第17話「ぎこちない恋人、初めてのデート」

 蓮と本当の恋人になって、初めて迎えた朝。

 僕はキッチンのコンロの前で、盛大にパニックに陥っていた。


「ど、どうしよう…。火加減が…卵が焦げる…!」


 フライパンの上で、スクランブルエッグが無残な姿になろうとしている。

 ただの朝食なのに、どうしてこんなに緊張しているんだろう。隣には僕の手元を、楽しそうに眺めている元・憧れの君がいるせいだ。


「湊、落ち着け。そんなに力まなくても、俺はお前が作ってくれるものなら何でも嬉しいよ」


 後ろから、蓮が僕の腰を抱きしめて肩に顎を乗せてきた。彼の吐息が耳にかかって、くすぐったい。


「ちょ、蓮…! 危ないだろ!」


「だって、湊が可愛いから」


 彼は悪びれる様子もなく、僕の首筋にちゅっと音を立ててキスをした。

 顔から火が出そうだ。心臓がうるさくて仕方がない。

 恋人同士って、こんなにも距離感が近いものなのだろうか。

 結局その日の朝食は、少し焦げたスクランブルエッグと焼きすぎたトースト、そしてやたらと甘い空気に満ちたものになった。


 大学では、僕たちの関係の変化はすぐに周りの知るところとなった。

 何しろ、あの神楽坂蓮が今まで以上に僕にべったりで、片時も離れようとしないのだ。

 講義室でも学食でも、彼は僕の隣をキープし誰かが僕に話しかけようものなら、鋭い視線で牽制する。それは記憶を失っていた頃の、無邪気な独占欲とは少し違っていた。

 絶対的な自信に裏打ちされた、王者のような余裕のある独占欲。

 周りの学生たちは遠巻きに僕たちを眺め、「一体、あの二人に何があったんだ…」とひそひそ噂し合っている。その視線が僕には少し居心地が悪かったが、蓮は全く気にしていないようだった。


「湊、今週末、空いてるか?」


 昼休み、中庭のベンチで蓮が尋ねてきた。


「うん、特に予定はないけど」


「じゃあ、デートしよう」


「で、デート!?」


 思わず大きな声が出てしまった。

 蓮はそんな僕の反応を、心底おかしそうに見て笑っている。


「なんだ、その反応は。恋人同士なんだから、当たり前だろ?」


「そ、そうだけど…。でも、どこに行くんだよ」


「それは、当日までのお楽しみだ」


 彼はそう言って、意味深に微笑んだ。


 そして、週末。

 僕たちは初めてのデートに出かけた。

 蓮が連れて行ってくれたのは、海沿いにある大きな水族館だった。

 巨大な水槽の中を、色とりどりの魚たちが優雅に泳いでいる。暗い館内に水槽の青い光が幻想的に差し込み、僕たちはまるで海の中にいるような気分になった。


「綺麗…」


 僕は、思わずため息をついた。


「ああ。でも、お前の方がもっと綺麗だ」


 隣で蓮が、真顔でそんなことを言う。


「…そういう、恥ずかしいこと、急に言うのやめてくれないか」


「なぜだ? 本心だが」


 彼はきょとんとした顔で、僕を見つめる。こういうところが、本当に心臓に悪い。

 僕たちは手をつないで、ゆっくりと館内を歩いた。

 大きなジンベエザメ、愛嬌のあるペンギン、ふわふわと漂うクラゲ。見るものすべてが新鮮で、輝いて見えた。

 蓮と一緒にいる。ただそれだけで、ありふれた景色がこんなにも特別なものになるなんて。


 水族館を出た後、僕たちは近くの砂浜を散歩した。

 夕暮れの空がオレンジ色と紫色に混じり合って、海面にきらきらと反射している。

 波の音が、心地よく耳に響く。

 僕たちはどちらからともなく、砂浜に腰を下ろした。

 しばらく無言のまま、沈んでいく夕日を眺める。

 隣にいる蓮の横顔が夕日に照らされて、美しく輝いていた。

 僕は、この時間が永遠に続けばいいのに、と心の底から願った。


「なあ、湊」


 不意に、蓮が口を開いた。


「俺、お前と番になれて、本当に良かったと思ってる」


「…うん。僕もだよ」


「お前を、絶対に幸せにする。だから、ずっと俺のそばにいてくれ」


 彼は僕の方に向き直り、僕の手を両手で優しく包み込んだ。

 その真剣な眼差しに、僕はうなずくことしかできなかった。

 言葉にしなくても、分かっていた。

 僕たちの気持ちは、もう一つなのだと。


 ぎこちなく始まった、僕たちの恋人としての関係。

 初めてのデートは少し照れくさくて、でもとびきり甘くて、幸せな時間だった。

 これから、僕たちはたくさんの「初めて」を一緒に経験していくのだろう。

 その未来を思うと、胸が期待と幸福感でいっぱいになった。

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