『愛音』其之肆

 翌朝。


 目覚めると、頭の中は少し軽くなっていましたが、胸の中には深い靄が残ったままでした。


 時計を見やればまだ早朝の時間です。結局、お寿司屋さんでは何も食べなかったので、お腹の中は空っぽ。気怠さはありましたが空腹には勝てず、重い身体を起こし、簡単に髪を整えて、キャリーケースから簡素なワンピースを取り出しました。


 変装とかお着物が汚れた時とか、一応の備えとして持ってきた洋服です。和服と違って袖を通すだけなので、その手軽さが助けとなりました。ブーツとの組み合わせもさほど違和感はありません。お部屋の姿見で全身チェックし、良しとして、近くのコンビニまで出かけます。


 西に宍道湖、東に中海。水辺に挟まれた四月の早朝。吹く風は冷たく、むき出しの肩や腕を撫でてゆきます。


 スカートが揺れる感覚も心許なく、脚に風が触れる感触に、我が身の無防備を強く意識してしまいました。思えば、こんな軽装で一人歩くなんて、何年ぶりのことかしら。


 五年、十年、常に大和撫子らしくあれと、外出するときはいつも和服でした。何重にも布を巻き付け、厚い帯で硬く閉じたお着物が、私にとっての鎧であったことに気付きます。


 身を包む違和感と僅かばかりの恥ずかしさを覚えつつ、コンビニで適当に朝食を買って、けれどホテルのお部屋に戻る気にもなれず、冷たい風に誘われるまま歩き出しました。


 西へ真っすぐ歩いてゆくと、宍道湖を望む広い公園に出ます。ふらふらと波打ち際まで近寄り、手前の階段に腰かけておにぎりを噛みしめ、お茶で胃に押し込みました。


 冷たい風はより一層強く吹き抜け、生肌から体温を奪いつつ、髪を乱暴に乱します。


 寒い。

 けれど、頭はぼうっとして働かず、身体はその場に留まりました。


 打ち寄せる波音に耳を傾け、ほんのり潮気を帯びた水の香りに身を委ね、どのくらいでしょうか。早朝から朝に変わるまでそこに居ました。


 いよいよ身体が冷え切って、お花摘みの気配もしてきたところで、ようやくホテルのお部屋に戻ります。お化粧室で済ませることを済ませると、ふと思い立って、隣の小さな浴槽にお湯を貯めてみました。


 薄いカーテンこそあるものの、お化粧室と同じ空間にあるお風呂には若干の不潔感を覚えてしまいます。それでも裸になって身を浸してみました。


(狭い……)


 肩まで浸かることもできず、冷え切った身体には不十分と言わざるを得えません。


(大浴場、開いてるかな……)


 狭い湯船で思い馳せ、しかし実行することはなく、ほどほどに身を温めてアメニティの薄い浴衣を身体に巻きつけ、ベッドに潜り込みました。


 昨日脱ぎ捨てた袴も、今着ていたワンピースも床に転がったまま。だらしないと思いつつもベッドの中に身体を丸め、愛音さんのことを考えます。


 昨日の夜も、あれから誰とも知らない殿方を捕まえて、暖かい場所で寝たのかしら。

 好きでもない人に躰を許して、何とも思わないのかしら。

 彼女たちは、そうやって生きていくのかしら。

 私が今、すべきことは何?


 ぐるりぐるり。


 頭の中で堂々巡りを繰り返し、繰り返し、繰り返すばかり。どこにも辿り着くことができずにいると、不意にスマホが鳴りました。御幸さんからの着信です。


「お疲れさまです。ご報告したいことがあります。昼食がてらお話でもどうですか?」


 時計を見やると、いつの間にか数時間が経過し、朝から正午に移り変わっていました。


「すみません、そんな気分になれなくて、ご報告だけお伺いします」


「ずいぶんお疲れのようですね。食事は摂られましたか?」


「朝におにぎりをひとつ」


「燃料がなければ動くものも動きません。食事はちゃんと摂ってください。外出する気力がないなら、なにか調達してきましょうか?」

「そうですね……」


 くぅ、と鳴ったお腹に手を置きます。


「何か、栄養のあるものをお願いします」


「分かりました。一時間以内にお伺いします」


 通話を切って、またパタリと仰向けに寝転びます。


 薄い浴衣は着崩れ、脚も胸も露出していました。御幸さんが来るなら、ちゃんと服を着なきゃ。部屋も片付けないと。ああ、気怠い。


 それでも重たい身を持ち上げ、下着を着て、ワンピースを着て、袴やキャリーケースを片付けて、そうしている内にドアがノックされ、御幸さんが名乗りました。


 鍵を開け、ドアを開いて迎え入れると、ふわりと食欲をそそる香りがします。御幸さんの手には、ハンバーガーチェーン店の袋が握られていました。


「お好きかどうか分かりませんが、ひとまず栄養はあります。あと、車から自前の茶葉を持ってきました。気分が落ち着き、疲れにも効きます。ここで淹れてもかまわないでしょうか?」


「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えさせていただきます」


 御幸さんから袋を受け取り、ベッドに座って油紙に包まれたハンバーガーを取り出しました。


 暖かく、柔らかい。甘辛い香りには日本料理のような繊細さはありませんが、強制的に食欲を引き起こす力強さがあります。今はそれがありがたい。紙を解いてはむりと噛みつき、咀嚼して飲み込みました。


「あまり食べない物ですが、美味しいです」


「それは良かった。こちらはあまり美味くはないので、お覚悟を」


 電気ケトルでお湯を沸かし、お部屋に備え付けの急須と湯呑を取って、御幸さんがお茶を淹れてくださいます。お湯と茶葉が触れた瞬間に立ち昇る、ツンと鼻の奥をつつくような強い香り。野草に火を放ったかのような匂いです。


 御幸さんは苦笑と共に湯呑を持ち上げ、私に差し出します。素敵な予感はしませんでしたが、せっかくの心遣いを無下にはできません。受け取って、一口舐めました。


「苦っ!」


「良薬ですから」


 クツクツと笑う御幸さん。私はたまらずハンバーガーを頬張り、口の中をリセットしました。これを湯呑一杯飲み干すのは、なかなか骨が折れそうです。


「食べながら聞いてください。栞葉さんと連絡を取って、封結院の動きを探ってみました。少し違和感があります。椿さんは見つかっているものの、拘束には動かず、監視のみを続けているようです。栞葉さんによれば、首謀者の方に人員を回しているのだとか」


 昨日のやり取りを思い出し、首を傾げました。


「椿さんは捕まったと言っていませんでしたか?」


「愛音さんの前でしたから、嘘を吐きました」


 御幸さんは悪びれる様子もなくあっさりと言い、言葉を続けます。


「ぬらりひょんから何か連絡はありましたか?」


「いいえ、私の方には何も」


「封結院は首謀者の方に近付いているようです。何事もなく解決すれば、残る仕事は愛音さんと椿さんの確保のみとなるでしょう。ここでの決断が重要になります」


 愛音さんは首謀者の何かを知っている。それを知らねば近付くことすらできないと言っていましたが、それも嘘だったのでしょうか。それとも、封結院の専門家たちが愛音さんの考えを上回ったか。どちらにしろ、私が決断すべきことには影響しません。


 愛音さんを見逃すか、見逃さないか。


 見逃せば、愛音さんは束の間ながら外の世界を謳歌できます。その間、私も御幸さんと一緒にいることができる。彼女自身が言ったように両得の関係です。自分の損得だけを考えるならば、それで問題ないように思えてしまいます。


 俯いて悶々と考えていると、不意に御幸さんが口を開きました。


「愛音さんの首、気付きましたか?」


「首?」


「チョーカーで隠していましたが、絞められた痕がありました」


 驚き、「え?」と声が漏れ出ます。自分のことに精一杯で、全く気付きませんでした。


「邪推ですが、荒っぽい男にやられたものだと思います。妖ですので性病には強いでしょうが、腕力は少女と変わりませんので、直接的な暴力には抵抗できません。


 家出娘が援助交際に走れば、必ずどこかで事件に遭います。見逃す手もあると言った口ですが、今でもその手はあると思ってもいますが、本人のためを想うなら、帰してやった方がいいかと」


「そう、ですよね……」


 自由と言えば聞こえがいいですが、外の世界には危険もあります。


 遊郭の中であれば、お相手の方に乱暴されてもそれに対処する役目の者がいるでしょう。客もそれを承知しているでしょうから、事件そのものが起こりにくいかもしれません。


 しかし、外では誰からの庇護もなく、愛音さんを守ってくれるのは彼女自身のみ。そもそもは人の世に仇を成す妖、やっていることは春を売ることですから、快く思わない者の方が多いでしょう。


 やはり、説得して帰さなければならない。

 けれど、どうやって?


 彼女は頭が切れる上に個人主義の刹那主義。私は弱みまで握られています。それを守りながら彼女を説き伏せるまでの道筋がまるで見えません。


 何か方法はないか、活力を求めてハンバーガーを頬張り、一つをお腹に押し入れますが、頭の中は霧がかった暗闇のまま。苦い薬を少しずつ舐め啜り、光明が差すのを待ちました。


 けれども全く、その時は訪れないのでした。


「落ち着いて」


 とん、と軽く、おでこに指を当てられます。

 顔を上げると柔らかく、それでいて頼もしく、優しい笑みを浮かべた御幸さんが立っていました。


「大丈夫、気を楽にしていきましょう」


「はい、ありがとうございます」


 ぼうっと、御幸さんを見上げました。


 ああ、好き。

 私はこの人のことが好き。

 まだ何も知らないけれど、それでも好き。

 もっと知りたい。もっと近付きたい。心も躰も、今よりもっと。


「もう少し、私に時間をください」


「ええ、もちろん。撫子さんが納得できる選択をしてください」


 御幸さんは踵を返し、湯呑を空にするよう念を押してからお部屋を出て行きました。


 私は湯呑のぬくもりを両手で感じながら、一人、動かずにいました。


 十分か二十分か、ひょっとしたら一時間そうしていたかもしれません。いつの間にか頭の中は空っぽになっていました。焦りによらず、きっかけに頼らず、不意に気付いたように湯呑を持ち上げ、一気に仰ぎます。


 不思議と冷めておらず熱いまま。苦さもそのまま。良薬はハンバーガーのソースを洗って喉を通り、胃の腑の深いところまで真っすぐに落ちていきました。


「苦っ! 不っ味っ! 何を飲ませるですかあの人は!」


 言いつけ通り湯呑を空にして、思いっきり声を出しました。


ー・*・ー・ー・*・ー・ー・*・ー・*・ー・*・ー・ー・*・ー・ー・*・ー



 馬鹿苦い良薬のお陰か、少しだけ元気が出て身体もポカポカとしてきました。


 更に芯までポカポカになるべく、大浴場にざばんして、髪の手入れもできる限り行います。思えば、お風呂での行いが私のルーティーンだったのかもしれません。不思議と気持ちが落ち着いて、頭の中がクリアになりました。


 やるべきこともおぼろげながら見えてきたので、まずは一歩目。お部屋でスマホを持ち上げて栞葉さんに連絡を入れます。


「あ、どーも。撫子ですぅ~~。栞葉さんに置かれましてはお疲れさまです」


「お互い様です。何かありましたか?」


 久々となる栞葉さんの声を聞いて、心がほっとしました。


「いいえ、ただ、お変わりないかと思いまして。私の意向とはいえ、封結院の意に反するお願いをしているものですから、良い顔はされていないでしょう。辛い役目とは理解していますが、もう少しだけ時間を稼げますか?」


「はい、問題ありません。撫子様の方こそ大丈夫でしょうか? 落ち込んでいるようだと御幸さんから聞きました」


「栞葉さんの声を聞いて落ち着きを深めているところです。しかしまた、御幸さんとは密に連絡を取られているんですね。ずいぶんと仲がよろしいようで」


「撫子様の身を任せているのですから、当然です。それ以上も以下もなく、男女のどうこうは欠片もありませんよ。そもそも私、彼氏がいますので」


「はえ!? いつの間に!?」


「半年くらい前にお見合いをしまして、それからお付き合いしています。言うタイミングが無かったのでこれまで黙っていましたが、撫子様にご安心いただくため、今話しました。御幸さんと同じホテルに滞在しているようですね。やるじゃないですか」


「強引に押し込んだら意外といけました。しかしそうですか、栞葉さんに決まった殿方が。へぇ、お時間のある時に詳しくお聞かせ願いたい所存です」


「ええ、今でも構いませんよ。お目付け役に棒立ちしているだけで、雑務も任せてもらえません。暇を持て余していたところです」


 それから栞葉さんの恋事情を面白おかしくつつき回し、茶々を入れまくります。ガードの硬い硬派な女性と思っていましたが、彼氏さんとは甘ったるいご関係のようです。


 結婚の話も出てきているようで、そのあかつきには仕事を辞めて家庭に入りたいのだと、栞葉さんが胸に抱えていた本音も零れました。


 かれこれ栞葉さんとは十年を超える仲。寂しくもありましたが、それ以上に祝福したい気持ちが強く、私にかまわず幸せになって欲しいと伝えました。


「ありがとうございます。今年中の話ではありませんので、ご安心ください。もうしばらくはご一緒させていただきます」


「ええ、よろしくお願いします」


 話の尾の方になると、栞葉さんの声が涙ぐんで震えていました。本気で泣き出す前に次なるお願いを伝えます。


「実は桔梗さんともお話したいのです。繋げることはできますか?」


「ええ、少しお待ちください。こちらから折り返しお電話します」


 最後は鼻をすすりながら、栞葉さんは通話を切りました。数分後に着信が返って来て、ワンコールで受け取ると、いきなり桔梗さんです。


「やー! 撫子さま! 久しぶりだね!」


「ええ、全くです。桔梗さんに置かれましてはお変わりないですか? 封結院の者が失礼を働いていないかと心配しておりました」


「退屈以外は平気だよ。栞葉ちゃんも付いてくれてるしね。撫子さまの方はどうだい?」


「はい、桔梗さんに少しご相談したいことがありまして、ご連絡させていただきました。確認なのですが、この通話は他の誰かに聞かれていたりしませんか?」


「栞葉ちゃんのスマホだし、封結院の奴らもなんか忙しそうだから、いちいち盗み聞きもしてないと思うよ。困りごとかい? アタシで力になれるかな?」


「ええ、存分に力を貸して欲しいのです。ちょっとだけ待って下さいね」


 私は一息入れて自分の心を確かめ、桔梗さんに胸の内を明かしました。


 桔梗さんは茶化しつつも真剣に話を聞いてくださって、私が欲しかった言葉と的確な助言を次々に打ち出してくださいます。胸の中をギチギチにがんじがらめにしていた悩みの紐が、ひとつひとつ解けていくように感じました。


 たっぷりとお話を続けていると、不意にくぅとお腹が鳴ります。外を見ればもう夕方です。なんと時間の流れの早いこと。


「本当にありがとうございます。桔梗さんが島に戻られたら、また会いに行きますね」


「そりゃ嬉しい。たっぷり相手してやるから覚悟しときなよ?」


 お互いにケラケラと笑いながら通話を切り、夕ご飯を調達に出かけました。御幸さんと行ったカフェ、気になるメニューが残っていたので、一人で赴き堪能します。味覚も回復した様子。大変おいしゅうございました。


 いそいそと会計を済ませ、部屋に戻ると今度はお月ちゃんにお電話。ワンコールで元気なお声が返ってきます。


「やほー! 撫子ちゃん何か用?」


「得に用はないです」


「ないの!?」


「声が響いてますね、お風呂ですか?」


「うん。今日は私が最後だから長風呂できるし、用がないなら恋バナでもさせてもらいましょうかね。まだ島根? 御幸さんとどーなったのかな?」


「どーもなってないですよ。これからどうしようかという段階です」


「え、何それ! 何する気!?」


「ええ、桔梗さんにもご相談したのですが、お月ちゃんからも助言をもらえますか?」


「わぁ桔梗さん! 元気だった? っていうかちゃんと用事あるじゃん」


「いえ、勝手に恋バナを開催したので、一応ついでにと思って」


「私そんな扱いなの!?」


 肩がこんにゃくになるんじゃないかと思うほど力を抜いて、取り留めのないガールズトークに花を咲かせます。それが今日一番の元気をもらえるものですから不思議です。


 またもや時間を忘れて話まくっている内にお月ちゃんがのぼせてきたので、ほどほどのところで解散。最後に島根のお土産をお願いされました。


 やれやれ仕事が一つ増えてしまったと嬉しみながら、私も大浴場へ。本日二度目の入浴で、閉まる時間も迫っていましたから、かけ湯だけにして広い浴槽を楽しみます。


 喋りまくった心地よい疲労感がお湯に溶け出していくようです。時間いっぱいまでほかほかに暖まり、お部屋に戻って浴衣に着替え、ベッドに寝転び天井を見上げました。じっくり暖まったおかげか、必要以上に身体がほかほかです。足や胸元をパタパタさせ、火照った身体を冷ましました。


 ああ、なんて心地よい。


 みんなの声に励まされたおかげか、迷いはすっきりと晴れています。

 あとはやるべきことをやるのみ。


 程よく火照りが収まると、両手をパタリと楽にして、桔梗さんやお月ちゃんの助言を思い出しながら頭の中でプランを練りました。


 あれも良い、これも良い。


 ぐるりぐるり、楽しく考えを巡らせていますと、いつしかずーんと眠気が襲ってきて、そのままスヤリと眠りこけてしまいました。翌朝、寒さで目覚めたのは言うまでもありません。風邪をひかなくて良かったです。


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