第2話

 あの夜、由香は一睡もできなかった。 寝室のベッドに横たわり、天井の換気扇――あの黒いレンズが潜む闇を、ただ見つめ続けていた。


(見られている)


 寝返りを打つことも、涙を拭うことも、全てが佐野の「鑑賞」の対象だった。佐野は今、隣の202号室で、モニターに映る自分を見て何を思っているのだろうか。 『完璧な住人』。 その言葉が、鉄の鎖のように由香の体に巻き付いていた。


 朝。 夜が明けたのかどうかもわからないまま、体が鉛のように重かった。 会社に行かなければ。 いや、行けるのか? それとも、このまま……。


 その時だった。 コン、コン。 静かなノックの音。 心臓が喉から飛び出そうになった。 「……森下さん。朝ですよ」 ドアの外から、あの穏やかな、佐野の声がした。 「朝食、お持ちしました。どうぞ、開けてください」


 由香は動けなかった。 「……森下さん?」 声が、わずかに低くなる。 「開けないのですか?……仕方ないですね」 カチャリ。 聞き覚えのある、合鍵が回る音。


 ゆっくりとドアが開き、エプロン姿の佐野が、お盆を持って立っていた。 完璧に焼かれたトースト、スクランブルエッグ、小さなサラダ、そして湯気を立てるスープ。 「おはようございます、森下さん。よく眠れたようですね。一度も起き上がりませんでした」 佐野は、当たり前のようにダイニングテーブルにお盆を置いた。 「……どうして」 「どうして、とは?」 「……なんで、こんな……」 「おや、朝食はお嫌いですか?栄養バランスは完璧に計算したつもりですが」 佐野は心底不思議そうに首を傾げた。 「さあ、冷めないうちに召し上がってください。会社に遅れますよ」 「……会社……」 「ええ。あなたは『普通』に生活するんです。それが、私の望む『完璧』ですから」


 佐野は椅子に座ることもなく、壁際に立ったまま、にこやかに由香を見つめている。 (見られている) 部屋のカメラだけではない。今、目の前で、彼本人に。 由香は、ロボットのように椅子に座り、震える手でフォークを握った。 「いただきます……」 声が、砂のように掠れた。 一口食べるたびに、佐野が満足そうに頷く。 「ええ、そうです。ちゃんと食べないと。昨日、帰りがけに角でぶつかった時、あなたは少しふらついていました。栄養が足りていない証拠です」 (あの時、気づいていたんだ……私が、逃げようとしていることだけじゃなく、体調まで……) 恐怖で、味がしなかった。


「ごちそう、さまでした……」 「はい、よくできました」 佐野は空になった皿を手に取り、言った。 「さあ、お化粧をして、着替えてください。私はここで待っていますから」 「えっ」 「大丈夫ですよ。私はもう、あなたの全てを知っています。今更、恥ずかしがる必要などないでしょう?」 その目は、笑っていなかった。 由香は、佐野が見ている前で、クローゼットから服を取り出し、鏡台に向かうしかなかった。 指が震えて、アイライナーがうまく引けない。 その小さな失敗さえ、佐野は「ああ、そこ、少し曲がりましたね」と、楽しそうに指摘した。


 家を出る。 玄関で靴を履いていると、佐野も同時に202号室から出てきた。 「いってらっしゃい、森下さん。お仕事、頑張ってくださいね」 「……いってきます」 「ああ、そうだ」 佐野は、エレベーターを待つ由香に、一枚の写真を差し出した。 それは、昨夜、由香がベッドの上で、絶望した顔で天井を見上げている、隠し撮りされた写真だった。 「ひっ……!」 「昨夜のあなたです。とても、美しい」 佐野はうっとりと言った。 「ですが、森下さん。一つだけ、約束してください」 「……なに……」 「『余計なこと』は、考えないでくださいね」 佐野は、その写真を由香のコートのポケットにねじ込んだ。 「例えば、誰かに助けを求めるとか。警察に行くとか。……あるいは、会社のパソコンで、変な検索をするとか」 由香は息をのんだ。 「私は、あなたの全てを『見守って』います。会社にいる時も、です。お隣さんですから」 チン、とエレベーターが到着した。 「さあ、どうぞ。遅刻してしまいますよ」 由香は、人形のようにエレベーターに乗り込んだ。


 会社に着いても、仕事が手につかなかった。 (会社にいる時も……?どういうこと?) (スマホ?まさか……) 恐ろしくて、自分のスマートフォンに触れることすらできなかった。 トイレの個室に駆け込み、ポケットの写真を握りしめる。 (どうしたら……どうしたら、逃げられる……)


 昼休み。 由香は、意を決した。 同期で、一番仲の良い友人、アキ。彼女になら。 会社の屋上で、二人きりになるタイミングを見計らう。 「アキ……ちょっと、相談が……」 「どうしたの?由香。顔色、真っ青だよ」 「あのね、私……」 言いかけた、その時だった。


 ブブッ。 ポケットのスマホが震えた。 佐野からだった。 『屋上は、風が強くて体が冷えますよ』 『それに、同僚の橋本アキさん。彼女、少し口が軽いようです。相談相手には、向いていませんね』


 血の気が引いた。 (見ている?どこから?いや、聞いているんだ……!) 盗聴器。 いつの間に。あの部屋で?それとも、コートに? 由香はアキの顔を見つめたまま、言葉を失った。 「由香?どうしたの?」 「……ううん、なんでもない。ちょっと、寝不足で……」 これ以上、アキを巻き込むわけにはいかない。


 その日の夕方。 由香は、もう限界だった。 会社からの帰り道、アパートとは逆方向の駅へ向かい、公衆電話ボックスに飛び込んだ。 110番。 震える指で、ボタンを押す。 「……はい、事件ですか、事故ですか」 「あ、あの、助けて……!私、監視されて……大家さんに……!」 「落ち着いてください。今、どこにいますか?お名前は?」 由香が、自分の名前とアパートの住所を告げようとした、その瞬間。


 ガチャリ。 公衆電話ボックスのドアが、外から開けられた。 そこに立っていたのは、佐野だった。 「森下さん」 いつもの笑顔。だが、目が、恐ろしいほど冷たかった。 「こんな所で、何をしているんですか?」 「あ……あ……」 「警察に、何をお話しするつもりだったんですか?私が、あなたを『見守って』いることですか?」 佐野は、由香が握りしめていた受話器を、静かに奪い取った。 そして、受話器に向かって、滑らかに言った。 「ああ、申し訳ありません。妹が、少し、精神的に不安定でして。ご迷惑をおかけしました。ええ、はい。私が責任を持って、病院に連れて行きますから。……はい、失礼いたします」 佐野は受話器を置き、由香に向き直った。 「なぜ、約束を破るんですか?」 「……ひっ、ごめんなさい……」 「私は、あなたに『完璧』でいてほしいだけなんですよ。それなのに、あなたは、私の作品に泥を塗ろうとする」 佐野は由香の腕を強く掴んだ。 「帰りましょう、森下さん。あなたの『部屋』へ」


 アパートに連れ戻された由香は、部屋の床にへたり込んだ。 もう、逃げられない。 公衆電話にいることすら、把握されていた。 (GPS……?いや、それだけじゃ……)


「あなたは、少し『教育』が必要なようですね」 佐野は、無表情で言った。 「あなたは、私がいなければ、何もできない。それを、しっかりと思い知らせないと」 佐野は、由香のスマートフォンを取り上げた。 「まず、これは、いりませんね。あなたは、私以外の人間と繋がる必要はありません」 佐野は、由香の目の前で、スマホをキッチンの床に置き、靴で踏み砕いた。 バキリ、と鈍い音がした。 「あ……」 「それから、会社の仕事。これも、もう行く必要はありません」 「え……?」 「先ほど、私が会社に電話しておきました。『森下由香さんは、心の病の療養のため、本日付で退職します』と。ああ、あなたの声色を真似るのは、少し難しかったですがね」 「そん……な……」 「あなたは、この部屋から一歩も出る必要はありません。食事も、掃除も、洗濯も、すべて私が『完璧』に管理します。あなたは、ただ、ここにいて、私に『見守られて』いればいいんです」


 佐野は、クローゼットから、真っ白なワンピースを取り出した。 由香が見たこともない服だった。 「さあ、着替えてください。これからは、ずっとそれを着ているんですよ。汚れひとつない、完璧なあなたにふさわしい」


 由香は、もう、抵抗する力も残っていなかった。 震える手で、その白いワンピースを受け取る。 佐野は、満足そうに頷いた。 「ええ、それでいいんです。あなたは、私の、私だけの、完璧な人形なんですから」


 由香は、白いワンピースを着て、部屋の真ん中に立ち尽くす。 窓の外は、もう暗い。 だが、この部屋は、佐野の監視の目によって、常に「明るみ」に晒されている。


 カチャリ、と佐野が201号室の鍵を内側から閉めた。 (え?) 佐野は、帰らなかった。 「これからは、ずっと一緒ですよ、森下さん」 彼は、隣の202号室ではなく、由香の部屋のソファに、ゆっくりと腰を下ろした。 そして、あの黒いレンズが潜む天井の換気扇ではなく――由香自身を、その生身の目で、じっと見つめ始めた。


「さあ、森下さん。私に、あなたの『完璧な一日』を見せてください」


 もう、逃げ場はどこにもない。 この「完璧な部屋」が、由香の、永遠の檻となった。

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