完璧な部屋

まちゃおいし

第1話

 完璧な部屋


 森下由香もりした ゆか、26歳。彼女が「コーポみずき」の201号室の扉を開けた瞬間、思わず息をのんだ。

「すごい……綺麗……」

 都心から電車で30分。駅からは少し歩くが、この築年数にしては信じられないほどの清潔感だった。リノベーション済みとは聞いていたが、壁紙は真っ白で傷一つなく、フローリングは磨き上げられ、窓は寸分の曇りもない。なにより、日当たりが最高だった。

「ここ、本当にこの家賃でいいんですか?」

 内見に付き添ってくれた大家の佐野(さの)が、隣の202号室の鍵をじゃらりと鳴らしながら、人の良さそうな笑顔で頷いた。

「ええ、もちろんです。私は隣に住んでますし、何かあればすぐ飛んでいけますから。若い女性の一人暮らしは、何かと物騒ですからね。安心料みたいなものです」

 佐野は五十代半ばくらい、小柄で温厚そうな男性だった。その言葉に、由香は心底ほっとした。初めての一人暮らし。不安がなかったわけではない。こんなに親切な大家さんが隣にいてくれるなんて、幸運としか言いようがなかった。

「ありがとうございます!ここに決めます!」


 引っ越しはスムーズに進んだ。佐野は「男手が必要でしょう」と、朝から嫌な顔一つせず、重い荷物を運ぶのを手伝ってくれた。

「いやあ、助かりました。佐野さん、力持ちですね」

「とんでもない。これくらいお安い御用ですよ。そうだ、棚の設置とか、何かあればいつでも言ってください。遠慮はなしですよ、私たちはもうお隣さんなんですから」

 汗を拭いながら笑う佐野に、由香は何度も頭を下げた。


 新しい生活は、想像以上に快適だった。

 部屋は完璧だった。防音もしっかりしているのか、隣の佐野の生活音はまったく聞こえない。夜は静かで、朝は明るい日差しで目が覚める。

 佐野の親切も、言葉通りだった。

 引っ越しの翌日、由香が仕事から帰ると、ドアノブに見覚えのないスーパーの袋がかかっていた。中には栄養ドリンクと、「お仕事お疲れ様です。大家より」と書かれたメモ。

(わ、わざわざすみません……)

 少し驚いたが、その心遣いが嬉しかった。


 ある週末の朝。由香がベランダで洗濯物を干していると、隣のベランダに佐野が出てきた。

「おはようございます、森下さん。よく眠れましたか?」

「あ、おはようございます!はい、すごく快適で……」

「それは良かった。ああ、そうだ。昨日、駅前の商店街で新しいランプを買われましたね。アンティーク調の、素敵なデザインでした。この部屋の雰囲気にぴったりですよ」

 由香は「え?」と固まった。

「……どうして、それを」

 昨日、仕事帰りに雑貨屋で買ったフロアランプのことだ。まだ箱からも出していない。

「ああ、すみません。昨日、森下さんが大きな荷物を持って帰られるのが見えたものですから。てっきり、あれがそうかと」

 佐野はベランダの仕切り越しに、にこやかに言った。

「あ、ああ……そうだったんですね。よく見てらっしゃる」

「お隣さんですから。森下さんのことは、私が見守っていないと」

 その言葉は、その時はまだ、温かいものとして由香の胸に響いた。


 異変に気づき始めたのは、それから一週間ほど経った頃だ。

 仕事でクタクタになって帰ってきた夜。玄関を開けると、いつもと何かが違う気がした。

(……なんだろう)

 部屋は完璧に片付いている。朝、慌てて出て行ったはずなのに、テーブルの上に置きっぱなしにしたマグカップがない。

「あれ?」

 シンクを見ると、洗われて、綺麗に伏せられていた。

(……洗ったっけ?私)

 記憶が曖昧だった。疲れているせいかもしれない。

 その日は、そのままベッドに倒れ込んだ。


 だが、そんな些細な「違和感」が続いた。

 読みかけで、ソファに放り出してあった雑誌が、きちんと閉じられてテーブルの上に戻っている。

 お風呂上がりに使ったバスタオルが、翌朝には綺麗に乾いて畳まれ、脱衣所の棚に置かれている。

 極め付けは、キッチンの隅に落としたまま忘れていた、小さなパスタの欠片がなくなっていたことだ。


(おかしい)

 由香は背筋が寒くなるのを感じた。

(私、夢遊病でも患ってる……?)

 いや、そんなはずはない。

 だとすれば、考えられる可能性は一つしかなかった。

(誰かが、この部屋に入ってる……?)


 まさか。鍵はちゃんと閉めている。オートロックではないが、ピッキングされるような安アパートでもない。

 唯一、合鍵を持っている人物。

(……佐野さん?)

 だが、何のために?

 親切でやってくれている?だとしたら、あまりにも行き過ぎている。

 由香は混乱した。


 次の日、由香は一つの「実験」を試みた。

 朝、家を出る前に、本棚の一番端の本を、わざと5ミリほど前にずらしておいた。

 そして、仕事中も気が気ではなかった。早く帰って確認したい。でも、もし本が元に戻っていたら?

(考えすぎよね。きっと、気のせい……)


 夜。恐る恐る玄関のドアを開け、部屋に飛び込む。

 一目散に本棚へ向かった。

 そして、絶望した。


 本は、他の本と完璧に一直線に揃えられていた。

「あ……あ……」

 腰が抜けそうになり、その場にへたり込んだ。

 間違いない。佐野だ。

 あの温厚な大家が、由香の留守中に、この部屋に自由に出入りしている。

(どうして……なんのために……?)

 盗られたものはない。荒らされた形跡もない。むしろ、綺麗になっている。

 それが、余計に気味悪かった。

 まるで、由香の生活を「正しい形に整え直して」いるかのように。


 その夜、佐野からテキストメッセージが届いた。

『森下さん、今夜はため息が多いようですね。何か悩み事ですか?私でよければ、いつでもお話を聞きますよ』

 心臓が凍りついた。

 ため息?

(聞こえてる……?)

 壁は薄くないはずだ。それなのに、なぜ。


『お隣さんですから』

 佐野の言葉が、呪いのように頭の中で反響する。


 由香は発狂しそうだった。

 警察に言う?

 何を?「大家さんが親切すぎて、部屋を掃除してくれるんです」?

 馬鹿げている。ストーカーとして扱ってくれるだろうか。物証は何もない。


(証拠……証拠を見つけないと)

 由香は、まるで泥棒のように、自分の部屋をくまなく調べ始めた。

 佐野が「聞いている」としたら、盗聴器?

「見ている」としたら……?


(まさか)

 あり得ないと思いたかった。だが、点と点が繋がっていく。

『素敵なデザインでした』

 箱からも出していないランプのデザインを、彼は知っていた。

『ため息が多い』

 壁越しに聞こえるレベルではない、微かな息遣い。


 由香は、部屋の隅々を見渡した。

 エアコン。火災報知器。換気扇。

(どこ……どこなの……)

 クローゼットの中、ベッドの下。

 見つからない。

 だが、あの「完璧な部屋」が、今や自分を閉じ込める檻のように思えてきた。


 ふと、バスルームの換気扇のカバーに目が留まった。

 小さな、プラスチックの格子。

 椅子を持ってきて、その上に立つ。

 息を殺して、格子の隙間に目を凝らした。


 あった。

 格子の奥、黒い闇の中に、ほんのわずかに光を反射するもの。

 ホコリや汚れではない、人工的な、小さな、丸いガラス。

「ひっ……!」

 由香は椅子から転げ落ちそうになった。

 レンズだ。小型カメラの。


 震える手でスマートフォンを取り出し、懐中電灯アプリを起動した。

 もう一度、椅子に上がる。

 強い光を格子に当てた。

 奥にあったのは、間違いなく、黒く艶めく小さなレンズだった。

 それは、じっと、由香が今立っている場所、つまり脱衣所全体を見下ろしていた。


(寝室は……?)

 半狂乱で寝室に向かう。

 寝室にも、同じタイプの換気扇がある。

 ベッドの真上。

 椅子を引きずってきて、震えながらよじ登る。

 光を当てる。


 そこにも、あった。

 黒い瞳が、由香のベッドを、由香のプライベートな空間を、24時間、監視していた。


「あああああああああっ!」

 声にならない悲鳴が漏れた。

 あの親切な笑顔。

『私が見守っていないと』

『お隣さんですから』

 全てが、このためだったのだ。

 この部屋は、佐野にとって、箱庭だった。

 彼が完璧に管理し、鑑賞するための「ドールハウス」。

 そして由香は、その中で生かされている、人形。


 由香は荷物をまとめることも忘れ、アパートから飛び出した。

 どこへ行けばいいのかもわからない。

 とにかく、あの「目」から逃れたかった。

 走りながら警察に電話しようとした、その時。


 曲がり角で、誰かに強くぶつかった。

「きゃっ!」

「おっと、危ない」

 聞き慣れた、穏やかな声。

 由香が顔を上げると、そこには、スーパーの袋を提げた佐野が立っていた。

 いつもの、あの人の良さそうな笑顔で。

「どうしたんですか、森下さん。そんなに慌てて。忘れ物ですか?」


「あ……あ、あの……」

 由香は、何も言えなかった。

 目の前の男が、自分の全てを覗き見ていた。

 今、この瞬間も、部屋のカメラは、留守になった「完璧な部屋」を映し出している。


 佐野の目が、すうっと細められた。

 笑顔は崩さない。だが、その目の奥に、冷たい光が宿った。

「森下さん」

 優しい声が、今は刃物のように由香の肌を刺す。

「もしかして、何か、お気に召さないことでも?」

「……っ!」

「私はね、森下さんに、この部屋で快適に、清く正しく、暮らしてほしいだけなんですよ」

 彼は一歩、由香に近づいた。

「あの部屋は、完璧なんです。私が完璧に管理しているんですから。それを、あなたが汚すのは、許せないなあ」

「……やめて……」

「何をですか?」

 佐野は心底不思議そうに首を傾げた。

「私は、ただ親切にしているだけじゃありませんか。ねえ、森下さん。あなたも、あの完璧な部屋、気に入ってくれてましたよね?」


 由香は動けなかった。

 逃げ道はない。

 この男は、すべてを知っている。

 由香がカメラに気づいたことも、きっと、今この瞬間に悟っただろう。


「さあ、帰りましょう、森下さん。夜は冷えます」

 佐野は、提げていたスーパーの袋を由香に差し出した。

 中には、由香がいつも買っている銘柄の緑茶と、ヨーグルトが見えた。

「今日は、お仕事、大変だったんでしょう?顔色も悪い。早く部屋に戻って、ゆっくり休まないと」


 由香は、震える手で、その袋を受け取ることしかできなかった。

 佐野は満足そうに頷いた。

「ええ、それでいいんです。あなたは、私の『完璧な部屋』にふさわしい、完璧な住人なんですから」


 由香は、佐野に導かれるまま、アパートへと足を戻した。

 自分の部屋、201号室のドアが開く。

 隣の202号室のドアも、ほぼ同時に開いた。

「おやすみなさい、森下さん」

 佐野が、壁の向こう側から、優しく声をかけた。

「……良い夢を」


 由香は、鍵をかける音も立てられなかった。

 暗い部屋の真ん中に立ち尽くし、ただ、寝室の換気扇を見上げた。

 闇の中で、あのレンズが、今も自分を「見守って」いる。

 もう、どこにも逃げ場はなかった。

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