幼馴染の境界線~若さ故の過ちと、親友への秘密~

舞夢宜人

第1話 傷心旅行の夜:ラブホテルの密室


 石造りの壁が、薄暗い部屋の空気を重く吸い込んでいた。七月下旬、金曜日の夜。浅草の路地裏に建つ、豪華なラブホテルの最上階だ。


 集中豪雨に遭い、交通機関が麻痺したという不運がなければ、佑樹がこの場所にいることなどあり得なかった。ロビーから部屋まで案内された場所のすべてが、彼らの日常からかけ離れたムードに満ちている。石材の冷たい質感と、そこから立ち込める甘いアロマの香りが、佑樹の五感すべてに、今いる場所が特別な密室であることを強烈に、淫靡に訴えかけてきた。


 本来この旅行は、佑樹の失恋を慰めるためのものだった。彼は、長年の幼馴染である菜月や文香、そして彰太との安寧な関係を壊したくないがために、恋人を選ぶ際はあえて幼馴染の枠外から相手を選んできた。それにもかかわらず、その交際相手の三人から立て続けに、性的な不満を理由に振られるという屈辱的なトラウマを抱え、自己肯定感の崩壊に瀕し、深く落ち込んでいたのだ。


 幼馴染四人で企画したはずの傷心旅行は、真面目で潔癖な彰太が当日になって体調不良でキャンセルしたため、結局、佑樹と菜月、文香の三人だけで始まることになった。


 その日の夕方、集中豪雨が東京を襲い、すべての交通機関が麻痺した。


「濡れて寒いし、ここで雨宿りするしかないじゃん、どうせ誰にも見つからないよ」


 菜月は、そう言い放ち、佑樹と文香の戸惑いを無視して、有無を言わさずこのラブホテルへと連れ込んだのだ。彼女の能動的な好奇心と、退屈を最も嫌う衝動が、彼らの長年の友情という名の綱を最も細い一本の糸に変えてしまった。


 佑樹は、部屋の中央にある巨大なキングサイズのベッドに、一人座り込んでいた。彼は、この部屋の隅々から発せられる非日常の熱に、神経をすり減らしている。この異常な空間で、菜月と文香という二人の女性に囲まれていること自体が、彼の性的コンプレックスを刺激し、罪悪感と欲望を同時に煽っていた。


 真向かいのソファに座る菜月は、ホテルのロゴが入った黒のタンクトップとショートパンツという、肌の露出が多い挑発的な格好で、長い脚を組み替えていた。彼女は、佑樹の様子を悪意のない無邪気な好奇心に満ちた大きな瞳でちらりと盗み見ては、すぐにスマートフォンへと視線を戻す。彼女の視線は、このぎこちない沈黙が、今にも何か面白いものへと破裂する瞬間を密かに待ち望んでいるかのようだった。


 そして、菜月の隣には文香が座っている。彼女の白い浴衣姿は、部屋の赤みがかった照明と石造りの冷たさが醸し出す雰囲気の中で、かえって彼女の清廉さを際立たせていた。濡れたブラウスを脱ぎ、ホテルの浴衣に身を包んだ文香だったが、彼女の内向的な性格と、彰太の恋人という立場がもたらす強い羞恥心は、その華奢な身を固く強張らせている。


 黒縁眼鏡の奥の瞳は、一度も佑樹に視線を合わせようとしない。膝の上に組んだ手は、優等生の理性を保とうとするかのように、指先まで固く握りしめられている。彼女の周りには、清い愛を裏切ってしまったという罪悪感。そして、目の前にいる佑樹という「男」の存在が、彼女の文学少女として抑圧してきた内なる激情に触れかねないという本能的な恐怖が、重い空気となって漂っている。


「いつまでそうやって落ち込んでんの。もう二時間経つぞ、この地獄みたいな沈黙」


 菜月が、ついに沈黙を破った。彼女の声は、屈辱的なトラウマの核心が、この密室に晒される最初の瞬間の引き金だった。


「放っとけよ、うちの失恋だろうが」


 佑樹は、ぶっきらぼうにそう返し、壁に視線を固定した。彼の内面は、失恋の痛み、性的コンプレックス、そして親友の恋人である文香との間に流れる異様な緊張感という、三重の感情で渦巻いていた。


「なんだよ、馬鹿。別れた理由くらい、友達に言ったっていいだろ」


 菜月は、退屈を許さないとばかりに立ち上がり、佑樹のベッドの縁に腰掛けた。彼女の甘い体臭が、アロマの香りと混じり合い、佑樹の理性を微かに揺さぶる。


「まさか、あんたの元カノ、俺たちのこと何か勘違いでもしたわけ?」


 菜月は、無邪気で悪意なく、だが最も核心を突く言葉を放った。佑樹は、その質問が、性的トラウマ、すなわち「ペニスが小さすぎて満足できない」という極めて屈辱的な事実に繋がることを知っている。


 佑樹は、恥と怒りで、全身の血が逆流するのを感じた。この屈辱的な秘密こそが、彼らの「幼馴染」という安寧な境界線を、「共犯者」という歪んだ関係へと一気に突き破る起爆剤になろうとしていた。


 その時、文香が「やめて、菜月」と、初めて微かな声を発した。その声は、彼女の内向的な性格を反映してか、か細く、懇願の響きを帯びていた。


 しかし、菜月はそれを退屈な常識による静止と受け取ったのか、文香に向かって挑戦的な笑みを浮かべた。


「いいじゃん、文香。私たちは幼馴染だろ? 何でも話せる、特別な共犯者なんだから」


 菜月の「共犯者」という言葉は、この夜、彼らがこれから犯すであろう決定的な過ちを、早くも予見させる甘く重い響きを持っていた。佑樹の心は、逃げ場のない現実を前に、屈辱的な快感へと流されていくことを予感し、既に強い苛立ちと共に倒錯的な期待を抱き始めていた。文香は再び口を噤み、その視線は、佑樹の脚の付け根へと、一瞬、迷い込んだのだった。

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