監視カメラは嘘をつく―夫を疑った妻が、監視映像に映した本当の犯人―

ソコニ

第1話「寝室のカメラ」


プロローグ

 午前二時十三分。寝室は深い静寂に包まれている。

 香織の指先が、天井の換気口カバーを慎重に外していく。脚立の上、天井とわずか三十センチの距離。息を殺し、体重のかけ方まで計算しながら、彼女は作業を続ける。

 ピンホールカメラ。直径わずか三ミリ。レンズは針の穴ほどしかないが、フルHD画質で二十四時間録画が可能だ。Wi-Fi経由でスマートフォンに映像を送信し、クラウドに自動保存される。

 香織の手つきは淀みない。かつて、彼女は東京地検の科学捜査研究所で働いていた。デジタル・フォレンジック──犯罪捜査における電子証拠の分析が専門だった。削除されたメール、改ざんされた画像、隠蔽された通話記録。彼女はそれらを復元し、真実を暴いてきた。

 カメラを換気口の奥に固定する。角度を微調整し、ベッド全体が視界に収まることを確認する。スマートフォンの画面には、青白い映像が映し出される。眠る夫の姿。穏やかな寝息。

 香織は脚立を降り、スマホの画面を見つめた。

「ごめんね、拓也……」

 小さな声が、闇に溶ける。

「でも、もう二度と……」

 言葉の続きは、喉の奥で消えた。


第一章 五年前の雨

 香織が最後に妹の声を聞いたのは、五年前の九月十五日。台風が関東に接近していた夜だった。

『お姉ちゃん、助けて』

 電話の向こうで、美咲は泣いていた。

『誰かに見られてる。ずっと、ずっと……ついてくるの』

「今どこにいるの?」

『駅の近く……でも、どこだか……怖い、お姉ちゃん』

「落ち着いて。警察に電話した?」

『したけど、証拠がないって……でも本当なの。信じて』

「信じてる。今すぐそこに行くから、人の多いところにいて。コンビニとか──」

 そこで通話が途切れた。

 香織は傘も持たずに家を飛び出した。タクシーを拾い、美咲が住む練馬のアパートへ向かった。雨は激しさを増し、視界を奪っていく。

 着いたとき、美咲のアパートの前には、既にパトカーと救急車が停まっていた。

 美咲は、マンションの非常階段から転落していた。

 警察の見解は「事故」。雨で足を滑らせたのだろう、と。ストーカー被害の訴えについては「証拠不十分」として記録にすら残らなかった。

 香織は食い下がった。現場検証を要求し、防犯カメラの映像解析を依頼した。だが、管轄の警察署は取り合わなかった。

「お気持ちは分かりますが、ご遺族の方が冷静さを欠かれると、捜査の妨げになります」

 若い刑事は、そう言った。

 冷静さを欠いている?

 香織は自分が専門家であることを伝えた。証拠の扱い方も、捜査手順も熟知していると。だが、刑事は困ったような笑みを浮かべただけだった。

「だからこそ、ご自身のことは客観視できないんですよ」

 その言葉が、香織の中で何かを壊した。


第二章 疑念の始まり

 それから五年。

 香織は科捜研を辞め、民間のセキュリティ会社に転職した。企業の内部告発案件や、ハラスメントの証拠収集を支援する仕事。かつての同僚たちは「もったいない」と言ったが、香織には公的機関への信頼が残っていなかった。

 拓也と結婚したのは、三年前。

 彼は穏やかで、誠実で、香織の過去を責めることもなかった。美咲の話をすると、黙って手を握ってくれた。言葉よりも、その沈黙が香織を救った。

 けれど、最近──。

 拓也の帰宅時間が遅くなり始めたのは、三ヶ月ほど前からだ。

「プロジェクトが佳境でさ」

 そう言いながら、彼はスマートフォンを裏返してテーブルに置く。画面を見せたくないときの仕草。香織は、その小さな動作に気づいていた。

 洗濯物から、知らない香水の匂いがした。拓也は香水をつけない。

 LINEの通知が消えている。以前は溜まっていたはずの履歴が、こまめに削除されるようになった。

 些細なこと。すべて、言い訳のできること。

 だが、香織の中で警報が鳴り始めていた。

 それは妹が死ぬ前、美咲が感じていたのと同じ種類の不安だった。

「また疑いすぎてる?」

 鏡の中の自分に問いかける。

「妹のときみたいに……過敏になってるだけ?」

 だが、心の奥底で別の声が囁く。

『あのとき信じていれば、美咲は死ななかった』


第三章 設置

 カメラを設置すると決めたのは、先週の金曜日だった。

 拓也が深夜に帰宅し、そのままシャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。香織が声をかけると、彼は飛び起きるように目を開けた。

「……香織?」

「お疲れさま。シャワー浴びる?」

「いや、いい。もう寝る」

 彼の目は、どこか虚ろだった。怯えているようにも見えた。

 その夜、香織は眠れなかった。隣で寝息を立てる夫を見つめながら、考え続けた。

 拓也は何を隠している?

 それとも、隠しているのは自分の方?

 月曜日、香織は会社の備品倉庫から小型カメラを持ち出した。業務用の証拠収集機材。本来は顧客への貸し出し用だが、社内管理は杜撰だった。

 火曜日、設置場所を検討した。寝室、リビング、玄関。最も情報が得られるのは寝室だ。人は無防備なとき、本性を現す。

 水曜日、カメラの動作テストを行った。問題なし。

 そして今夜、木曜日。拓也が深く眠りについたのを確認してから、香織は行動を開始した。

 天井の換気口にカメラを設置し終えたとき、彼女は深く息をついた。

 これで、真実が分かる。

 それとも──真実など、最初から存在しなかったと知るのだろうか。


第四章 最初の夜

 カメラを設置した夜、香織はほとんど眠れなかった。

 スマートフォンを握りしめ、モニタリングアプリの画面を何度も確認する。青白い映像の中で、拓也は規則正しい呼吸を続けている。

 午前一時。

 二時。

 何も起こらない。

 香織は自分の愚かさを呪った。何をしているんだろう。夫を疑い、監視カメラを仕掛けて。これは犯罪じゃないのか。プライバシーの侵害。信頼の裏切り。

 だが、アプリを閉じることはできなかった。

 三時十七分。

 拓也が動いた。

 突然、上体を起こす。香織は息を呑んだ。隣で寝ているはずの自分の存在を確認することもなく、拓也はベッドサイドのスマートフォンを手に取った。

 画面の光が、彼の顔を青白く照らす。

 拓也の表情は、香織が知っているものとは違っていた。硬く、緊張し、何かに怯えているように見えた。彼は画面を見つめ、素早くメッセージを打ち込む。

 誰に?

 何を?

 香織は自分のスマホから、拓也の様子を凝視した。カメラの解像度では、スマホの画面までは読み取れない。唇の動きもない。ただ、その表情だけが、すべてを物語っていた。

 拓也は、何かを恐れている。

 メッセージを送り終えると、彼はスマホを置き、深く息をついた。そして──

 窓を見た。

 その瞬間、香織の心臓が跳ねた。

 寝室の窓の外、カーテンの隙間に、何かが映った。

 人影。

 ほんの一瞬。0.3秒にも満たない時間。だが、確かに誰かがいた。

 拓也は窓をじっと見つめていた。やがて、ゆっくりとベッドに横たわり、目を閉じた。

 香織は隣で、息を殺していた。

 夫は、何も言わなかった。


第五章 朝食

「おはよう」

 翌朝、拓也はいつもと変わらぬ笑顔で目を覚ました。

「おはよう」

 香織は努めて平静を装った。

 キッチンで朝食を準備しながら、昨夜の映像が頭から離れない。窓の外の人影。拓也の怯えた表情。

「今日も遅くなる?」

「うーん、どうかな。なるべく早く帰るよ」

 拓也はトーストにバターを塗りながら、新聞を読んでいる。いつもの朝。何も変わらない朝。

 だが、香織には分かっていた。

 この男は、何かを隠している。

「最近、疲れてない?」

「ん? まあ、少し」

「無理しないでね」

「ありがと」

 拓也は微笑んだ。その笑顔は、香織が愛した笑顔だった。

 だが、今は違って見えた。

 作り物のように。

 仮面のように。

「じゃ、行ってくる」

 拓也はネクタイを締め、玄関へ向かう。香織は見送りながら、彼の背中を見つめた。

「気をつけて」

「うん。夕飯、楽しみにしてる」

 ドアが閉まる。

 香織は、すぐにスマートフォンを取り出した。

 昨夜の映像を、もう一度確認する必要があった。


第六章 検証

 拓也が出勤した後、香織はリビングのソファに座り、映像を再生した。

 タイムコードは午前三時十七分。

 拓也が起き上がる。スマホを手に取る。メッセージを打つ。

 そして──窓を見る。

 香織は映像を一時停止し、窓の部分を拡大した。カーテンの隙間。暗闇の中に、ぼんやりとした輪郭。

 人の顔。

 いや、顔のようなもの。

 解像度が足りず、詳細は判別できない。性別も年齢も分からない。ただ、誰かがそこにいた。

 香織は映像解析ソフトを起動した。ノイズ除去、コントラスト強調、輪郭抽出。かつて科捜研で使っていた技術を、今ここで使う。

 数分後、画像が鮮明になった。

 窓の外にいたのは──女性だった。

 年齢は三十代後半から四十代。髪は肩まで。表情は暗闇に沈んでいて読み取れないが、こちらを見つめている。

 いや、違う。

 窓を見ているのではない。

 拓也を、見ている。

 香織の手が震えた。

 これは何?

 誰?

 なぜ、深夜三時に寝室の窓の外に?

 そして、なぜ拓也は何も言わなかった?


第七章 疑問

 香織は会社を休んだ。

 リビングで映像を繰り返し見ながら、可能性を検討する。

 仮説1:拓也は不倫している

 窓の外の女性は、愛人。密会の合図か何かで、拓也にメッセージを送った。だが、なぜ窓の外に? 危険すぎる。そして、拓也の表情は恋愛感情というよりも──恐怖に近かった。

 仮説2:拓也はストーカー被害に遭っている

 窓の外の女性は、拓也を付け狙っている。拓也は怯えているが、香織に心配をかけたくなくて黙っている。だが、それなら警察に相談するべきでは?

 仮説3:拓也は何か犯罪に関与している

 窓の外の女性は、共犯者か、あるいは拓也を脅迫している人物。拓也は後ろめたいことがあるから、香織に言えない。

 どれも、しっくりこない。

 それとも──

 仮説4:自分が見落としている何か

 香織は深く息をついた。

 かつて、美咲も同じことを言っていた。

『誰かに見られてる』

 そして、香織は信じなかった。

『ストーカー? 気のせいじゃない?』

 あのとき、もっと真剣に向き合っていれば。

 香織は頭を振った。今は違う。今度は、見逃さない。


第八章 匿名メッセージ

 午後三時。

 香織のスマートフォンが振動した。

 LINEの通知。だが、送信者は「Unknown」。

 登録していない番号からのメッセージ。

 香織は警戒しながら、画面を開いた。

『あなたの夫は嘘をついている。でもあなたも、嘘をついている』

 血の気が引いた。

 誰?

 香織は即座に、送信元の情報を確認しようとした。だが、アカウントは既に削除されている。追跡不可能。

 メッセージの意味は?

『あなたの夫は嘘をついている』

 それは分かる。拓也は何かを隠している。

 だが──

『でもあなたも、嘘をついている』

 私が?

 何の嘘を?

 監視カメラのこと?

 それとも、別の何か?

 香織は立ち上がり、部屋の中を見回した。誰かが見ている。そんな感覚に襲われる。

 窓のカーテンを閉めた。

 だが、不安は消えない。

 誰かが、知っている。

 私が夫を監視していることを。

 そして──私の何かを、知っている。


エピローグ

 その夜、拓也は午後八時に帰宅した。

「ただいま」

「おかえり」

 香織は、いつも通りに夕食を用意した。

 二人で食卓を囲む。会話は弾まない。

「仕事、大変だった?」

「まあね。でも、もうすぐ一段落するよ」

「そう」

 香織は、匿名メッセージのことを話そうか迷った。

 だが、それは自分が監視していることを明かすことになる。

 まだ、その時ではない。

「香織、何か悩んでる?」

 拓也が、箸を止めて尋ねた。

「え?」

「最近、元気ないみたいだから」

「……大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」

「無理しないでね」

 拓也は優しく微笑んだ。

 その笑顔を見て、香織は思った。

 この人は、私を心配している。

 それとも──

 私を欺いている?


 深夜、香織は再びスマートフォンの画面を見つめていた。

 監視カメラの映像。

 拓也は眠っている。

 だが、香織は眠れない。

 窓の外を、何度も確認する。

 誰もいない。

 けれど、感じる。

 誰かが、見ている。

 私を。

 私たちを。

 そして──

 すべてを、記録している。


第1話 了

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