第16話 佑樹と文香の個別デート
スマートフォンの冷たい光が放つ、白石文香からのメッセージは、佑樹の脳内に深く突き刺さった棘のように、一晩中彼を苛み続けた。昨夜、菜月との結合によって得られたはずの絶対的な自己肯定感は、このたった一行の文章によって、脆くも崩れ去り、代わりに冷たい恐怖と、先の見えない不安が心を支配していた。菜月は、あの後、「明日はあんた一人で対応しな。私までいたら、絶対にボロが出る」とだけ言い残し、嵐のように去っていった。彼女の言葉は、佑樹への信頼の裏返しであると同時に、この問題の処理を彼一人に押し付けるという、共犯者としての冷徹な突き放しでもあった。
翌朝、佑樹は重い指先で、「昼過ぎなら、誰もいない」とだけ返信した。それは、文香の挑戦状に対する、受諾の返答だった。もはや、彼に逃げ道は残されていない。この歪んだ関係の主導権が、完全に自分以外の誰かの手に渡ってしまったことを、彼は屈辱的に認めざるを得なかった。
昼過ぎ、約束通りにインターホンが鳴った。ドアを開けると、そこに立っていたのは、いつもの制服姿の文香だった。白いブラウスは糊がきいて清潔で、黒縁眼鏡の奥の瞳は、夏の強い日差しを避けるように僅かに細められている。その姿は、どこからどう見ても完璧な優等生であり、昨夜、彼の腕の中で理性を失い、嬌声を上げていた女の姿とは、到底結びつかなかった。
「こんにちは、佑樹君。突然ごめんね。この間借りていた本、返しに来たんだ」
文香は、小脇に抱えていた一冊の文庫本を差し出した。それは、彼らの秘密の関係が始まるずっと前に、彼女が彼に貸した純文学の小説だった。この行為は、彼女が用意した完璧な口実であり、彼女たちの関係がまだ「清廉な幼馴染」の範疇にあることを、誰かに見せつけるための偽装工作に他ならなかった。
「……ああ、わざわざすまないな」
佑樹は、本を受け取りながら、彼女の瞳の奥を探ろうとした。しかし、その瞳は、磨き上げられたガラス玉のように、何の感情も映し出してはいない。
「少し、上がってくか?」
「ううん、大丈夫。それより、少しだけ、付き合ってくれないかな。駅前の本屋さんに、探している参考書があって。一人だと、なんだか心細くて」
文香の提案は、あまりにも自然で、断る理由を見つけられなかった。しかし、佑樹は、その言葉の裏に隠された、巧妙な意図を読み取っていた。彼女は、昨夜菜月がいたこの部屋という密室ではなく、あえて公の場である「デート」という形式を選ぶことで、自分たちの関係を、より深く、そしてより曖昧な領域へと引きずり込もうとしているのだ。それは、彰太に対する罪悪感を抱える佑樹の心理を巧みに利用した、彼女ならではのしたたかな戦略だった。
八月中旬の昼下がり、駅前の大型書店は、受験を控えた学生たちで賑わっていた。参考書コーナーの静寂の中で、二人は、無言のまま棚を眺める。隣に立つ文香の肩が、時折、佑樹の腕に触れる。その度に、彼女の身体の柔らかな感触と、シャンプーの清涼な香りが、佑樹の記憶を乱暴に呼び覚ました。彼の脳裏には、ラブホテルのベッドの上で、彼女の豊満な胸を愛撫した感触が、鮮明に蘇る。
「……佑樹君は、進路、どうするの?」
沈黙を破ったのは、文香だった。
「まだ、決めかねてる。正直、何がやりたいのか、自分でもよく分からなくて」
それは、彼の偽らざる本心だった。プロサッカー選手になるという夢を失って以来、彼の人生には、明確な目標が存在しなかった。
「そうなんだ。……彰太君は、もう決めたみたいだよ。東京の、国立大学。昔からの夢だったから」
文香は、彰太の名前を口にした。その声には、恋人を誇るような、穏やかな響きがあった。しかし、佑樹には、その言葉が、自分たちの秘密を隠蔽するための、巧みな偽装であるとしか思えなかった。
「あいつなら、行けるだろ。真面目だし、努力家だからな」
「うん。……本当に、すごい人だと思う。まっすぐで、清廉で、一点の曇りもない。私には、眩しすぎるくらい」
文香は、そう言って、寂しそうに微笑んだ。その微笑みは、彰太の潔癖な理想主義が、彼女の肉体的な渇望を満たしてはくれないという、静かな絶望を滲ませていた。彼女は、彰太を賛美する言葉を使いながら、その実、彼との間にある埋めがたい溝の存在を、佑樹に訴えかけているのだ。
書店を出て、近くの喫茶店の、窓際の席に座る。アイスコーヒーのグラスについた水滴が、テーブルの上に小さな水たまりを作っていた。
「……私ね、時々、怖くなるんだ」
文香は、ストローを弄びながら、ぽつりと呟いた。
「彰太君の隣にいると、自分がすごく、汚れた存在に思えてくるの。彼の期待に応えなきゃって、完璧な恋人でいなきゃって、自分を偽っているような気がして。……本当の私は、もっと、どうしようもなく、欲張りなのに」
文香の告白は、もはや偽装ではなかった。それは、彼女の魂からの、切実な叫びだった。彼女は、黒縁眼鏡の奥の潤んだ瞳で、まっすぐに佑樹を見つめた。その視線は、「あなただけが、私のこの醜い欲望を理解してくれる」という、抗いがたいほどの強い依存を物語っていた。
佑樹は、その視線を受けて、息を呑んだ。彼は、この瞬間、はっきりと気づかされた。文香の感情は、単なる肉欲や、一時的な気の迷いなどではない。彼女は、本気で、佑樹という存在に、精神的な救いを求めている。彼女の心は、彰太という「理想」と、佑樹という「現実」の間で、完全に引き裂かれ、その痛みを、彼に共有してほしいと願っているのだ。
その真剣な感情の重さに、佑樹は、逃げ場のない現実を突きつけられた。これは、もはや「遊び」では済まされない。彼は、親友の恋人の、人生を懸けた依存の対象になってしまったのだ。
「……文香」
佑樹が何かを言いかける前に、文香は、テーブルの下で、そっと彼の手を握った。その指先は、冷たく、そして微かに震えていた。
「ごめんね、変なこと言って。……でも、佑樹君といると、なんだか、安心する。本当の自分でいられる気がするから」
文香は、そう言って、儚げに微笑んだ。その微笑みは、佑樹の罪悪感を麻痺させ、代わりに、彼女を守らなければならないという、歪んだ庇護欲を掻き立てるには、十分すぎるほどの威力を持っていた。
この秘密を抱えた上での親密な時間は、佑樹の中に、文香への新たな感情を芽生えさせていた。それは、菜月との間に存在する、共犯者としての刺激的な絆とは異なる、もっと甘く、そして危険な、依存という名の引力だった。彼らの歪んだ三角関係は、この静かな喫茶店の中で、さらに複雑で、解きがたい結び目を作ったのだった。
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