完璧な部屋
まちゃおいし
第1話
完璧な部屋
「すごい……綺麗……」
都心から電車で30分。駅からは少し歩くが、この築年数にしては信じられないほどの清潔感だった。リノベーション済みとは聞いていたが、壁紙は真っ白で傷一つなく、フローリングは磨き上げられ、窓は寸分の曇りもない。なにより、日当たりが最高だった。
「ここ、本当にこの家賃でいいんですか?」
内見に付き添ってくれた大家の佐野(さの)が、隣の202号室の鍵をじゃらりと鳴らしながら、人の良さそうな笑顔で頷いた。
「ええ、もちろんです。私は隣に住んでますし、何かあればすぐ飛んでいけますから。若い女性の一人暮らしは、何かと物騒ですからね。安心料みたいなものです」
佐野は五十代半ばくらい、小柄で温厚そうな男性だった。その言葉に、由香は心底ほっとした。初めての一人暮らし。不安がなかったわけではない。こんなに親切な大家さんが隣にいてくれるなんて、幸運としか言いようがなかった。
「ありがとうございます!ここに決めます!」
引っ越しはスムーズに進んだ。佐野は「男手が必要でしょう」と、朝から嫌な顔一つせず、重い荷物を運ぶのを手伝ってくれた。
「いやあ、助かりました。佐野さん、力持ちですね」
「とんでもない。これくらいお安い御用ですよ。そうだ、棚の設置とか、何かあればいつでも言ってください。遠慮はなしですよ、私たちはもうお隣さんなんですから」
汗を拭いながら笑う佐野に、由香は何度も頭を下げた。
新しい生活は、想像以上に快適だった。
部屋は完璧だった。防音もしっかりしているのか、隣の佐野の生活音はまったく聞こえない。夜は静かで、朝は明るい日差しで目が覚める。
佐野の親切も、言葉通りだった。
引っ越しの翌日、由香が仕事から帰ると、ドアノブに見覚えのないスーパーの袋がかかっていた。中には栄養ドリンクと、「お仕事お疲れ様です。大家より」と書かれたメモ。
(わ、わざわざすみません……)
少し驚いたが、その心遣いが嬉しかった。
ある週末の朝。由香がベランダで洗濯物を干していると、隣のベランダに佐野が出てきた。
「おはようございます、森下さん。よく眠れましたか?」
「あ、おはようございます!はい、すごく快適で……」
「それは良かった。ああ、そうだ。昨日、駅前の商店街で新しいランプを買われましたね。アンティーク調の、素敵なデザインでした。この部屋の雰囲気にぴったりですよ」
由香は「え?」と固まった。
「……どうして、それを」
昨日、仕事帰りに雑貨屋で買ったフロアランプのことだ。まだ箱からも出していない。
「ああ、すみません。昨日、森下さんが大きな荷物を持って帰られるのが見えたものですから。てっきり、あれがそうかと」
佐野はベランダの仕切り越しに、にこやかに言った。
「あ、ああ……そうだったんですね。よく見てらっしゃる」
「お隣さんですから。森下さんのことは、私が見守っていないと」
その言葉は、その時はまだ、温かいものとして由香の胸に響いた。
異変に気づき始めたのは、それから一週間ほど経った頃だ。
仕事でクタクタになって帰ってきた夜。玄関を開けると、いつもと何かが違う気がした。
(……なんだろう)
部屋は完璧に片付いている。朝、慌てて出て行ったはずなのに、テーブルの上に置きっぱなしにしたマグカップがない。
「あれ?」
シンクを見ると、洗われて、綺麗に伏せられていた。
(……洗ったっけ?私)
記憶が曖昧だった。疲れているせいかもしれない。
その日は、そのままベッドに倒れ込んだ。
だが、そんな些細な「違和感」が続いた。
読みかけで、ソファに放り出してあった雑誌が、きちんと閉じられてテーブルの上に戻っている。
お風呂上がりに使ったバスタオルが、翌朝には綺麗に乾いて畳まれ、脱衣所の棚に置かれている。
極め付けは、キッチンの隅に落としたまま忘れていた、小さなパスタの欠片がなくなっていたことだ。
(おかしい)
由香は背筋が寒くなるのを感じた。
(私、夢遊病でも患ってる……?)
いや、そんなはずはない。
だとすれば、考えられる可能性は一つしかなかった。
(誰かが、この部屋に入ってる……?)
まさか。鍵はちゃんと閉めている。オートロックではないが、ピッキングされるような安アパートでもない。
唯一、合鍵を持っている人物。
(……佐野さん?)
だが、何のために?
親切でやってくれている?だとしたら、あまりにも行き過ぎている。
由香は混乱した。
次の日、由香は一つの「実験」を試みた。
朝、家を出る前に、本棚の一番端の本を、わざと5ミリほど前にずらしておいた。
そして、仕事中も気が気ではなかった。早く帰って確認したい。でも、もし本が元に戻っていたら?
(考えすぎよね。きっと、気のせい……)
夜。恐る恐る玄関のドアを開け、部屋に飛び込む。
一目散に本棚へ向かった。
そして、絶望した。
本は、他の本と完璧に一直線に揃えられていた。
「あ……あ……」
腰が抜けそうになり、その場にへたり込んだ。
間違いない。佐野だ。
あの温厚な大家が、由香の留守中に、この部屋に自由に出入りしている。
(どうして……なんのために……?)
盗られたものはない。荒らされた形跡もない。むしろ、綺麗になっている。
それが、余計に気味悪かった。
まるで、由香の生活を「正しい形に整え直して」いるかのように。
その夜、佐野からテキストメッセージが届いた。
『森下さん、今夜はため息が多いようですね。何か悩み事ですか?私でよければ、いつでもお話を聞きますよ』
心臓が凍りついた。
ため息?
(聞こえてる……?)
壁は薄くないはずだ。それなのに、なぜ。
『お隣さんですから』
佐野の言葉が、呪いのように頭の中で反響する。
由香は発狂しそうだった。
警察に言う?
何を?「大家さんが親切すぎて、部屋を掃除してくれるんです」?
馬鹿げている。ストーカーとして扱ってくれるだろうか。物証は何もない。
(証拠……証拠を見つけないと)
由香は、まるで泥棒のように、自分の部屋をくまなく調べ始めた。
佐野が「聞いている」としたら、盗聴器?
「見ている」としたら……?
(まさか)
あり得ないと思いたかった。だが、点と点が繋がっていく。
『素敵なデザインでした』
箱からも出していないランプのデザインを、彼は知っていた。
『ため息が多い』
壁越しに聞こえるレベルではない、微かな息遣い。
由香は、部屋の隅々を見渡した。
エアコン。火災報知器。換気扇。
(どこ……どこなの……)
クローゼットの中、ベッドの下。
見つからない。
だが、あの「完璧な部屋」が、今や自分を閉じ込める檻のように思えてきた。
ふと、バスルームの換気扇のカバーに目が留まった。
小さな、プラスチックの格子。
椅子を持ってきて、その上に立つ。
息を殺して、格子の隙間に目を凝らした。
あった。
格子の奥、黒い闇の中に、ほんのわずかに光を反射するもの。
ホコリや汚れではない、人工的な、小さな、丸いガラス。
「ひっ……!」
由香は椅子から転げ落ちそうになった。
レンズだ。小型カメラの。
震える手でスマートフォンを取り出し、懐中電灯アプリを起動した。
もう一度、椅子に上がる。
強い光を格子に当てた。
奥にあったのは、間違いなく、黒く艶めく小さなレンズだった。
それは、じっと、由香が今立っている場所、つまり脱衣所全体を見下ろしていた。
(寝室は……?)
半狂乱で寝室に向かう。
寝室にも、同じタイプの換気扇がある。
ベッドの真上。
椅子を引きずってきて、震えながらよじ登る。
光を当てる。
そこにも、あった。
黒い瞳が、由香のベッドを、由香のプライベートな空間を、24時間、監視していた。
「あああああああああっ!」
声にならない悲鳴が漏れた。
あの親切な笑顔。
『私が見守っていないと』
『お隣さんですから』
全てが、このためだったのだ。
この部屋は、佐野にとって、箱庭だった。
彼が完璧に管理し、鑑賞するための「ドールハウス」。
そして由香は、その中で生かされている、人形。
由香は荷物をまとめることも忘れ、アパートから飛び出した。
どこへ行けばいいのかもわからない。
とにかく、あの「目」から逃れたかった。
走りながら警察に電話しようとした、その時。
曲がり角で、誰かに強くぶつかった。
「きゃっ!」
「おっと、危ない」
聞き慣れた、穏やかな声。
由香が顔を上げると、そこには、スーパーの袋を提げた佐野が立っていた。
いつもの、あの人の良さそうな笑顔で。
「どうしたんですか、森下さん。そんなに慌てて。忘れ物ですか?」
「あ……あ、あの……」
由香は、何も言えなかった。
目の前の男が、自分の全てを覗き見ていた。
今、この瞬間も、部屋のカメラは、留守になった「完璧な部屋」を映し出している。
佐野の目が、すうっと細められた。
笑顔は崩さない。だが、その目の奥に、冷たい光が宿った。
「森下さん」
優しい声が、今は刃物のように由香の肌を刺す。
「もしかして、何か、お気に召さないことでも?」
「……っ!」
「私はね、森下さんに、この部屋で快適に、清く正しく、暮らしてほしいだけなんですよ」
彼は一歩、由香に近づいた。
「あの部屋は、完璧なんです。私が完璧に管理しているんですから。それを、あなたが汚すのは、許せないなあ」
「……やめて……」
「何をですか?」
佐野は心底不思議そうに首を傾げた。
「私は、ただ親切にしているだけじゃありませんか。ねえ、森下さん。あなたも、あの完璧な部屋、気に入ってくれてましたよね?」
由香は動けなかった。
逃げ道はない。
この男は、すべてを知っている。
由香がカメラに気づいたことも、きっと、今この瞬間に悟っただろう。
「さあ、帰りましょう、森下さん。夜は冷えます」
佐野は、提げていたスーパーの袋を由香に差し出した。
中には、由香がいつも買っている銘柄の緑茶と、ヨーグルトが見えた。
「今日は、お仕事、大変だったんでしょう?顔色も悪い。早く部屋に戻って、ゆっくり休まないと」
由香は、震える手で、その袋を受け取ることしかできなかった。
佐野は満足そうに頷いた。
「ええ、それでいいんです。あなたは、私の『完璧な部屋』にふさわしい、完璧な住人なんですから」
由香は、佐野に導かれるまま、アパートへと足を戻した。
自分の部屋、201号室のドアが開く。
隣の202号室のドアも、ほぼ同時に開いた。
「おやすみなさい、森下さん」
佐野が、壁の向こう側から、優しく声をかけた。
「……良い夢を」
由香は、鍵をかける音も立てられなかった。
暗い部屋の真ん中に立ち尽くし、ただ、寝室の換気扇を見上げた。
闇の中で、あのレンズが、今も自分を「見守って」いる。
もう、どこにも逃げ場はなかった。
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