第2話「消えた夫」


第一章 不在

 金曜日の朝、拓也は目を覚まさなかった。

 正確には──ベッドにいなかった。

 香織が目を開けたとき、隣は空だった。シーツは冷たく、そこに誰かがいた痕跡すら薄れている。

「拓也?」

 返事はない。

 バスルームを確認する。いない。リビング、キッチン、書斎。どこにもいない。

 玄関の靴は、昨夜拓也が脱いだビジネスシューズだけが残っている。

 香織の心臓が、早鐘を打ち始めた。

 スマートフォンを手に取り、拓也に電話をかける。

 コール音が響く。一度、二度、三度──

『おかけになった電話番号は、電源が入っていないか、電波の届かない──』

 自動音声が、冷たく告げる。

 香織は監視カメラの映像を確認した。昨夜の記録を早送りで再生する。

 午前零時三十分。拓也が寝室に入ってくる。

 午前一時。就寝。

 午前二時。香織が設置したカメラには、変化なし。

 午前三時──

 画面が乱れた。

 ノイズ。砂嵐。そして、真っ暗。

 映像が途切れている。

 午前五時。映像が復帰。だが、ベッドには香織しかいない。拓也の姿はない。

「何、これ……」

 香織は唇を噛んだ。

 三時から五時の間、二時間。

 その間に、何が起きた?


第二章 通報

 午前十時。香織は最寄りの警察署を訪れた。

 受付で事情を説明すると、刑事課に通された。応対に出たのは、四十代半ばの男性刑事だった。名札には「三島」とある。

「旦那さんが、今朝からいないと」

 三島刑事は、メモを取りながら淡々と尋ねた。

「はい。昨夜は普通に帰宅して、一緒に寝たんです。でも、朝起きたらいなくて……」

「携帯電話は?」

「電源が切れているか、圏外です」

「会社には連絡されましたか?」

「しました。でも、今日は出勤していないと……」

 三島刑事は、香織の顔をじっと見た。その視線には、同情よりも──査定のようなものがあった。

「旦那さん、最近何か悩んでました?」

「……いえ、特には」

「夫婦仲は?」

 香織は言葉に詰まった。

「普通です」

「普通?」

「はい」

 三島刑事は、ペンを置いた。

「奥さん、正直に話してください。旦那さんと何かあったんじゃないですか?」

「何もありません」

「喧嘩とか、金銭的なトラブルとか」

「ありません」

 嘘をついている。

 香織は自覚していた。夫を疑っていたこと。監視カメラを設置したこと。それを隠している。

 だが、言えるはずがなかった。

 言えば、自分が疑われる。

「分かりました」

 三島刑事は、ため息をついた。

「一応、捜索願を受理します。ただ、成人男性の場合、事件性が認められない限り、積極的な捜査は難しい。大抵の場合、自分の意志で出て行ってるケースが多いんで」

「でも──」

「旦那さん、帰ってくるかもしれませんよ。ちょっと頭冷やしたくなる時もありますから」

 三島刑事は、書類を香織に差し出した。

「これに記入してください。あと、旦那さんの写真、後で持ってきてもらえますか」

 香織は、書類を受け取った。

 警察は、信じていない。

 五年前と、同じだ。


第三章 暗号化

 自宅に戻った香織は、すぐに監視カメラの映像を詳しく調べた。

 午前三時に映像が途切れた理由。

 香織はファイルのプロパティを確認する。だが、おかしい。

 ファイルサイズが異常に大きい。

 二時間分の欠損があるにも関わらず、データ容量は通常の倍以上ある。

 香織は映像ファイルをPCに転送し、専門的な解析ソフトで開こうとした。

 だが──

『このファイルは暗号化されています。パスワードを入力してください』

 画面に、プロンプトが表示される。

「暗号化……?」

 誰が?

 いつ?

 香織は、可能性を検討した。

 カメラは自動でクラウドに保存される設定になっている。暗号化がかかっているとすれば、それはクラウド側で行われたか、あるいは──

 誰かが、ファイルにアクセスして、後から暗号化した。

 香織の背筋に、冷たいものが走った。

 カメラのアカウントは、香織しか知らないはず。

 それとも──

 拓也が知っていた?

 いや、それだけではない。

 第三者が、アクセスしている可能性もある。


第四章 柏木

 香織は、かつての同僚に連絡を取った。

 柏木雄一。三十代後半の技術者で、香織が科捜研にいた頃、デジタル解析を共に担当していた。現在は民間のサイバーセキュリティ会社に勤めている。

 午後三時、二人は都内のカフェで落ち合った。

「久しぶり、香織」

 柏木は相変わらずのカジュアルな服装で、ノートPCを抱えて現れた。

「ありがとう、来てくれて」

「電話の感じだと、ただごとじゃなさそうだったから」

 香織は、拓也の失踪と、暗号化された映像ファイルについて説明した。ただし、監視カメラを設置した経緯については曖昧にした。

「つまり、防犯カメラの映像が暗号化されてて、開けないってこと?」

「そう。プロの手口だと思う」

 柏木は、香織が持参したUSBメモリを受け取り、自分のPCに接続した。

「ちょっと見てみる」

 数分間、柏木はキーボードを叩き続けた。画面には、複雑なコードが流れていく。

「……なるほど」

 柏木は、眉をひそめた。

「どう?」

「これ、AES-256って暗号化方式。軍事レベルのセキュリティだ。パスワードなしで解読するのは、ほぼ不可能」

「時間をかければ?」

「スーパーコンピュータ使っても、数十年かかるかもね」

 香織は、拳を握りしめた。

「じゃあ、もう見られないの?」

「いや、待って」

 柏木は、別のウィンドウを開いた。

「ファイルのメタデータを見ると……暗号化がかけられたのは、今朝の午前三時十五分」

「三時十五分……」

 映像が途切れる、直前。

「それと、もうひとつ」

 柏木は、画面を香織に向けた。

「このファイル、編集されてる」

「編集?」

「ああ。元の映像に、別の映像が上書きされてる。しかも、かなり巧妙に」

 香織の心臓が、高鳴った。

「どういうこと?」

「つまり、誰かがオリジナルの映像を改ざんして、別の映像を混ぜ込んでるんだ。プロの手口だよ、これは」


第五章 会社

 夕方、香織は拓也の勤務先であるIT企業を訪れた。

 受付で事情を説明すると、拓也の上司である課長が応対してくれた。五十代の、落ち着いた雰囲気の男性だった。

「奥様、拓也さんのこと、心配ですよね」

「はい……何か、ご存知ないでしょうか」

 課長は、困ったような表情を浮かべた。

「実は、拓也さん、ここ最近少し様子がおかしかったんです」

「様子が?」

「仕事に集中できていないというか……何か悩んでいるようでした」

「何を悩んでいたか、聞きませんでしたか?」

「一度尋ねたんですが、『大丈夫です』と言うだけで……」

 その時、近くにいた若い男性社員が声をかけてきた。

「あの、すみません。拓也さんのこと、少し知ってるかもしれません」

 香織は振り返った。

「教えていただけますか?」

 男性社員は、周囲を確認してから小声で言った。

「拓也さん、最近誰かに脅されてるって言ってました」

「脅されてる?」

「はい。詳しくは教えてくれなかったんですけど……『もし俺に何かあったら、警察に連絡してくれ』って」

 香織は息を呑んだ。

「それは、いつのことですか?」

「一週間くらい前です」


第六章 PCの中

 自宅に戻った香織は、拓也の書斎に入った。

 拓也のPC。普段、香織が触ることはない。だが、今は緊急事態だ。

 パスワードを入力する。拓也の誕生日。

 ログイン成功。

 香織は、ファイルを探し始めた。メール、ブラウザの履歴、ダウンロードフォルダ。

 そして──デスクトップに、見慣れないフォルダがあった。

 名前は「K」。

 香織は、マウスを握る手に力を込めて、フォルダを開いた。

 中には、大量の画像ファイル。

 サムネイルを見て、香織は凍りついた。

 すべて、自分の写真だった。

 自宅での写真。通勤中の写真。カフェで本を読んでいる写真。

 日付を見ると──五年前から、つい最近まで。

 まるで、監視記録。

「これ……」

 香織は、震える手でマウスをクリックした。

 写真を拡大する。

 どれも、香織が気づいていないタイミングで撮影されている。隠し撮り。ストーカーのような──

 いや。

 違う。

 写真の角度、距離感。これは愛情からの撮影ではない。

 観察。記録。監視。

 拓也は、私を──

 監視していた?


第七章 電話

 午後八時。柏木から電話がかかってきた。

「香織、大変だ」

 柏木の声は、緊張していた。

「何?」

「あの映像ファイル、部分的に復号できた」

「本当?」

「ああ。でも……これ、見ない方がいいかもしれない」

「どういうこと?」

 柏木は、ためらうように沈黙した。

「……送る。覚悟して見てくれ」

 数秒後、香織のスマートフォンに映像ファイルが送られてきた。

 香織は、再生ボタンを押した。

 画面には、寝室が映っている。監視カメラの映像。

 だが──

 映っているのは、香織自身だった。

 時刻は、午前三時。

 香織は、ベッドから起き上がり、何かを手に持っている。

 布のようなもの。

 いや、違う。

 ビニール袋?

 香織は、それをクローゼットの奥に隠している。

 動作は、機械的で、まるで──

 夢遊病者のように。

 映像が終わる。

 香織は、スマートフォンを握りしめた。

 これは、何?

 私が、いつ?

 記憶にない。

 まったく、記憶にない。


第八章 クローゼット

 香織は、寝室のクローゼットに向かった。

 扉を開ける。

 服、バッグ、靴。いつもと変わらない。

 だが、映像では──奥に、何かを隠していた。

 香織は、クローゼットの奥に手を伸ばした。

 服をかき分け、壁に手が触れる。

 そして──

 指先が、何か柔らかいものに触れた。

 ビニール袋。

 香織は、それを引き出した。

 黒いゴミ袋。中に、何かが入っている。

 手が震える。

 開けるべきか。

 開けたくない。

 でも──

 香織は、袋を開けた。

 中には──

 衣服だった。

 男性用のシャツ。

 そして、血痕。

 大量の、血痕。


エピローグ

 その夜、香織は警察に電話しようとした。

 だが、できなかった。

 この血痕は、誰のものなのか。

 拓也のものなのか。

 それとも──

 香織は、自分の記憶を疑い始めた。

 あの映像の中の自分は、本当に自分なのか。

 あんな行動を、自分が取ったのか。

 記憶にない。

 まったく、記憶にない。

 だが──

 証拠は、ここにある。

 スマートフォンが振動した。

 匿名のメッセージ。

『見つけたのね。でも、それはまだ序章に過ぎない』

 香織は、部屋の隅に座り込んだ。

 誰かが、すべてを知っている。

 誰かが、すべてを仕組んでいる。

 そして──

 私は、何をしたのか。


第2話 了

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