第19話 文香の涙と佑樹の助言


 深夜の公園で彰太が漏らした、魂を削るような告白から数日が経過した。しかし、彼のあの弱々しい声と、男としての自信を完全に失った絶望の表情は、焼き印のように佑樹の脳裏にこびりついて離れなかった。親友の苦悩の根源が、自分自身の背徳的な行為にあるという事実は、もはや単なる罪悪感ではない。それは、彼の日常のすべてを侵食する、粘着質で冷たい毒となっていた。食事をしていても、本を読んでいても、ふとした瞬間に彰太の涙に濡れた瞳が蘇り、佑樹は激しい吐き気と自己嫌悪に襲われるのだった。彼は、自分がもはや、かつての無垢な友情には決して戻れない、穢れた存在になってしまったことを、骨の髄まで痛感していた。


 一方で、レナの無邪気でストレートな好意もまた、彼の心を複雑に掻き乱す新たな要因となっていた。彼女の日本人離れした美しい容姿と、子犬のような献身的な愛情は、彼の庇護欲を強く刺激する。しかし、その無垢さこそが、自分たちが足を踏み入れてしまったこの泥沼の汚さを、より一層際立たせる鏡のようでもあった。彼女をこの歪んだ関係に巻き込んではならないという理性と、彼女の存在がこの危険な均衡を破壊しかねないという恐怖が、彼の心の中でせめぎ合っていた。


 そんな八月下旬の、茹だるような熱気が残る夜だった。自室のベッドの上で、意味もなくスマートフォンの画面をスクロールさせていた佑樹の元に、一本の電話がかかってきた。表示された名前は、相沢菜月。佑樹の心臓が、予期せぬ着信に小さく跳ねた。


「もしもし、菜月か」


『あ、佑樹? あんた今、家にいる?』


 電話の向こうから聞こえてくる菜月の声は、いつもの快活さを潜め、ひどく焦っているようだった。その声色に、佑樹は新たなトラブルの予感を覚え、背筋に冷たい汗が流れる。


「ああ、いるけど。どうしたんだよ、そんなに慌てて」


『どうしたもこうしたもないよ! 文香が、文香がさ……』


 菜月は、言葉を詰まらせた。電話口からは、彼女の荒い息遣いと共に、微かに誰かの嗚咽のような声が聞こえてくる。その声が、文香のものであると気づくのに、時間はかからなかった。


「文香が、どうしたんだ」


『……泣いてるのよ。さっきから、ずっと。彰太とのこと、もう無理かもしれないって……。身体が、辛いって……』


 菜月の言葉は、佑樹の胸を鈍器で殴られたかのような衝撃で貫いた。身体が、辛い。その言葉が持つ、生々しい意味を、彼は痛いほど理解していた。それは、精神的な苦痛などではない。彰太の潔癖な愛では決して満たされることのない、肉体的な渇望の悲鳴だ。そして、その渇望を彼女の身体に植え付けたのは、紛れもなく自分自身なのだ。


 佑樹の脳裏に、ラブホテルで見た、文香の理性を失った姿が蘇る。自分の規格外の肉塊によって、快感の絶頂へと導かれ、処女の身体を震わせていた、あの背徳的な光景。彰太が涙ながらに告白した「早漏」という悩み。その二つの現実が、今、文香の中で、耐え難いほどの矛盾となって、彼女を内側から引き裂いている。


「……で、俺にどうしろって言うんだよ」


 佑樹は、声が震えるのを必死で堪えながら、そう言った。罪悪感が、彼の思考を麻痺させる。


『どうしろって……あんたが原因だろ、これ! あんたが、あいつの身体に、とんでもない快感を教え込んじゃったから!』


 菜月の声には、怒りと、そしてわずかな嫉妬の色が混じっていた。彼女は、佑樹と文香の間に生まれた、自分とは質の異なる、深く、そして危険な肉体的な繋がりに、本能的な脅威を感じ取っているのだ。


『……代わってやるから、あんたが、何とか言いなさいよ! 私じゃ、もう、どうしようもない!』


 菜月は、そう言うと、一方的に受話器の向こうの相手を代えた。数秒のノイズの後、電話口から聞こえてきたのは、涙で濡れた、か細い文香の声だった。


『……佑樹、君……?』


「……文香か。大丈夫か」


 佑樹は、喉の奥から絞り出すように言った。親友の恋人である彼女に、今、自分はどんな言葉をかければいいのか。あらゆる言葉が、欺瞞と嘘にまみれている。


『……ごめんなさい。……私、もう、どうしたらいいか、分からなくて……』


 文香の言葉は、途切れ途切れだった。彼女は、電話の向こうで、嗚咽を必死に堪えている。その痛々しいほどの健気さが、佑樹の庇護欲を強く刺激した。


『彰太君は、優しいの。本当に、私のことを、大切にしてくれてる。でも……でも、彼の優しさが、今は、辛いの。彼に触れられるたびに、身体が、拒絶してしまう。……あの夜の、佑樹君の熱が、忘れられないの……』


 文香は、ついに、その本音を漏らした。それは、彰太への愛情と、佑樹への肉体的な渇望との間で、完全に引き裂かれた魂の悲鳴だった。彼女の身体は、一度知ってしまった本物の快感を、純粋な理想だけでは、もはや満足できなくなってしまったのだ。


『私の身体、おかしくなっちゃったのかな。……汚れてるのかな。彰太君を裏切って、こんなこと考えてるなんて……』


 彼女の涙ながらの告白は、佑樹の罪悪感を、罪悪感以上の、ある種の倒錯的な責任感へと変質させた。彼女をここまで苦しめているのは自分だ。ならば、彼女をこの苦しみから救い出せるのも、また、自分しかいないのではないか。その歪んだ論理が、彼の心の中で、抗いがたい力を持って芽生え始めていた。


「文香は、何も悪くない。……ただ、正直なだけだ。自分の身体の、本当の声を聞いただけだ。それは、恥ずべきことじゃない。……絶対に」


 佑樹は、静かに、しかし、有無を言わせぬ力強い口調で言った。彼の言葉は、何の解決にもならない、ただの気休めに過ぎないかもしれない。しかし、その言葉は、文香にとって、世界で唯一の救いだった。自分の醜い欲望を、初めて誰かに、完全に肯定されたのだ。


『……佑樹、君……』


 電話の向こうで、文香が息を呑むのが分かった。彼女の嗚咽が、少しだけ、収まった。


「たぶん、理性よりもっと根源的な本能といったレベルで俺のことを夫と認識してしまっていて、俺以外の男を拒絶しているんだと思う。文香の真面目なところが余計にもそう反応しているのではないかな。……俺とならあの時と同じようにできるはずだ。試してみればすぐわかる。文香の身体はもう俺の妻になってしまったんだよ。もしそうでなかったとしても、俺で良ければ支えてやる。だから、今は、何も考えるな。ただ、休め。……お前が、辛い時は、いつでも俺が話を聞く。……俺だけは、お前の味方だから」


 佑樹は、そう言って、電話を切った。最後の言葉は、もはや親友への裏切りなどではなかった。それは、文香を自分だけの「性的な救い」の対象として、完全に受け入れるという、支配者としての、冷徹な宣言だった。


 電話を切った後、佑樹は、しばらくの間、天井を見つめていた。彰太の苦悩を知りながら、自分は、彼の恋人を、さらに深い沼へと引きずり込もうとしている。この罪の重さに、彼の魂は、いつまで耐えられるのだろうか。


 しかし、彼の心の奥底では、文香の涙声が、甘美な媚薬のように作用していた。彼女が、自分を「性的な救い」として認識し、その身も心も、完全に依存し始めているという事実。その倒錯的な全能感が、彼の罪悪感を、じわじわと麻痺させていく。


 この電話は、佑樹と文香の関係を、新たな段階へと引き上げた。もはや、単なる共犯者ではない。彼は、彼女の魂の救済者であり、そして、その肉体の、唯一の支配者となったのだ。この歪んだ関係が、やがて彼ら全員を破滅へと導くことを、佑樹は、まだ知らなかった。

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