をついた。
「紹介の仕方が雑ですね、葵さん。」
「雑なほうが印象に残るじゃろ?」
職員の笑い声がいくつか重なる。
その中には人の声だけでなく、低い唸りのような音も混じっていた。
「ここが我々の居場所じゃ、加賀見殿。
表では見えんものを、裏で見て、記録して、調整する。
それが“特対”の仕事じゃ。」
河童がひょいと手を上げた。
「おう、新入りか。よろしく頼むわ。」
「……あ、どうも。」
袖口に水滴が一つ落ちた。
加賀見はそれを見て、現実を飲み込もうとする。
「まあ、案外普通じゃろ。」
「普通って言いました?」
「“うちの基準”では、の。」
葵が軽く笑い、一ノ瀬が静かにドアを閉める。
外の世界の音が、完全に途絶えた。
⸻
オフィスの一角、ガラス張りの喫煙室。
換気音と、ほのかな煙の匂い。
壁際に並んだ灰皿と、簡素な二脚の椅子。
葵は火をつけ、煙草をくわえた。
オレンジの火が一瞬、瞳の奥を照らす。
「……まだ信じられん、って顔しとるの。」
加賀見は黙って缶コーヒーを開け、
口に含んでから煙草に火をつけた。
苦味が舌に残る。
まるで現実を確かめるように。
「まあ無理もない。
昨日まで人間の犯罪者を追ってた者が、
今日から妖怪と並んで働け言われたら、普通は混乱する。」
葵は灰を落とし、ぼんやりと窓の外を見た。
地上の光は見えない。
厚いコンクリートの向こうで、車の音が遠くにぼんやり響く。
「ここはな、国でも警察でもない。
どこにも存在しない、けど必要とされとる部署じゃ。
“共に在る”を維持するための、影の調整役よ。」
「……妖怪の、犯罪もあるんですか?」
「ある。
ただし“犯罪”の定義は、人間のそれとは違う。
古き掟か、怒りか、あるいは人の無理解か。
どちらが悪か、ようわからんことも多い。」
葵は煙を細く吐き、笑みを浮かべた。
「だが安心せい。正義感が強いのは悪くない。
そのままの目で、見ればいい。」
加賀見は少し息をついた。
「……葵さんは、いつからここに?」
葵は少し目を細める。
その横顔は、まるで古い桜の幹のように静かで強い。
「さあ、どれくらいになるかのぅ。
明治の頃の煙草は、今よりずっと臭かったぞ。」
「……はい?」
「冗談じゃ。」
くすりと笑って、葵は煙草を灰皿に押し付けた。
細い煙が、ゆっくりと消えていく。
「ほれ、そろそろ行くぞ。
特対へようこそ、加賀見調査官。」
その言葉に、加賀見は軽く背筋を伸ばした。
現実感のないまま、けれど確かに、
“見えない世界”への扉が開いたのだと理解する。
扉の外、蛍光灯の光が遠くに滲んでいた。
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