舟歌
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舟歌
ふと呟いていた。
「バルカロール、バルカロール。君が歌えば」
目を開けていたはずなのに、今まで何を見ていたのか覚えていない。いったい、ここはどこだろう、とありがちな台詞を思いつく。ついでに、私が誰なのか分からないことにも気が付いた。
困ったことになった、と一度目を瞑り、闇を見つめてみてから目を開けた。やはり分からない。困ったな。
周りの景色が単純明快だったのが幸いした。ただの丘だ。緑色の斜面。青い空。遠く両端には深緑の森。「ここはどこ?」と「私は誰?」の疑問を解決するような情報が一切無かった。
誰もいないんだし、と丘の斜面にばたりと倒れて転がった。鼻先や目元に草の先が当たって、痛痒い。土と草の匂いがする。涼しい風が地を這って丈の短い草を通り抜けて私にぶつかった。一応、頬をつねってみるがまあまあ痛かった。
うーん、と私は唸る。そもそも、頬をつねるとどれくらい痛かったのかが分からない。
あまりに異常な平和感と時間の流れを感じさせない空気に、もうそろそろ、ここは死後の世界かもしれないと考えなくてはいけないと思い始めた。
人がいないのをいいことに、膝を抱えて、うーうーと声を出して唸っていたが、その声も周りの涼やかで気持ちのいい景色が包み込んで消えてなくなってしまう。まるで優しい顔をした誰かに口を塞がれているような。
声は次第にボリュームが下がっていき、最後には耳の奥でわざとらしい唸り声がこだましているように思えるだけになってしまった。
暖かく心地よい気持ちが、がらがらと音を立てて崩れていった。清々しい景色は寒々し
く、澄み渡る青空は文字通りに空であり、深淵の緑は恐ろしい闇。
いやいや、そんなことはない。投げ出した手の平が地面は温かいことを伝える。大丈夫。大丈夫よ、誰かさん。立って、歩いて、周りを見て。
立ち上がり、よろけるように丘を少し下ると、遠くで目の端に何か鈍くキラキラと光るものを見た気がした。
何だろうと急にワクワクして、もつれる足を無視しながら夢中で坂を駆け下りる。最後はおっとっと、と腕を振り回し、体のバランスを取る。危ない、危ない。
なんと、丘の下は水だった。麓から水打ち際を見極め、顔をゆっくりずらし、水の先を確認しようとしたが前面のぼんやりとした霧のせいでよく見えない。なんだろう、湖かな。
丘の裾を左右見て確認したが、まだまだ続いているように見える。水たまりと池では無さそう。潮の匂いもしないから海でもない。
丘と湖の境界を左に歩いて行くと、船着き場が見えた。丘の端から湖にかけて緩やかに湖の底。透明な膜を掛けられると、緑は色を失う。
そんなところにのんびりと木船が揺れていた。水に木の棒が差さっている。その棒にはロープを三つ編みしたロープが括り付けられており、船に繋がっていた。
それに木の棒は、よく見れば船のオールだ。水に浸かった部分だけではなく、空に飛び出している先も一様にぼろぼろ。木の筋に従った割れ目が見える。ロープは白い。新しいのかな。まるでさっき結ったみたいだ。
まだ何かあるかもしれないと丘の麓沿いに走る。少し行ったところで後ろを振り返り、小さくなった木船を確認して、また走る。しかし景色は延々と同じで、左が緑で右が青から白へのグラデーション。
もう一度振り返った時にはもう走っておらず、駆け足から早歩きくらいになっていた。
回れ右をして、のんびりを気取り、舟の方へ歩いて戻った。
それから行くところが分からなくて、舟の前の丘の麓に腰を下ろし、両足を湖の上に放り出して、そのままぱたりと倒れた。
頭に草の先が刺さる。耳元にも当たるが、何の音も聞こえなかった。目に映るのは青。雲があればいいのに。そして起き上って、膝に肘をついてなんだか悲しい気分になる。
何もない場所。いや、舟はある。もしかしてこの舟に乗ってからが始まりなのだろうか。
始まりって、何の? 思わず笑う。例えば、何かの試練とか。乗っているうちに色々思い出していく仕掛けになっているとかね。
丘の向こうは空色だったのに森の緑と混じってか不思議な孔雀色と変わっていた。丘も空を覆い始めた不機嫌な雲の影によって黒く変色している。影は、吹いていない風によって動く雲のせいで伸びたり縮んだり、ゆらめいたり、のけ反ったりした。
一目見て、まずいと思った。あの影の波が襲ってくる。今はまだ遠くで動くのみだけれど、いずれ、そのうち、こっちまで来るぞ。逃げた方がいい。そう思って後ろを向くと、不安定な湖と霧の景色があった。
舟はどこ? わたしの舟!
「舟歌を歌え」耳の奥から声が聞こえた。
舟歌って? それはどんな歌?
息が出来ない、空気をくれ、安心できる幸せの景色を、舟歌を歌え。その言葉が頭の中で反響しあって、めまいがする。
一度、違う声が聞こえた気もしたが、それを追おうとはしなかった。
何故なら、私が左に逃げ出したからだ。走って、息が切れても走って、そして、そうだ、舟歌を歌うと行きたいところに行けるのだったと思い出した。
もうそれは過去の知識じゃない。今、ひらめいたことかもしれない。
いいや、そうだ。すべては私が考えたこと。
「過去なんて、存在しない。」
バンッ、ガタガタ、と大きな音がした。何の音かと、思わず顔を上げる。
「ちょっと、聞いてる?」
メニリーが拳をテーブルの上に置き、ぷんぷんしていた。
「ごめんごめん。ちょっと、うたた寝…。」
モザイクガラスのテーブルに光が当たって反射しているのを目で戯れる。
「え! 寝てたの? ひどい!」
「大丈夫、ちゃんと聞いてたから。このペラムナ、美味しいって話だったよね?」
「違う! 次は、シャルマス・エーゴに行って、買い物しようって言ったのよ。寝不足なの?」
「そんなことないよ! 大丈夫!」
そう、大丈夫。準備は万端。だって、シャルマスでメニリーにプレゼントを買って、今日の帰りにサンエルカナエの坂で渡すのが今日の目的だからだ。
確かに、昨日は緊張して眠れなかったけど大丈夫。根拠は無いけど、きっと大丈夫だ。
「でもこのペラムナ、本当に美味しいね。」
メニリーが嬉しそうに最後の一口を食べた。
良かった、と僕は心から思った。少しだけ安心して、にこにこしながら歩いていると、彼女に気持ち悪いと言われた。
シャルマス・エーゴは噂に違わず、本当に凄かった。
「すごいね。」とメニリー。
「うん、すごい。」と僕。
二人とも入口を前にしてそれしか言えなかった。
サンエルカナエまで続いているさくらんぼの道は、この地方独特のクリーム色の土に小さな色とりどりのモザイクガラスが波のように埋められていた。日差しは強くないけど、晴れが多いここでは道がいつもきらきらと光っている。
「さくらんぼの道って、さくらんぼ農家が町の上に多いからなんだって。」
「知ってるわ。あ!ねえ、ジュール、見て!」
僕らは道よりも一際輝く目的地を見つけた。
薄い膜みたいな板状の水晶だけでつくられたデパート、シャルマス・エーゴ。さくらんぼ長者の紳士の昔のお屋敷らしい。
「そりゃあ、確かに僕だって、お金があったら、宝石の中に住んでみたいって思うかもしれないけど。」
うわあ、と入口の下を見上げる。
「それを本当に本気で叶えちゃうって、すごい話だよね。」
「お金がたくさんあったら、どうする? 尽きないくらいのお金。」
「つまらない質問ね。」
メニリーは恐る恐る水晶の柱に人差し指を重ねた。
「まあ、ありがちだけど。聞いたことないからさ。」と返しが言い訳じみてしまう。
「そうだなあ、欲しいもの全部買って、美味しいもの食べて、それで。」
彼女はステンドグラスを展示しているガラスケースの向こうから返事を寄越した。彼女の輪郭や表情が色に滲み歪んで見えた。
「そうね、好きな人と世界中の美しいっていわれてるところを旅して、二人で一番を決めるの。この世界に無かったら、次は月にでも行って。」
素敵な夢を見続けられる君は最高だ。だから好きなんだ。
「あなたは?」
「僕? うーん…」
僕の望み。考える時の癖で斜め上を見上げた。空が歪んで見えるというより、空って元々こんなものだったように思える。
「自分の飛行機が欲しいな。」
「でも、操縦出来ないじゃない。」
「訓練するよ。」
本当は、魔術師になりたかった。でもそれは、飛行機みたいに訓練して出来るものじゃない。才能が必要なんだ。でも、飛行機だって、そうかもしれない。訓練して出来るものなのかよくわからない。
メニリーは熱に浮かされたようにきらきらと目を輝かせながら、店内の奥へ奥へと行ってしまう。
僕は吐息をついて、床下に流れる透き通った水の流れとそこに泳いでいる輝く鱗の魚を見ていた。まるで魔法みたいだと思った。
もし魔術が使えたら、僕が頭の中で想像した綺麗なものを作り出して、メニリーの目を輝かせたい。
魔術じゃなくてもいい。空の上から見る景色でもいい。きっと、いや絶対に、世界で一番美しい景色を空から見れると信じている。見てみたいんだ。その中を泳ぐのはどんなに素敵だろう。操縦が出来るようになったら、美しい景色を見る旅に彼女を誘おう。喜んでくれるはずだ。
耳の奥で歌が聞こえる。母がよく歌っている歌。その歌は何、と聞くと、願いを叶える幸せの呪文よ、と僕の頭を撫でながら答えた。
母さんの願いは、父さんが無事に帰って来ること。父さんは無事に帰って来た。でも。
「バルカロール、バルカロール」
願いが叶えば幸せ、というわけにはいかないことを僕は知っている。それでも、叶えたい願いってあるんだよ。
だから、僕は呪文を唱えよう。
「死ね。」
きゅるきゅると音を立てて、蟻はテーブルの上でひしゃげていった。
成果を確認するために、僕は腰を落として、テーブル上に目線を合わせる。蟻の脚が毛玉のように胴体の上で絡まっていた。
ふと見上げると、師匠が目の前に。慌てて、
「すみません、ごめんなさい」と言う。
「その言葉には何の魔力も籠っていない。おまえはいったいここで何を学んでいるのだ。」
返す言葉も無く、僕は蟻と先生の中間の空間をただ見ていた。
先生はテーブルを挟んで向かい側に立ち、蟻を見る。
「これは成功したと思うか?」
「…いえ、先生。」
「何故だ。」
「僕の望んだ形じゃないので。」
師匠は黙って僕を見て、それから蟻を見た。その眼差しは微塵も変化せず、そして言葉よりも確かに意味があるように思えた。
「見ろ。そして、記憶しなさい。」
そう僕に言い、それから先生は蟻に向かって言った。
「解く。」
宙に絡みついていた脚がはらはらと解けていって、そのまま脚は不自然な状態で胴の周りに落ちた。それはもはや蟻には見えない。
「立つ。」
ばらばらの脚があるべきところへ戻って、誰かにつままれたみたいに胴が持ち上がった。
「放つ。」
その瞬間、蟻は目の前の障害がふっと消えたかとでもいうように歩き出した。
先生は死んだものを生き返らせることも出来るのか、と蟻を目で追いながら、その力に畏れ驚いていると、ある言葉が聞こえた。
「死ね。」
丁度、蟻は本の端に到達し、その上を横切っている最中だった。ばらばらと自分の体のパーツを落としていって、それは黒い粉で描かれた線となり、ついに本の端までは届かなかった。
『見ろ』
目を逸らすことが出来なかった。逸らそうとすると逃惑う眼球を押さえつけられ、意思と言葉が拮抗し、体がガタガタ震える。
「これがおまえの望みか?」
「おまえは何故苦しい?」
床へ落ちる。気を失うかと思ったのに、自分の目はテーブルの下の籠と先生の靴をただ映しているのみ。大雑把な体の震えで、肩が床のタイルに擦れて痛かった。さっきとは違う蟻が動かない僕の目の前をゆっくり着実に通り過ぎて行く。
定まらない手を無理に上げて、自分の胸か目を掴むか迷う。しかし、その手は先生の手に包まれた。
「解く。」
先生が持つ僕の手がぐにゃりとだれた。先生に体を支えられ、それから深い吐息、気が付けば目から涙が流れている。
先生は深い憂いを瞳の奥に潜ませていた。
「…先生は、何故魔法を?」声が震えて、小さな掠れにしかならない。
「それでも叶えたい夢があるからだ。たった一つの言葉を全うすることさえ、いつまでも難しい。」
未だ流れる涙や恐怖から逃げられない目を歪ませてしまうことを、恥ずかしいとは思わなかった。
「これを。」
師匠は僕の手に冷たい何かを乗せた。師匠の手が離れて、手の中にあったのはガラスの球体だった。中には何か色鮮やかなキラキラしたものが入っている。
何だろうと手を目の方へ近づけると、ギョッとして手が震えた。
ガラスの球の中で一匹の美しい蝶が翅を動かしている。
師匠は、珍しくふふっと柔らかく笑い、僕の肩に手を置いた。そして、師匠は言う。
「何故、おまえは魔法を使う?」
ただ綺麗で楽しかったんだ。その訳を知りたかった。なのに、いつの間にか、誰かを傷つけることとなっていた。おまえの望みはもっと単純で、最も美しかったはずだ。
「舞え。」
手の中のガラス球が粉々に割れ、中に入っていた蝶がどこかへ飛んで行った。ガラスの破片は手に落ちることなく、瞬く間に小さな蝶へと変化して、僕と師匠を色とりどりに取り囲みながら、みんなどこかへ飛んで行ってしまった。
一匹、先生の指に止まり、それを見ながら先生は言った。
「見事。」
その蝶は、きらきらと光って、瞬きをした間にいなくなっていた。
僕は感慨のため息をつく。それから、感慨を端に避けておいて、代わりに悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「先生、この機に禁断の呪文を教えて頂けませんか?」
悪びれず言ってみる。
「おまえは、また。」とあきれ顔をされた。
とん、と机の上の本の一冊を先生は軽く指で叩いた。
「これが分かったら、おまえの知りたいことも分かるかもな。しかし、この呪文もただの言葉ではないぞ。迂闊に口にしてはならぬ。解けたら、私のところへ答えを持ってくるように。」
青色の皮で装丁がなされた古い本だった。師匠が部屋から出て行った後、早速その本の一ページ目をめくる。
『舟歌』
きっとこれが本のタイトルだろう。何かを暗喩しているに違いない。
次のページをめくると、文字がばらばらと紙の上に散らばっていた。見たことのない文字だ。何だ、これ。こんな言語は見たことがない。
まだまだ勉強不足だというのか、師匠。
諦めて、椅子に座り、僕はその本の文字らしきものを紙に書き写し始めた。
バルカロール、バルカロール
君が歌えば、波は揺らぐ
月に照らされた面は色を失くし、
反対の面は月色に輝いている
バルカロール、バルカロール
私も歌おう、君に会うまで
この静かな歌は穏やかな波
途切れない声はどこまでも続く舟旅
高まるメロディーは行っては帰って
港が見えたかと思うと、それは太陽の煌めきだった
バルカロール、バルカロール
あなたは何を
私はどこへ
バルカロール
いつまでも
どこまでも
くすりと私は笑った。おや、というように隣のテーブルの片づけをしていた店の人が私を見る。私は目で軽く会釈をしてから急いで逸らし、自虐的になっているだろう目の色を変えるために海に目線を移した。瞳が海色に染まればいいのに。景色を見る目が変われば、私も…。
傷心旅行、慰安旅行と称して、私は現在一人旅中だ。が、実際のところ、これは逃避行であって、色気のない駆け落ちであり、心中の計画でもあった。しかし、どれも達成できていない。何もしていないのと同じだ。
いっそ色気づいた方がいいかもしれない。何か、情動的なことをしよう。そう思い、『舟歌』の原稿の一ページ目を折って紙飛行機にし、機体にキスしてから、えいと投げた。
海に向かって投げたのに、絶妙なコントロールのせいで、自分の足元の床の隙間に挟まっただけに終わった。私はそれを見つめた。それから拾い上げて、椅子に戻る。己の闇が暴走して、環境を破壊するところだった。危ない、危ない。
初めは、ただの安らぎを求めていたのだ。しかし、何か楽しいこと、落ち着く場所、私が好きなこと、好きなものと考えていった結果、一人で辺境の海の向こう側をひたすら眺めながら、現実逃避のような小説を書いていた。
そうか、この状況こそが私の望みだったのかもしれない。そう思って旅に出てから、早や三日。
まるで楽しくなかった。「舟歌」は書けば書くほど、バミューダ・トライアングルに入ったみたいに抜け出せず、求めていたはずのハッピーエンドは分からなくなってしまった。
本当にハッピーエンドを求めていたか? そう自分に問うと、もう今すぐ湖にダイブしたいという気持ちになった。幸せがわからないから、正しいハッピーエンドもわからないだなんて気づきにきたわけじゃない。
じゃあ、何しに来たの?
理解していない幸せを目指して、関連性のない意味のないことを繰り返しに来た。
もう全部、放り投げて、食事と温泉の旅にしようかな。カメラで写真を撮って満足して。すっかり、「私」の中身を空っぽにして。
でも、後ろ髪を引かれるように「舟歌」が手元にあった。
「舟歌」と心中してでも、お話を終わらせないと。そうしないと、一生ハッピーエンドを探して舟歌を歌いながら、ぐるぐると旅を続けないといけない。旅はこれからも続くというのは、私も登場人物にとっても地獄だろう。そうじゃない?
登場人物が旅をやめる理由って何があるだろう。どこか一か所に留まるってことだ。家族や恋人、仕事。この町が好きになっちゃった。何でもいい。物理的に動けなくなったっていうのはどうか。体が動かせない。墓の上でも下でも。
私は空を見上げた。何も思い浮かばない時によく空を見る。雲の形が想像の始まりって聞いたことがある。
快晴の空に雲を探していると、飛行機雲がきっ、と針金のような白線を引いているのを見つけた。そう、ああいうのがちょうどいい…。
「それで書いたのが、あの『舟歌』ってわけですか。はあ、なんだか人生ってやつは…。」
「ふふっ、人生ってヤツは?」
私は笑いを堪え切れず、忍び笑いをする。
青年はそれに気が付いたようで、少し顔を赤らめながらも何も気にしていないような顔をして言った。
「事実も小説も奇なりってとこですかね。」
「上手いような、上手くないような。」
「そういえば、さっきから揺れますね。」と彼は窓の方を見て、言った。
話を逸らしたなと思ったが、本当にさっきから揺れる。
「知ってる? バミューダ・トライアングル。」
「うわ、ここで言いますか、それ。」
意地悪な顔つきになっていると彼は加えて指摘した。
「事実は小説よりも奇なり、から、そのフィクションが事実を取って喰った最たる例よ。」
「それって、どういう、うわっ!」
ぐらん、と大きく揺れて、私は彼の肘に頭をぶつけた。
「痛っ!」とそれぞれ頭を、肘を抱える。
「ごめん、大丈夫?」
「こちらこそ、大丈夫ですか?」
ザザザザ、とノイズの音が聞こえた。
「機長のジュール・スイペニアです。エンジンのトラブルでチェウロー空港に着陸するのは困難だと判断しました。只今より、ガルドヴァ湖に胴体着陸を試みます。」
ざわざわざわと騒ぐ機内、揺れる度にきゃーという声、それを堂々とした態度で落ち着かせる優秀な客室乗務員のお姉さん。
「大変なことになっちゃったね。」
私はもうどうしようもないという諦観から、最後まで楽しもうという気持ちに移行していた。それが伝わったのか、彼は苦笑していた。
「どうして落ち着いているんですか?」
「どうしてって、私にはどうしようもないから。ジュール機長を信じるしかない。それにあなただって、落ち着いているじゃない。」
「僕には分かっているんです、この飛行機が落ちるって。」
悲しそうに彼はにこりと笑った。
「僕はチェウローに行くためにこの飛行機に乗ったわけではないんです。この飛行機に乗るあなたに会うために乗った。」と真顔で彼は言う。
「えーっと? うーん…。もしかして? 私のファンでストーカーとか?」
「まあ、その通りではあるのですが。」と彼は笑った。
それがあまりにも爽やかで清々しい笑いだったから、この状況をよりシュールなものにさせた。
「飛行機が海に墜落する間にちょっとした物語を。」彼はベテランのコメディアンのように話を始めた。
物語は僕の師匠の人生まで遡らなければならなかった。
師匠が亡くなる直前、僕にだけそっと教えてくれたのだ。師匠がそれでも叶えたかったこと。それはある人を救うこと。師匠は一回も成功したことが無いという。
「一回も、ってどういうことですか?」
何となく分かっていたが敢えて聞く。禁忌とされる過去への渡航を行っていたに違いない。でも、いったいなぜ?
「一度だけ、違ったのだ。十五年、一緒に暮らした。しかし、心を救えなかったのはこのときだけだった。本当の意味で禁忌を犯したのはこのあとからだ。見るがいい、その結果を。私は今、何歳だと思う? いや、歳は関係ないな。まるで、あの歌、バルカロールのようだ…」
僕は理解した。救うための呪文を探求する将来が見えた。魔術の使い道を決めた瞬間だった。
「僕は特性上、過去への渡航を行うと時間が逆戻りするみたいで、おかげで歳を取っていない。記憶に比例しているのかもしれない。何度も繰り返しているのに、あまり詳しいことは覚えていないんです。失敗原因とあなたと喋ったことについてくらい。それで十分だと思っているからなんだけれど。」彼は優しく笑った。
「ああ、そろそろ時間だ。上手く行けばきっと、全部覚えている。そのときに今度はゆっくり話しましょう。」
「そんな、待って!」ガダガダガダという崩壊の音すら壊れ始めていた。
「いつだって。」と彼は私の肩を寄せて、耳元に呟いた。
「これだけは忘れないで。望みを叶える魔法の歌。バルカロール、バルカロール、君が歌えば…」
ふと呟いていた。
部屋の奥でピアノを弾いている子がいた。
「バルカロール、バルカロール。」
メロディに合わせて歌っている。
頭痛がするほどの景色がチカチカと窓からの光の下で揺らめいていた。
どうしてか近づきがたく、その子が誰か知るのが怖かった。
「その曲に歌詞はないでしょう? どうして知ってるの?」
後ろから聞き覚えのある声が聞こえる。母だ。
「うん、なかったよ。でも、思いついたの。」
「そうなの? すごいねえ。」
あっ、とその子はこちらを振り返って走ってきた。真っ直ぐ、こちら目がけて走ってきて、私は立ちすくんでしまった。
彼女は両手を広げて、幸福そのものの笑みで言う。
「メニリーも連れてく!」
「ほら、汚さないようにね。」
私はその人形を受け取った。ガラスのお城も欲しいと思っていたっけ。
親子はその場から離れていった。近くのショッピングモールに買い物に行くらしい。
私は一人、残された。
意味もなく涙が流れた。意味がないわけじゃないけれど、言い表したくない言葉は意味がないとされても構わない。
一刻も早くこの場から離れたく、この場に永遠に留まりたかった。
一人しかいない部屋で、音を発するつらさはあの子は知らない。特に、泣いている時なんか最悪だ。
ああ、でも、もう私はこの呪文のメロディを知っている。口を開けて、深呼吸をし、吐いてから、もう一度、言葉を吐いた。
「バルカロール、バルカロール」
ずっと目を開けていたはずなのに、今まで何を見ていたのか覚えていない。いったいここはどこだろう、とありがちな台詞を思いつく。ついでに私が誰なのか分からないことにも気が付いた。
困ったことになった、と一度目を瞑り、闇を見つめてみてから目を開けた。やはり分からない。困ったな。
周りの景色が単純明快だったのが幸いした。白だ。真っ白だった。首を回し、横を見ると窓がある。私は小さなベッドの上にいた。後ろを振り返ると、白いシーツの跡。
なんだ、家で寝ていて、ただ起きただけじゃない。一人で笑い出しそうになる。まあ、でも、長い夢を見た日の朝とかによくあるよね。あれ、ここどこだっけ、って。
それでああ、家だ、朝だとため息をつき、起き上がる。今日は何曜日だったかな。日曜日だろうか。それなら、もう少し寝ていてもいいかな。さっきまで面白い夢を見ていた気がする。
ばたんと仰向けに倒れる。見えるのは白い天井。もうどこもかしこも白いな。でも、こうしているとまるで誰もいない綺麗な緑の丘で寝転んでいるみたいな気分。空は青色。穏やかな風。時間は存在しない。
どうしてだろう、なぜそんな想像をするのだろうか。まるでそれを望んでいるかのような。どうして臨むことがこんなにもつらいのだろう。熱い涙が伝っていることに気がついた。それは頬を通り越して、輪郭に沿い、シーツに溜まっていた。どうして泣いている?
泣いても意味はない。しかし意味が無いから泣いてはいけないということではない。好き勝手にやればいい。なぜこんな簡単なことが上手く行かないのだろう。
何も変わらないところへ行きたい。さざ波が風で揺れているところ。貝殻に耳を当てれば波の音が聞こえるけれど、あの奥に広がる世界へ行きたい。
なんだかこの白い部屋が私の雑念で一杯になって苦しくなってきた。思わず、私はベッドから飛び起き、ドアを開いて、部屋から飛び出した。
一瞬、日差しが私の視力を奪う。そのときに本当の白を見た。本物の白は真っ暗な部屋と変わらないと思った。
瞬きをすると、色がじわりじわりと戻っていく。まるで大慌てで私の目の前に絵を描いているようだ。
目の前に広がっていく景色は美しかった。鮮やかな緑の斜面を駆け下りれば、深遠な青色の山々を背景に湖が鏡となってすべてを映しているのが見える。
私は船着き場のような木の板の上を歩き、湖に刺さっている木の柱に触った。寄り掛かっても倒れなさそうなことを確かめ、水の線に合わせて、柱に入っている緑の苔の線が見え隠れするのを眺めた。
あまりにも心地いいので、のんびりとメロディーにならないレベルの鼻歌を歌っていると、それはどんどん、聞き覚えのある歌となっていった。
どうして私はこの歌を知っているのだろう、と少し不安になって鼻歌をやめた。しかし、まだ歌は聞こえる。
それはどんどんと大きな音になってきた。なんだか歌詞のようなものも聞こえる。歌ってないよね、と私は自分の唇を指で触った。大丈夫、動いていない。
「…たおう、君に会うまで」
足元に寄る波紋の形が変わった。
「この静かな歌は穏やかな波」
もうはっきりと歌詞が聞こえる。人の声だ。湖の方を向き、目を凝らすと、茶色の舟。舳にはオールを持った人がいる。大きな声で山に聞かせるように歌を響かせている。
「途切れない声はどこまでも続く舟旅」
船着き場に舟が近づいたとき、歌が終わる。木の板を勢いよく踏む足音。風が吹いて、涙の跡がぱりぱりと痛んだ。
誰かはわからない。でも、いつか会いたかった人かもしれない。抱き合いたいのを押さえて、私は挨拶に向かった。
「こんにちは。はじめまして。」
舟歌 @phillamentwindow
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