025その結婚は詐欺ですか?

矢久勝基@修行中。百篇予定

025その結婚は詐欺ですか?

 その男にモテ期などはなかった。

 人生のモテ期は三度訪れるとはいうが、年も三十路に達した頃、占い師に恋愛運を聞いたら、一歳と二歳と四歳の時だと通告されてしまった。

 若い頃はそれでもよかった。男なんてモテない奴が大半だし、特に危機感も感じなかったものだが、三十を越え視野に入ってきて、結婚式に呼ばれる回数が滅法増えてきた頃から意識をせざるをえなくなり、三十五を越して四十が視野に入ってくると、焦りにも似た感情が芽生えてきた。

「結婚したい」

 いつもの居酒屋で、学生の頃からの腐れ縁である史弥(ふみや)にぼやいてみる。

 史弥はといえば、微々目をそらし、考えるふりをしていた。

 なにせ、この男に女を惹きつける部分がない。ナンパなんてできる男でもないし、合コンしても複数人の中でイニシアティブをとれるタイプでもない。容姿などは特に……。

 唯一、金はあることが武器だとすれば……史弥は顔を上げた。

「結婚相談所はどうだ?」


「○月××日、十九時からよろしいですか?」

 園田という男の営業っぽい声に適当な返答を送った順太郎は、スマホから耳を離した。今度の相手は由利というらしい。

 出張風俗ではない。史弥の提案で登録した結婚相談所の、いわゆる見合いだ。

 男女それぞれ、高い登録料を払って登録し、月会費を納めながら相談所が都合する相手と会い、それがめでたくゴールインとなった場合は成功報酬として高い謝礼を払うという仕組みである。

 相談所が都合するといっても完全にランダムではなく、まず相談所が希望を聞き、それに沿った相手を十名前後ピックアップしてくるので、その中から数名を選ぶという形。

 相談所は選ばれた相手に「この人が指名しました」とプロフィールを送り、相手が了承すれば、晴れて出会いが成立する。

 もちろん、成立したからとてうまくいくとは限らない。いやむしろ、うまくいくケースなんてあるのかと疑いたくなるほどに、順太郎を襲ったこれまでの出会いはひどかった。

 あれはいくつ前の機会だったか。

「こんにちは」

 声をかけた順太郎に、彼女は目をあわせようともせず無言で会釈をした。

 相談所に指定されたレストランのテーブルにディナーが運ばれると、彼女は無言のままもさもさと食事を始める。

 そのままだとそのまま終わりそうなので、順太郎が声をかけてみるが、

「プロフィールに書いてあったんですが、映画が趣味とか……」

「はぁ……」

「何を見るんですか?」

「いろいろ……」

 まったく弾まない会話。まるで、この場所に来たのは自分の意思ではないのかと問いたくなるような暗いムードのまま、時間は過ぎていった。秒針が音を立てる時計なら、その音がやけに大きく聞こえるほど、気まずい時間が過ぎてゆく。

 代金は順太郎が出したので、あれはまさかタダ飯を食いに来ただけだったんじゃないかと、彼は今でも思っている。


 彼女だけが特別酷いかというと、そうでもない。

 出会いのチャンスを求めて高い金まで払っているのに、いざ対面となると非常に消極的な女性が少なくないのだ。

(それは会った瞬間、「コイツはない」と思われたんじゃないか……)

 これは後日、行きつけの飲み屋で愚痴られた時、史弥の脳裏に咄嗟に浮かんだ感情だったが、まさか本人の前でそんなことはいえない。

 とりあえず、

「そんな奴だからいままで結婚できなかったんだろう」

 と返答すれば順太郎も納得した。

 史弥は塩の効いた枝豆の皮をしゃぶりながら、順太郎を目に映す。

 まぁ、見た目で勝負できる男ではないため、初めて会った女性がテンション上がらないのもわからないではない。のだが……。

 それなら問い合わせの時点でNGを出せばいいだけの話じゃないか。会う前に順太郎のプロフィールは女性側に流れるわけだから、顔かたちも分かっているはずだ。

 その時点でガッカリしているなら、なぜわざわざ出会ってまたガッカリするんだろう。わざわざ凍りついた一時間を過ごすのだろう。この辺が史弥にも分からない。

「だから、タダ飯を食いに来たんじゃないの?」

「さすがにそんなことするかな……」

 結婚相談所の実態を知らない史弥は無邪気に思案しているが、百戦錬磨(?)な順太郎にとっては、それが信じられるくらいテンションの低い女性も多いのだ。

 高い月会費を少しでも取り返そうと、奢ってもらえそうな男を選んで胃袋を満たしているのかもしれないし、あるいは本当に、暗くじめじめした倉の隅で漬け込まれた漬物のような性格なのかもしれない。

「まぁ、チャンスはまだまだあるだろ?」

 史弥は励まし、順太郎もうなずいたわけだが……。


 いろんな女性がいる。

 会話が弾んだと思いきや、「自分のペースで話ができなかった」と断ってくる女性や、機関銃の弾丸のように自分から話すだけ話して、「フィーリングに合わない」と突っぱねる女性。

 それらの理由はすべて相談所に後日理由を告げられ、軽い説教を伴って順太郎に伝えられる。

「あまり相手のことを根掘り葉掘り聞いちゃだめですよ……」

 とかアドバイスを受けたりするが、ひたすら黙りこくっている女性に対して、他にどんな方法で会話が広げられたというのだろう。

 というか、順太郎も話を広げるのがヘタなのだ。と、史弥は〝敗戦〟するたびに飲み会となる二人の席でそう思っている。

 まぁ、容姿がよくて話し上手なら、今こんなところで敗戦の苦り酒など飲んではいないのだろうから仕方ないとは言える。それを圧しての結婚相談所なのだ。なんとかうまくいくといいとは史弥も考えてはいるが。

「アレだよ。たった一時間で人間の魅力を伝えるのも難しいってこった。だけど、相手も結婚を前提に会おうとしてるんだから、数撃ってけばフィーリングに合う人もきっといるよ」

 ……そして彼は、さらに敗戦を積み重ねていった。


 そんな彼の、唯一の強みは〝金〟である。

 地主の息子で、金は不動産やマンション経営で潤沢だし、これが枯渇する心配は、すくなくとも順太郎の代ではありえない。

 その強みのおかげで、敗戦は続いてもコンスタントに女性と壇上に上がることができている、というのは史弥の見立てだ。

(だから怖い)

 とも思っている。順太郎は結婚に躍起になっているし、そんな彼のプロフィールの年収欄は、人によっては蜜の詰まった壷のように見えることだろう。

 平たく言えば、結婚詐欺の恰好のエサともいえ、だから逆に、うまくいかないうちは安心だと思ってもいる。

「次の、由利さんってのに会うのはいつだっけ」

「明日」

 その〝明日〟。順太郎は最寄り駅からJRに乗り込んで、目的地へと向かった。

 決まりとして、相談所で落ち合って、和洋中だけ決めて、業者の職員がそこまで誘導した後二人にされる。

 犯罪の防止もあるし、勝手に連絡を取り合われると、申し合わせて退会されたら成功報酬が受け取れないため、厳正な部分であった。

 都心に近い、ビル群の立ち並ぶ駅で降りて、日の落ちた後の道を車のライトが照らす中をほんの数分歩く。大掛かりな事務所は必要ないため、一等地の小さな区画をテナントとして借りている相談所は、雑居ビルの六階にある。

 狭いエレベーターのボタンを押し、そこまで昇れば清潔感の漂う真新しいオフィスが、今日も金木犀のような香りを漂わせていた。

 もうすっかり慣れっことなった順太郎は、まるで自分の職場のように自動ドアをくぐった。するとこれまた普段通り「あぁ佐久田さん、いらっしゃいませ」と、営業スマイルで迎えられる。応接室という名の簡素な一室で、園田という順太郎の担当者が言った。

「由利さんはもうちょっとでいらっしゃると思いますので、お待ちくださいませ」

 彼は順太郎に一人掛けのソファを促すと紙コップのコーヒーを運び、部屋を出て行った。

 ここで、将来の伴侶となるかもしれない女性を待つ、ということになる。

 もっとも、純粋に期待していた頃は人並みに緊張もしたものだが、相次ぐ敗戦に、最近はもはや期待感もない。この日も「どうせ次も駄目だろう」という思いが、静かな部屋に沈んでいた。


 現れた女性は、始めからはつらつとしていた。

「こんにちは! よろしくお願いいたします!」

 それがまず、順太郎の冷静な判断力をすべて吹き飛ばす。今までの、コミュニケーションに難のある女性にはない輝度を彼女は湛えていたのである。

「ではお話のできる場へ向かいましょう。和洋中どちらになさいますか?」

 園田が合いの手を入れると、

「お任せします」

 にこりと微笑む由利。小柄な身体をオフィスカジュアルで包み、ショートボブをやや明るい色にしている彼女は、ソファには腰掛けず、扉のところに立ち尽くしている。

 「では洋食で」ということに決まって立ち上がった順太郎は、初めて来た頃のように、慌てて相手との話題を探し始めていた。


 この街はレストランが多い。

 仲介者である相談所の担当も、特に男性の年収や希望に応じて紹介するレストランを変える。敗戦続く順太郎はいつしか、行くレストランのランクを下げていたが、今回は無言の合図でいいレストランを園田に示唆した。

 園田ははじめからそちらに向かうつもりだったように力強く二人を先導し、手配を行うと、

「ではわたしはこれで……」

 と姿を消す。

 丸テーブルは白いクロスのかかったやや小さめのもので、対面して遠すぎず近すぎず、窓の向こうにビル群の明かりの見える、静かな空間であった。

「今日はよろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げる由利。上げた顔も美しい。順太郎は微笑むことすら忘れてしまう。

 ちなみに代金は男性が出すか折半かは男性側が決められるのだが、彼はどのようなランクのレストランにいっても一応は彼が持つスタンスを崩さなかった。この辺は園田の入れ知恵である。

 園田としては、年収の高い男性会員の場合は特に、折半にするだけで女性からの心象にマイナスになることを知っている。高年収の男性がリストから選んだ場合、女性側で年収の部分を見ていないケースはまれで、折半などにすれば「高収入なのにしみったれた奴だ」と思われがちなのだ。

 レストランのランクを下げることも同様なので、該当会員には本当のところをオブラートに包みつつ、あらかじめそのように助言をするのである。

 とはいえ、由利から、

「今日はご馳走になります。ありがとうございます」

 と言われた時、順太郎はなんのことだかわからなかった。先に礼を言われたことなど、初めてなのだ。


 彼女は聞き上手だったし、話し上手だった。話は弾み、順太郎は初めて、……本当に初めて、この結婚相談所での出会いに、楽しさを感じていた。

 おまけに、別れ際の言葉……「次はいつ逢えますか?」という言葉で思わず息をのむ。

 とにかく、すべてが初めての経験だった。

 その出逢いには二度目があり三度目があり……四度目のデートの前となって初めて、順太郎は史弥に彼女との様子を伝える。

「なんだよ。ずいぶん報告が遅かったじゃないか」

 から始まった事後報告。楽しそうに語る順太郎を見て、しかし史弥は徐々に追い詰められたような表情を浮かべ始めた。

「それ、大丈夫か……?」

「え?」

「詐欺……じゃないのか……?」

「ええ!?」

 だっておかしい。

 今までの出会いで受けた仕打ち(?)を考えても、明らかに不自然な流れではないか。そんなに溌剌とした娘さんなら、こんな男に捕まる前にもっといい男とうまくいきそうなものだが。

 いやもちろん、本気でフィーリングがあった可能性もなくはない。なくはないが……。

 正直、こんなのにそれほど積極的になるなんて、何か裏があるとしか考えられない!!

「お前、頭の中でものすっごくひどいことを考えてないか……?」

「事実だから仕方がない」

「ほんと友達なの?」

「友達じゃなかったらオメデトウで済ますところだよ」

 済まない可能性があるから、あえて水を差してるんじゃないか。と言わんばかりの史弥に順太郎も不安になってくる。

 一理ある。今までの女性たちの対応を見て、そのギャップは確かに不自然だ。

 それは単に由利の性格によるもの……とも言えなくはないが……。

 頭を捻りながら、順太郎は言った。

「いや、だけど、結婚相談所って高いんだよ。詐欺師ならそんな元手かけるかな」

「だから詐欺師じゃない。……と思わせられるなら、詐欺師にとっちゃ都合がいい」

 詐欺師事情などは分からないが、大口を狙うなら情報の揃いやすい結婚相談所は有効であると言えるかもしれない。まさかという坂を登りつめるのが詐欺師だとすれば、そのフィルターを突き破らない限り、真実は見えてこないのではないか?

「……」

 気持ちが表情に出て、肩も沈む順太郎。史弥は「まぁ」とフォローを入れた。

「詐欺なら、金の話が出てくると思うんだよ。考えるのはそこからでもいいんじゃないか」

「そうだね……」


 順太郎と由利の逢瀬は六回。そのいずれも、まるであつらえたかのような気の合い方をしていた。

「順太郎さん、わたしたち、もう相談所を離れてもいいんじゃないかしら」

 多額の成立料を払わなければならないが、後は他のカップルと同じように、相談所に管理されずに付き合うことができる。

「……」

「それとも、他に意中の方がいらっしゃって……?」

 煮え切らぬ態度に踏み込む由利。順太郎は慌てた。

「そんなことはないよ」

「じゃあ、どうして……?」

「……」

 聞けない。彼にとってはリスクでもあり、チャンスでもある。そしてこのようなチャンス、二度巡ってくる保証はない。

「わたしじゃ……不満……?」

「……」

 ここで優柔不断な様子を見せて、彼女を誰かに取られてしまったら、とは思う。彼女は登録して間もないとのことで、多くの男性に会っていない。百戦錬磨の身で間違いなく言えるのは、この相談所に於いてこんな女性を野に放ったら、一瞬で他の鳥にさらわれてしまうであろうこと。

「……」

 しかし史弥の言葉もあるし、そもそもこんなにあれよあれよとうまくいくことが、順太郎にはどうしても信じきれない。

「キミを信じていいんだね……?」

「信じる……?」

「これ、嘘じゃないよね? 裏切ったりしないよね?」

「裏切るだなんて……わたしはいい人を見つけるために相談所に登録したのよ? 人を裏切るためにお金払ってたんじゃないんだから」

「僕のどこが気に入ったの?」

「話しやすいところ」

 その屈託のない笑顔に嘘は見えない。彼は今までそれほど相手の心理を気にして話をしていたことがないから、会話が円滑に進むなら、それは弾んでいると判断する頭しかなかった。


 三十万を支払い、相談所を退会した順太郎は、その後由利との逢瀬を重ねてゆく。

 恋愛……ではないので、どこか他人行儀ではあるのだが、それでも由利の見せるさまざまな表情に徐々に心を許していく順太郎。

「子供は二人ほしいなぁ……」

 山下公園の、海の見えるベンチに座り、空を見上げた由利が言う。

「わたし、結婚したら仕事辞めてもいいよね。子育てに集中したいの」

「もちろんいいよ」

「子供たちにもいろいろな体験をさせてあげたいから、家族でいろんなところに行こうね」

「ああ」

「あぁ楽しみ! わたし、普通の家族に憧れていたの」

 由利は幼い頃に母親を亡くし、父親は数年後に女を作ってから、由利を虐待するようになった。

 失われた日常。酷い……という言葉だけで片づけてほしくない酷い目に遭った由利は、結局児童保護施設に送られることになる。

「虐待を受けた子供は、大人になって子を虐待するようになるっていうけど、わたしには優しかったお母さんの記憶があるの。お母さんを尊敬してる。お母さんのようになりたい」

 だから、子供が欲しい。子育てをして、今度こそ明るい家庭を築きたい。……それを、自身の過去の境遇への復讐のように考えている彼女の言葉は力強く、真実であるように思えた。

「あのね。正直言うと、確かに順太郎さんに決めたいって思った理由にはお金もある。うちがものすごいお金で苦労したからね。お金がないことが、家庭を壊すことをよく知ってるから……」

 ……でも、信じてほしい。わたしは素敵な家庭のために必要だと思っているだけで、贅沢したいわけじゃないの……。

 瞬きもせずにそれを言い放つ彼女に、順太郎は微笑みかけた。

「幸せになれるといいね」

「あら他人事? 順太郎さんも幸せにならなきゃ、家族は幸せになれないのよ?」

「そうか……」

 これが幸せなのかと、順太郎は噛みしめた。そう信じられるにつれ、彼は心を決める。

(指輪を買いに行こう)

 無論、婚約指輪だ。さりげなく彼女の指のサイズを聞き、彼は立ち上がった。


 婚約指輪は、〇,六カラットのダイヤをあしらったプラチナ製のものだ。

「おいおい、大丈夫か?」

 史弥はビールジョッキを置いて心配している。

「先に同棲してみた方がいいんじゃないか?」

 結婚詐欺を働く女性は、なんとなく同棲を嫌がる気もする。二人にはまだ肉体関係はないようだし、同棲をはぐらかすようなら怪しいとみていいんじゃないか……という意見だが、

「大丈夫だよ。僕の目に狂いはない」

「……」

 狂いまくってそうだから言ってるのに……。

「金のことは特に言ってこないんだな?」

「いわないよ。彼女は金目的じゃない」

「……」

 詐欺にかかる人間というのは、こうやって騙されていくのだろう。……とも言えるし、本当にイイヒトなのかもしれない。……見分けが、つかない。

 話を聞けば、彼女の映った写真を見れば、間違いなくこの男にとって最後のチャンスだということは分かる。最後の最後の最後の最後のチャンスだ。

「お前、またひどいこと考えてない?」

「本当のことだから仕方ない」

「とにかく、僕は決めたんだ。由利さんと幸せになる」

「おう……」

 由利さんになんの裏もないことを祈る。そう……思うしかない局面である。


 だが結婚指輪を渡すまさにその日、高級レストランで対面した由利は、唇をかみしめてこう言った。

「それ……やっぱり受け取れない……」

 テーブルに置かれたリングケースが、行き場を失ったように佇む。順太郎は言った。

「どうして?」

 遊ばれたのか?……とは思わなかった。ただ純粋に、その展開を予想だにしていなかった彼の目が一点、由利に向いている。

 ワインの向こうの彼女はうつむいて、言いにくそうに口を開いた。

「お父さんが借金をしてたらしくて……ウチにヤクザみたいな人が来たの……」

 支払い能力がない父親が彼女を紹介したようで、押しかけてきたらしい。

「もう無関係だって言ったけど……そんなの通じる相手じゃないし……」

 このままではあなたにも迷惑をかけてしまう。だから……結婚はできない。というのだ。

 いつもとは全然違う、暗い空気がテーブルを覆う。

「病める時も健やかなる時も……っていうけど、病むことを前提に、あなたと一緒になりたくない……」

「病める時も……か……」

 順太郎が顔を上げる。

「いくらなの?」

「え……?」

「いくら必要なの?」

「……」

 彼女はうつむいた。そして消え入りそうな声で、

「五〇〇万……」


「ほらきた」

 翌日、いつもの居酒屋で史弥と会った順太郎が事情を話せば、彼はすぐに反応した。

「詐欺決定じゃん」

「とは限らない」

 だいたい、彼女はその五〇〇万を出してくれとはまだ言ってない。

「同じだよ。五〇〇万出さなかったら結婚しないって言ってるようなものじゃないか」

「そうかな……」

「いや、だって、お前、『それはとりあえず置いておいて結婚してください』って言えるか?」

「うーん……」

「もう会わない方がいいと思うよ。詐欺に決まってんじゃん」

 そもそも、彼女の過去話だって怪しい。証明のしようもない話は、いくらでも作り話ができるじゃないか。

「……」

 そういう史弥の言葉に対して、怒ることのできない順太郎がいる。

 分からない。可能性でしかない。もっと長く付き合っていけば分かっていくこともあるかもしれないが、すでにお互い賽を振ってしまっている。ここから元の淡い関係に戻ることは難しい。

 婚約指輪が早すぎたというのもあるかもしれない。しかし、〝結婚を前提に〟始まる付き合いにおいて、そこをはぐらかし続け、だらだらと長く進展しない関係を続けるのも難しい。

「探偵雇ってみるってのはどうだ」

「……かっこ悪くない?」

 そこまで相手を疑って、どう一生を添い遂げるというのだ。

「いや、見栄張ってる場合じゃないだろ」

「……信じたいんだよ……」

 人間、気持ちにバイアスがかかると、理性的な判断などはできない。人はこうやって騙されていくのだ……と、史弥は改めて思う。

 しかし、それをすべて疑った挙句、一生モノの信頼関係を生み出していけるのか……という順太郎の気持ちが分からないでもない。

 信じたい……その気持ち、分かる気はする。

 信じられない相手に、どんな一生を約束できるものか。

 賢いのは探偵を雇うことなのかもしれない。しかし直面しているのはビジネスではない。

 賢いかどうか……では、ないのだ。

「どう思う……?」

 とはいえ、信じたいと言った順太郎の心も揺れている。二人の酒のグラスが、今日はやけに重い。

 なかなか答えない史弥の表情を見て、順太郎は呟いた。

「探偵も……考えてはみる……」

 ……その空気は、とても婚約前とは思えない。


 居酒屋からはいつも歩いて帰る。

 ほろよいの身体をそよ風で洗いながら往くのが好きなので、タクシーなどは使わない。車通りの少ない道を、星を眺めながら歩いてゆく。思考力が低下してるからなお、深いことを考えたり小さなことにくよくよせずに済むのがいい。

 しかし、その日の風は少し違っていた。薄暗い空気を巻いて、声が聞こえるのだ。

「気づく?」

「……」

 初め、空耳だと思った順太郎は気にしなかったが、風はやがて、同じ音を奏で始めた。

「気づいて。気づいて。気づいて。気づいて。気づいて。気づいて」

「え、え、え……?」

 立ち止まり、辺りを見回すが、自分以外人はいない。

「姿は探さないで。見つからないから」

「だ、誰?」

「アタシは精霊……精霊ラウラ」

「精霊?」

「困ってるよね?」

「え、なにを?」

「アタシは人の記憶に潜ることができる。困ってるよね?」

 自分が何に困っているのか……酒を浸した頭で考えて、思い出した。

「困ってる」

 確かに自分は今、人生最大級に困っていた。

「佐久田勘右衛門には世話になった。助けてあげる」

 順太郎すら知らないその名は彼の先祖で、昔この地の豪農だった男のものだ。

「阿久津由利の記憶だよね? 投影してあげる」


 その声はまるで夢のようだった。

 その記憶はまるで幻想のようだった。

 ただ、彼は頭の中でずっと流れ続けたドキュメンタリー映画を焼き付けた。


 次の日の夜、彼は彼女を呼び出した。山下公園。海の見えるベンチの前。

「もう、会わない方がいいと思ったのに……」

 おずおずと呟く由利がいる。順太郎は無言でカバンから何かを取り出した。

「これ……」

 袱紗である。中にいくらが包んであるかは言うまでもない。

 由利は驚いたような表情を見せ、目を泳がせた。

「いいの……?」

「受け取って」

 彼は一歩進み出て、彼女の胸元に押し込むようにそれを突き出す。それを静かに受け取って、「ありがとう……」と含む由利。しかしその時、順太郎は思いがけないことを言った。

「これでさよならだ」

「え……?」

「キミは詐欺師だろ?」

「は……?」

「結婚詐欺はこれで四度目。今までだまし取ったのは、一〇〇〇万円を超えてるよね」

「……そんなわけないでしょう?」

「記憶を覗かせてもらったんだ。僕も半信半疑だったけど……僕との記憶がキミの視点で流れてきた時、納得できた」

 その目は順太郎を見てはいなかった。彼を騙すために最適な取り入り方ばかりを考え、耳障りのいいセリフを探す彼女が記憶されていたのだ。

「意味が分からない!」

 由利が怒気を顕わにする。袱紗を握って順太郎を睨みつけた。

「記憶を覗いたってなに!? そんなのありえない!」

「じゃあ、それを渡したら、本当に僕と結婚してくれる?」

 彼女は一瞬だけ息をのみ、別のことを言う。

「詐欺だと思うならなんでこれを渡したの!?」

「親父さんの借金で、ヤクザに追われてるのは本当、だね?」

「……」

「親父さんからの虐待の記憶も本当だった。キミは本当に、つらい人生を歩いてきたよね」

「同情かよ!!」

 彼女は袱紗を地面にたたきつけた。

「馬鹿にしないでよ! こんな金、受け取れるか!!」

「受け取って。今のキミに必要なお金のはずだ」

 地面をほんの少し跳ねた袱紗を拾い、再び彼女の前へ差し出す順太郎。

「キミは、これを最後の仕事にしようとしている。本当は親父さんの借金は四〇〇万。後の一〇〇万で、すべてから解き放たれるために高飛びするんだよね?」

「……」

「すればいい。僕はそれにはついていけない」

 相手はヤクザだから、借金を返しても何かと付きまとうかもしれない。彼女が本気で人生をやり直すなら、足のつく場所にいてはいけないという苦悩すら、ラウラは順太郎に見せた。

「貸してって言ったけど、返さなくていい。……これからの人生、がんばってね」

「はっ!! 金持ちが! 余裕ぶりやがって!!」

 由利の目じりに涙がにじむ。

「その妄想が全部見当はずれだったらどうすんのよ……」

「いやぁ」……順太郎は笑い出す。

「僕、モテないって分かってっからね。キミみたいな人が始めから乗り気になるような男じゃないことは、僕が一番よく知ってる」

 精霊ラウラなんて、本当はいなかったのかもしれない。宵の空と酒に酔った自分が作り出した思い込みだったのかもしれない。それでも、彼はその答えに納得していた。あるいは劣等感がなした業かもしれなくても……彼は、それで納得したのだ。

「今まで、楽しい時間をありがとう。本当に楽しかったから、キミを助けたいと思ったんだ」

「……」

「受け取って」

「……」

 彼女はゆっくりとその手を差し出し、袱紗を受け取った。そしてポツリ……呟く言葉が、そよぐ海風に乗る。

「結婚……したかったな……」

 そして、ひょっとすれば交わり一つになるかもしれなかった二人の影はゆっくりと離れた。

「いつか……」

 彼女は何かを言いかけ、小さく首を振って、力なく、夜の闇へと消えていった。


 それから六年……

 順太郎は家のポストを覗いて、思わず「あっ」と声を上げていた。

 阿久津由利からの便りが、彼の人生の、新たな季節の到来を告げていたのだ。

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