第3話「零階動物園の檻は観測者を選ぶ」



## I. 発見


水無月彩が零階動物園を発見したのは、偶然だった。


七月十二日、午前十時。


水無月は国立生物研究所から派遣された、零階の生物学的調査員だった。三十二歳。独身。研究一筋の人生を送ってきた。


彼女は零階図書室の奥で、未分類の扉を見つけた。


「……この扉、報告書にありませんでしたけど」


同行していた九条が、扉を見つめる。


「ここは初めて見ます」


「零階は……広がっているんですか?」


九条は首を横に振る。


「わかりません。零階は、観測されることで"現れる"場所もあります」


水無月は眉をひそめる。


「観測で現れる?それは科学的に——」


「ここは、科学の外にあります」


九条は扉に手をかける。


「開けますか?」


水無月は頷いた。研究者の好奇心が、恐怖を上回った。


扉が開く。


その先には——動物園があった。


---


## II. 観測


檻が、並んでいた。


だが、普通の動物園ではない。


檻はすべて透明な素材でできており、内部には——何かがいる。


水無月は最初の檻に近づく。


「これは……」


檻の中には、生物がいた。


それは——水無月には、**黒い影**に見えた。


人型。だが、輪郭が曖昧で、常に揺らめいている。目も口もない。ただ、そこに存在している。


「見えますか?」


九条が尋ねる。


「ええ。黒い……影のような」


九条は、同じ檻を見つめる。


「私には、人間の子供に見えます」


水無月は驚いて九条を見る。


「子供?」


「ええ。五歳くらいの、女の子です。青い服を着て、こちらを見ています」


水無月は再び檻を見る。


だが、彼女には依然として、黒い影にしか見えない。


「……これは、どういうことですか」


九条は静かに答える。


「観測者によって、見えるものが変わる。それが、零階の生物です」


---


## III. 実験


水無月は、科学者としての本能が目覚めるのを感じた。


「録画してみましょう」


水無月は、持参していたビデオカメラを取り出す。檻に向けて録画を開始する。


「これで、客観的な記録が——」


だが、モニターを見て、水無月は固まった。


モニターには——何も映っていなかった。


檻は映っている。だが、中は空だった。


「……嘘」


九条がモニターを覗き込む。


「私にも、何も見えません」


水無月は混乱する。


「でも、確かにそこに——」


水無月は檻を見る。黒い影は、依然としてそこにいる。


九条は言う。


「カメラは、"観測者"ではありません。だから、記録できない」


「それは……矛盾しています」


「ええ。零階は、矛盾を内包しています」


水無月は、カメラを別の職員に渡す。


「あなたにも、録画してもらえますか?」


職員は頷き、同じ檻を録画する。


そして——


職員のモニターには、**人間の子供**が映っていた。


水無月は、自分のモニターを再確認する。やはり空だ。


「これは……」


水無月の声が震える。


「観測者によって、記録される内容が変わる……?」


九条は頷く。


「これが、零階の法則です」


---


## IV. 仮説


水無月は、檻の前に座り込んだ。


ノートを開き、必死にメモを取る。


「待ってください。整理させてください」


水無月は、図を描き始める。


「もし、この生物が"観測されることで形を得る"のだとしたら——」


水無月は、九条を見上げる。


「——零階は、未来を記録する場所ではない。"可能性を貯蔵する場所"なんじゃないですか?」


九条の目が、わずかに見開かれる。


「……続けてください」


水無月は立ち上がり、檻を指差す。


「この生物は、"確定していない存在"なんです。観測者によって、異なる形で"確定"する。つまり——」


水無月は興奮した様子で続ける。


「——零階図書室の本も同じです!未来は一つじゃない。観測者が"選ぶ"ことで、確定する!」


九条は、長い沈黙の後、小さく息をついた。


「……あなたは、危険な領域に踏み込んでいます」


「危険?」


「ええ。その仮説は——正しいかもしれません」


水無月は、九条の表情を見て、背筋に寒気を感じた。


「あなたは……知っていたんですか?」


九条は答えない。


ただ、檻の奥を指差す。


「最奥に、もう一つ檻があります」


---


## V. 最奥の檻


水無月と九条は、動物園の最奥へと進んだ。


そこには、一つだけ、巨大な檻があった。


檻の前には、プレートがあった。


《観測禁止:可能性崩壊の危険》


水無月は、檻の中を覗き込む。


そこには——


「……私?」


檻の中に、水無月自身がいた。


だが、どこか違う。


髪型が違う。服装が違う。表情が違う。


檻の中の水無月は、研究者のような冷たい目ではなく——優しい、母親のような目をしていた。


「これは……」


九条が説明する。


「あなたの、"別の可能性"です」


「別の……可能性?」


「ええ。もしあなたが、別の選択をしていたら。別の人生を歩んでいたら。そうなっていたかもしれない、"あなた"です」


水無月は、檻の中の自分を見つめる。


檻の中の水無月は、微笑んでいた。


そして——手を伸ばしてきた。


「触れてはいけません」


九条が警告する。


「触れれば、あなたは——」


だが、水無月の手は、もう檻に触れていた。


---


## VI. 変質


水無月の視界が、揺らいだ。


世界が回転する。色が反転する。音が遠のく。


そして——


水無月は、檻の中にいた。


「え……?」


水無月は自分の手を見る。同じ手だ。だが、何かが違う。


檻の外を見る。


そこには——研究服を着た、別の水無月がいた。


「……私?」


檻の外の水無月は、ノートを取っている。冷静な表情で。


「違う……私はこっちじゃない……」


水無月は檻を叩く。


だが——手が、すり抜けた。


「触れない……?」


九条が、檻の外の水無月に話しかける。


「水無月さん、大丈夫ですか?」


檻の外の水無月は、九条を見上げる。


「ええ、大丈夫です。少し……頭が痛いですが」


その声は、確かに水無月のものだった。


だが、檻の中の水無月は——誰にも見えていなかった。


---


## VII. 入れ替わり


檻の外の水無月は、ノートを閉じた。


「九条さん。私、わかりました」


「何がですか?」


「零階の本質です」


檻の外の水無月は、冷静に説明する。


「零階は、"選ばれなかった可能性"を保管する場所です。未来が確定するとき、選ばれなかった可能性は——ここに捨てられる」


九条は、水無月を見つめる。


「……あなたは、誰ですか」


檻の外の水無月は、微笑む。


「水無月彩です。生物学者です」


「いいえ」


九条は首を横に振る。


「あなたは、"別の水無月"です」


檻の外の水無月は、笑みを深める。


「ええ。私は、研究者としての人生を選んだ水無月です。檻の中にいるのは——家庭を選んだ水無月」


檻の中の水無月は、叫ぶ。


「違う!私が本物よ!」


だが、声は届かない。


九条は、檻の外の水無月に尋ねる。


「あなたは、彼女を——元の水無月を、どうするつもりですか」


檻の外の水無月は、檻を見つめる。


「……何もしません。彼女は、ここにいるべきです」


「なぜ」


「彼女は、"選ばれなかった可能性"だから」


---


## VIII. 記憶の混濁


檻の中の水無月は、膝をついた。


「……そんな」


だが、その時——水無月の記憶が、揺らぎ始めた。


自分は、研究者だったはずだ。


いや——違う。


自分は、結婚して、子供がいたはずだ。


娘の名前は——


「……あれ?」


思い出せない。


いや、そもそも——自分に、娘はいたのか?


記憶が、二つに分裂する。


研究に没頭した日々。


家族と過ごした日々。


どちらも、確かに自分の記憶だ。


だが——どちらが本物なのか、わからない。


「私は……誰?」


水無月は、自分の顔を触る。


確かに、自分の顔だ。


だが——これは、本当に自分なのか?


檻の外の水無月は、九条に言う。


「彼女は、まもなく消えます」


「消える?」


「ええ。記憶が混濁し、自己が崩壊します。そして——可能性として、完全に零階に吸収される」


九条は、檻の中の水無月を見る。


その目には——哀れみが浮かんでいた。


---


## IX. 質問


檻の外の水無月は、九条を見上げる。


「九条さん」


「何ですか」


「あなたは、何回"別の自分"になりましたか?」


九条は、動きを止める。


水無月は続ける。


「あなたも、檻の中にいたことがあるんじゃないですか?そして——外に出た」


九条は、長い沈黙の後、答えた。


「……二回です」


「二回」


「ええ。一度目は、恋人を救おうとした自分。二度目は——」


九条は目を閉じる。


「——恋人を見捨てた自分」


水無月は、静かに頷く。


「今のあなたは、どちらですか?」


九条は答えない。


ただ、檻の中の水無月を見つめる。


檻の中の水無月は、もう動かなくなっていた。


目を開けたまま、虚空を見つめている。


「……彼女は、消えました」


水無月が告げる。


九条は、小さく呟いた。


「……また、一人」


---


## X. 変化


翌日。


水無月彩は、国立生物研究所に戻った。


同僚たちが、彼女を出迎える。


「水無月さん、調査はどうでした?」


水無月は、微笑む。


「興味深いデータが取れました」


「それは良かった」


同僚は、水無月の表情を見て、首を傾げる。


「……水無月さん、なんだか雰囲気変わりました?」


「そうですか?」


「ええ。なんというか……柔らかくなったというか」


水無月は笑う。


「気のせいですよ」


だが——


水無月の机の引き出しには、見覚えのない写真があった。


小さな女の子と、水無月が並んで笑っている写真。


水無月は、写真を見つめる。


「……これは、誰?」


記憶にない。


だが——どこか懐かしい。


水無月は、写真をそっとしまった。


「……私は、誰だったんだろう」


その問いに、答えはなかった。


---


## XI. 終幕


零階動物園。


檻の中には、もう何もいない。


ただ、空の檻だけが、静かに並んでいる。


九条は、最奥の檻の前に立つ。


「……可能性は、無限にある」


九条は、自分の手を見つめる。


「だが——選ばれる可能性は、一つだけだ」


九条は、檻に背を向ける。


「水無月さん。あなたは、どちらの自分を生きますか」


その問いは、誰にも届かない。


ただ、零階の闇に、吸い込まれていった。


---


零階動物園。


そこは、選ばれなかった可能性が、眠る場所。


私たちは、常に"別の自分"を殺しながら、生きている。


---


第3話 終


---


## 次回予告


《零階劇場で上演されるのは誰の物語か》


舞台の上で、何度も繰り返される死の瞬間。


「——私は、彼女を救おうとした」


九条の過去が、幕を開ける。


「なぜ、救わなくてよかったのに」


愛する者を救うことは——罪なのか。


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