第15話 文香のメッセージと影の介入


 行為の後の気怠い静寂が、佑樹の部屋を支配していた。窓の外では、夏の終わりの虫の音が微かに響いているが、その音さえも、この密室の濃密な空気の前では遠い世界の出来事のように感じられた。シーツは乱れ、二人の汗と、生命の源である精液の匂いが混じり合った、甘く重い香りが部屋に満ちている。それは、彼らが「特別な悪友」としての絆を、肉体の最も深い部分で結び直したことの、紛れもない証だった。


 佑樹は、腕の中にいる菜月の温もりを感じながら、天井の木目をぼんやりと見つめていた。彼の心は、嵐が過ぎ去った後の海のように、穏やかで、そして満たされていた。元カノに突きつけられた「欠陥品」という烙印は、菜月の献身的な身体によって、完全に洗い流された。この肉体は、欠点などではない。それは、この特別な幼馴染を、他の誰にも与えられない快感で満たし、彼女を自分だけのものにするための、最強の武器なのだ。初めて抱いた、揺るぎない自己肯定感。そして、彼女を誰にも渡したくないという、焼け付くような独占欲が、彼の胸の奥で静かに燃え上がっていた。


「……ねえ、佑樹」


 彼の胸に顔を埋めていた菜月が、くぐもった声で呟いた。彼女の指先が、佑樹の汗ばんだ胸板を、猫のように優しく撫でる。


「ん……?」


「あんた、もう大丈夫そうだね。あの時の、死んだ魚みたいな目、してない」


 菜月は、顔を上げて、悪戯っぽく笑った。その唇は、先ほどの激しいキスと結合によって、熟れた果実のように赤く腫れている。彼女の瞳には、佑樹の性的コンプレックスという名の呪いを、自らが解き放ったことへの、深い満足感と優越感が宿っていた。彼女は、この秘密の共有によって、佑樹の心と身体の両方における、誰にも代えがたい「唯一無二」の存在になったことを確信していた。


「……お前のおかげだよ」


 佑樹は、ぶっきらぼうにそう言うと、彼女の額に落ちた髪を優しく払った。その仕草には、感謝と、そして言葉にはできない深い愛情が込められている。彼らの間には、もはや「友達」という免罪符さえ必要ないのかもしれない。この肉体の繋がりは、友情や愛情といった既存の言葉では定義できない、もっと原始的で、もっと切実な絆だった。


「ふふん、でしょ? だから、あんたは、私がいなきゃダメなんだって。これからは、私がちゃんと、あんたのこと、めちゃくちゃにしてあげるから」


 菜月は、得意げに胸をそらした。その小さな胸は、佑樹にとっては、どんな豊満な肉体よりも、愛おしく、価値のあるものに思えた。


 二人の間に、心地よい沈黙が流れる。このまま、時間が止まってしまえばいい。彰太への罪悪感も、文香との脆い協定も、すべてがこの部屋の外の出来事のように感じられた。この瞬間だけは、世界に二人きりのような、完璧な安寧があった。


 その安寧を、無機質な電子音が、容赦なく切り裂いた。


 ピロン。


 ベッドサイドのテーブルに置かれた佑樹のスマートフォンが、短い通知音と共に、冷たい光を放った。その音は、彼らの秘密の聖域に投げ込まれた、一個の石つぶてだった。部屋の濃密な空気が、一瞬にして緊張を帯びる。


「……誰から?」


 菜月の声には、警戒の色が滲んでいた。


「さあな」


 佑樹は、億劫そうに身体を起こし、スマートフォンを手に取った。画面の白い光が、彼の顔を青白く照らし出す。その光の中に浮かび上がった送信者の名前に、佑樹の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


 白石 文香。


 そして、そこに表示されたメッセージは、あまりにも日常的で、あまりにも不穏な一文だった。


「明日、ご両親はいるかな?」


 その瞬間、佑樹の全身から、血の気が引いていくのが分かった。頭の中で、警報がけたたましく鳴り響く。なぜ、文香が? なぜ、今、このタイミングで? そして、なぜ、両親の不在を確かめるような質問を?


 彼の隣で、菜月もその画面を覗き込んでいた。彼女の顔から、先ほどまでの余裕に満ちた笑みが、一瞬にして消え去った。彼女の瞳が、驚愕と、恐怖と、そして裏切られたかのような怒りで、大きく見開かれる。


「……は? 何、これ。どういう、意味……?」


 菜月の声は、震えていた。彼女の能天気な思考回路も、このメッセージに込められた、冷徹で計算高い意図を、瞬時に読み取っていた。


 これは、単なる予定の確認などではない。これは、明確な介入の予告だ。


 文香は、佑樹の両親がいない時間帯を狙って、この家に来るつもりなのだ。二人きりになるために。ラブホテルでの協定は、彼女にとって、一時的な休戦協定に過ぎなかった。いや、最初から、彼女は休戦などする気はなかったのだ。彼女は、自分たちの秘密の関係が、今この瞬間も続いていることを、確信している。そして、その上で、自分もその共犯関係に、再び、そしてより深く介入するという、明確な意思表示をしてきたのだ。


「あいつ……まさか、知ってんのか……? 私たちが、今、ここで……」


 菜月は、パニックに陥り、慌てて自分の裸の身体をシーツで隠した。彼女の顔は、恐怖で真っ青になっている。佑樹を独占したという勝利の快感は、文香という影の介入によって、脆くも崩れ去った。彼女の頭の中では、文香のあの冷静な瞳が、すべてを見透かしていたのではないかという、妄想に近い恐怖が渦巻いていた。


「落ち着け、菜月。知られているはずがない」


 佑樹は、自分自身に言い聞かせるように、そう言った。しかし、彼の声もまた、隠しきれない動揺で震えていた。ラブホテルでの、文香のあの熱に浮かされたような瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。彼女は、彰太への罪悪感よりも、満たされない肉体の渇望を選んだのだ。一度その味を知ってしまった彼女が、大人しく引き下がるはずがなかった。


 あの協定は、文香が主導権を握るための、巧妙な罠だったのだ。彼女は、「友情の継続」という大義名分を盾に、自分たちの罪悪感を麻痺させ、その裏で、着々と次の介入の機会を窺っていた。その計算高さと、文学少女の仮面の下に隠された激情に、佑樹は、改めて戦慄を覚えた。


 二人は、スマートフォンの冷たい光の中で、互いの顔を見つめ合った。そこには、先ほどまでの甘い余韻は、もはや一片も残っていなかった。あるのは、秘密が暴かれ、築き上げたばかりの特別な関係が、第三者の介入によって破壊されることへの、共有された恐怖だけだった。


 文香の影は、彼らが思っていたよりもずっと大きく、そして深く、彼らの日常に侵食し始めていた。佑樹と菜月の間に生まれたばかりの歪んだ安寧は、このたった一行のメッセージによって、早くも崩壊の予感をはらみ始めたのだった。

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