第10話 日常への侵食の予感
浅草のラブホテルから解放され、自宅へと戻る日曜日の昼下がり、佑樹の全身には鉛を詰められたような疲労感が残っていた。彼の部屋の窓から差し込む光は、ホテルの赤い照明とは異なり、何の裏切りも含まない、無機質な日常の光だった。しかし、その光景こそが、昨夜の出来事との決定的な乖離を生み出し、佑樹の心に重くのしかかる。
ホテルのチェックアウト後、文香は「私から彰太君に連絡します」とだけ言い残し、いつもの優等生然とした態度で、早足に改札へと消えていった。彼女の背中は、いつもの優等生の仮面を被りながら、この夜の激情という名の新しい秘密を、白い浴衣の中に隠し、それを守り通す強い意志を物語っているようだった。文香のその必死なまでの平静さが、かえって昨夜の背徳的な出来事が、まぎれもない現実であったことを、佑樹の脳裏に焼き付けた。
佑樹は、シャワーを浴びて、すべての匂いを洗い流そうと試みたが、頭の中にこびりついた文香の絶叫と、菜月の切実な懇願は、洗っても消えることがなかった。彼の身体には、文香の初々しい愛液と、菜月の奔放な体臭が微かに染み付いている気がした。彼の性的トラウマは、二人の幼馴染によって歪んだ形で肯定され、その結果、彼は親友の恋人と最も大切な幼馴染を、同時に性の共犯者としてしまうという、取り返しのつかない罪を背負った。
彼は、この重すぎる罪悪感を前に、口では「責任を取る」と宣言したものの、心の奥底では、安寧な「元の日常」を失った代償の重さに震えていた。その逃れようのない現実こそが、彼の覚悟を試す、最初の試練だった。この重い罪を背負い続けることこそが、失われた夢に対する、歪んだ代償行為になっていたのかもしれない。
ピンポーン。
唐突に、玄関のチャイムが鳴った。日曜日の昼、両親は出かけているはずだ。佑樹が玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは、菜月だった。彼女は、いつものボーイッシュなショートパンツ姿で、黒いリュックを背負っている。顔には、昨夜の精液の痕跡は完全に消えているが、その瞳の奥には、昨夜の狂騒の熱が、まだ燻っていた。
「よお、菜月。どうしたんだよ、アポなしで」
佑樹は、努めていつものぶっきらぼうな口調で応じた。これは、「俺たちの関係は、何一つ変わっていない」と、自分自身に言い聞かせるための防衛本能だった。彼の喉は渇き、額には微かな汗が滲む。
「どうしたもこうしたもないだろ、馬鹿。協定の確認だよ」
菜月は、周囲に人がいないことを確認するように、辺りを一瞥した後、佑樹の部屋へと入ってきた。彼女の瞳は、まるで秘密を共有する仲間を探すかのように、真剣だった。彼女は、佑樹のベッドに腰掛け、昨夜の出来事を、まるで遠い映画の感想を語るかのように話し始めた。
「あんた、本当に大丈夫なの? 文香のやつ、優等生の顔に戻ってたけど、あれは嘘だからな。内心、興奮しきってるって顔に書いてあった」
菜月は、冷静な分析のトーンで語る。彼女が最も恐れているのは、佑樹が文香との背徳的な快感に溺れ、自分を切り捨てることだ。彼女にとって、この秘密の関係は、佑樹という人間を、他の誰にも奪われないように、深く手中に収めるための手段だった。
「文香の協定、聞いたけど、私にはつまらないものだった。私たち三人の関係を『なかったこと』になんてできるわけないだろ。特に、私がアイツに負けるなんて、あり得ない」
菜月は、露骨に独占欲を言葉にした。彼女の言葉は、文香の協定を「建前」として切り捨て、「秘密の関係の継続」こそが、自分たちが進むべき「現実」だと、佑樹に突きつけている。彼女の唇の動きは、昨夜、佑樹の肉塊を貪った記憶を鮮明に蘇らせる。
「佑樹、あんたは文香の協定を受け入れたけど、あれは建前だ。あんた、文香の身体を貪った後、私にした愛の告白、忘れたわけ?」
菜月は、佑樹の言葉を待たず、彼の顔を覗き込んだ。彼女の瞳が、昨夜の愛液と精液で濡れ光っていた佑樹の肉塊へと、熱い視線を送る。彼女の唇の端が微かに歪み、支配的な笑みを浮かべる。
「昨夜のことで、あんたの身体の秘密と、俺たちの絆が、肉体で繋がった。もう、後戻りなんてできねえんだよ」
佑樹は、菜月の言葉に反論できなかった。彼女の言葉は、彼の心の中で響いていた罪悪感を、「不可避な運命」という名の甘い自己欺瞞へと塗り替えていく。彼は、菜月の献身的な愛と、文香の情熱的な渇望に、流されることの安寧を感じ始めていた。
「さすが、菜月だな。俺の覚悟が足りないということだろう?分かっていると言うのは簡単だが、大変なのはこれからだ。助けてくれたり叱咤してくれたりすると助かる。菜月を幸せにするためにもな。」
佑樹は、菜月の言葉を受け入れ、素直に自分の弱さを認めた。その言葉には、この罪の重さを、菜月と共に背負って生きていくという、流され者ではない、当事者としての覚悟が込められていた。
菜月は、佑樹の顔を覗き込んだ後、彼の股間に向かって、無言のアイコンタクトを送った。その合図は、「私たちの遊びは、今日から日常に侵食する」という、明確な継続の意思だった。彼女の視線が、佑樹の股間を熱く突き刺す。
彼は、静かに頷いた。彼の抵抗は、もはや意味をなさない。この瞬間、佑樹と菜月は、秘密を共有する共犯者として、性的な関係を継続することを、無言のうちに決定した。この一線を越えた関係が、彼らの安寧な幼馴染の日常を、どのように歪めていくのか、佑樹には既に、破壊的な予感として感じられていた。彼らの秘密は、ラブホテルという密室から、佑樹の部屋という日常の空間へと、完全に侵入し始めたのだ。
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