第2話 媚薬(ハーブティー)を一杯いかが?
(リリス視点:近距離)
あの日、あの「四ノ宮御影」という名の極上の「ご馳走」に遭遇してから、三日が経過した。
リリスのステータスは、相変わらず「空腹」だった。
あの時、頭を撫でられて得た「おやつ」は、確かに一時的な餓死こそ回避させてくれたものの、所詮はおやつ。例えるなら、三日間何も食べていない人間に、角砂糖を一つだけ与えたようなものだ。
焼け石に水。
むしろ、ほんの少しの甘み(エネルギー)を得たことで、リリスの本能的な飢餓感は、より強く、より鮮明になっていた。
「ぐうぅぅ……」
住処にしているボロアパートの一室で、リリスはベッドに突っ伏し、腹の虫の合唱を聞いていた。ハート型の尻尾が、抗議するようにパタパタと畳を叩いている。
屈辱だった。
思い出すだけで、顔から火が出る。
サキュバスが、誘惑対象の人間(しかも同性)に、子犬のように頭を撫でられたのだ。
プライドはズタズタ。魔界の先輩サキュバスたちに知られたら、間違いなく百年は笑いものにされる。
しかし。
プライドがズタズタになろうとも、腹は減る。
そして何より、あの「ご馳走」の、あの濃密な精気の気配を、本能が忘れてくれない。
(なんて……なんて、失礼な女です!)
リリスはベッドから跳ね起きた。
(この私を「はいはい」とあしらい、子供扱いして……! あの余裕、あの態度、絶対に許せません!)
そう、これは復讐だ。
サキュバスとしての誇りを踏みにじられた、当然の報復。
決して、あの極上の精気が忘れられないとか、もう一度撫でてもらいたいとか、そういう本能丸出しの理由ではない。断じて、ない。
……たぶん。
「今度こそ、必ずや……!」
リリスは、部屋の隅に積まれたトランクの一つを開けた。
中から取り出したのは、数百年の埃をかぶった、分厚い革張りの本。
これこそ、リリスが絶対の信頼を置く知識の源泉。
魔界歴二千五百年(人間界のいつ頃かは知らない)に発行された、伝説の魔道書――『実践・サキュバス誘惑術大全(改訂版)』である。
リリスは、この聖典(バイブル)を、唾を飲み込みながらめくった。
「『魅了の魔眼』が効かない相手には……ふむふむ……」
前回の失敗(失敗と認めたくはないが)を踏まえ、対策を練る。
魔眼は、相手の理性を麻痺させる高等魔術だ。
しかし、あの御影という女は、あの切れ長の目でリリスの魔眼を真正面から受け止めても、まったく動じていなかった。
(つまり、あの女……御影は、相当に理性が強いタイプです!)
リリスは(間違った)分析に頷く。
ならば、理性に訴えかけるのではなく、もっと直接的に、本能に作用する魔術が必要だ。
パラパラとページをめくる。
「……これです!」
リリスの目が、ある項目に釘付けになった。
第三章、『薬草と魔術による本能の解放』。
――すなわち、「媚薬」である。
魔道書によれば、特定のハーブと魔力を組み合わせることで、どれほど理性的で貞淑な人間であろうと、本能の獣へと変貌させる究極の秘薬が作れるという。
「これです! これしかありません!」
理性が強いなら、その理性を内側から破壊すればいいのだ。
なんという完璧な作戦。
リリスは、自分の(魔道書頼りの)知性に打ち震えた。
さっそく、材料集めだ。
魔道書に書かれた材料は……「月光草(げっこうそう)」「恋する乙女の涙(の結晶)」「千年竜の鱗(の粉末)」……。
「……全部、人間界にはありません」
開始五秒で、作戦が頓挫した。
リリスはうなだれた。
だが、そこで諦めるポンコツサキュバスではない。
彼女は『誘惑術大全』の隣に置いてあった、もう一つの知識源――人間界で最近手に入れた『禁断のハーレム魔王様』というタイトルのえっちなマンガを手に取った。
「この世界では、こういうもので代用しているはず……!」
漫画の中では、主人公が「そこらへんの薬草」を煎じてヒロインに飲ませ、即座に誘惑を成功させていた。
(そうだ! 大事なのは形(かたち)ではなく、魔力を込める「心」です!)
リリスは、近所のスーパーマーケットへと走った。
数時間後。
リリスは、大学のキャンパスにいた。
手には、水筒(魔法瓶)が握られている。
中身は、リリスが丹精込めて(そしてなけなしの魔力を込めて)煎じた、特製の「媚薬」だ。
カモミール(月光草の代用)、紅茶(恋する乙女の涙の代用:色が似ている)、そして生姜(千年竜の鱗の代用:刺激が強そう)を煮詰めた、渾身の一杯。
はっきり言って、ものすごくマズそうな、
だが、魔道書とマンガの知識が融合したこの秘薬、効かないはずがない。
(大丈夫、飲めばわかります。飲めば、あの天才も、私の虜に……!)
リリスは、昨日御影を見かけた場所――講義棟の近くへと向かった。
幸運にも、彼女はいた。
例のベンチで、一人、分厚い専門書を読んでいる。
リリスは、空腹で鳴りそうになるお腹を押さえ、深呼吸し、今度こそ完璧な淑女の歩調で(内心はフラフラだが)彼女に近づいた。
---
(御影視点:中距離)
講義が一つキャンセルになり、時間が空いた。
四ノ宮御影は、ベンチで次のゼミの予習をしていた。読んでいたのは、さっきPsyArXiv(サイアーカイブ)で見つけた『Machine Learning Facial Emotion Recognition in Psychotherapy Research』(心理療法研究における表情・マイクロエクスプレッションの機械学習による自動認識を扱った)という論文だ。
集中していると、ふと、奇妙な気配がした。
顔を上げる。
視線の先。
ああ、またいた。
三日前の、あのコスプレの子だ。
コウモリの羽と、ハート型の尻尾。
よほどお気に入りなのか、今日も律儀に(?)その格好をしている。
しかし三日前よりも顔色がさらに悪い。
その瞳だけは、獲物を前にした(ものの、自分が食べられそうな)小動物のように、ギラギラと、そしてウルウルと潤んでいた。
御影は、論文から目を離し、小さく息をついた。
(また来た。面白いなあ)
今度は、何をしてくれるんだろうか。
御影は、この非日常的な来訪者を、少しだけ楽しみにしている自分に気づいていた。
---
(リリス視点:近距離)
目が、合った。
あの、すべてを見透かすような、切れ長の目。
リリスは、また頭を撫でられるのではないかと、一瞬期待した。もとい身構えた。
だが、今日の私は違う。
手には、最強の「武器」があるのだ。
「こ、こんにちは、です! 四ノ宮御影さん!」
名前を呼んだ。完璧な発声。よし、声は裏返っていない。
御影は、少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの体温の低い笑みを浮かべた。
「こんにちは。コスプレの子。……私の名前、知ってるんだ?」
「(コスプレじゃありません!)」と叫びたいのを堪え、リリスは練習してきた笑みを浮かべる。
「わ、私、天野リリスと申します! あの……これ、もしよろしければ!」
リリスは、水筒をずい、と差し出した。
「喉が渇いていらっしゃるかと思いまして。私が特別に煎じた、ハーブティーです」
そう、ハーブティー。
いきなり「媚薬です」と言って警戒されては、元も子もない。
まずは飲んでもらう。それが最優先事項。
リリスの計画は「完璧」だった。
御影は、リリスの顔と水筒を、数秒間、観察するように見比べた。
その視線が、痛い。
嘘がバレている? いや、バレるはずがない。
(世知辛い人間界では「知らない人にもらった飲み物食べ物は口しないほうがいい」という知識をリリスは寡聞にして知らなかった)。
やがて、御影は「ふうん」と頷いた。
「ハーブティーだね。ありがとう」
御影は、あっさりと水筒を受け取った。
(よ、よし! 第一関門突破です!)
御影は、水筒の蓋を開けると、中身の匂いを、くん、と嗅いだ。
その瞬間、彼女の眉が、ほんの僅かにピクリと動いたのを、リリスは見逃さなかった。
(効いてきた!? さすがは私の秘薬!)
リリスが勝利を確信しかけた、その時。
「リリ、だっけ」
「(リリ!?)……は、はい!」
「これ、本当にハーブティー?」
御影の声は、相変わらず気さくだ。
だが、その目には、昨日までの「小動物を愛でる目」とは違う、「分析者の目」が光っていた。
「そ、そうです! 体が温まる、特別なブレンドです!」
リリスは、必死に笑顔を貼り付けた。
(お願い、飲んで、早く飲んでください!)
しかし、御影は飲む素振りを見せず、もう一度、匂いを嗅ぐと、静かに言った。
「カモミールと、紅茶の茶葉と……あと、生姜(ジンジャー)か。ずいぶん、独創的なブレンドだね」
「(なっ!?)」
リリスは絶句した。
匂いだけで、中身を完璧に当てられた。
(こ、この女……ただの天才じゃない!?)
御影は、水筒の蓋を閉めると、リリスに視線を戻した。
その目は、笑っていなかった。
「リリ。君がこれを『媚薬』のつもりで作ったんなら、残念だけど」
「―――!?」
心が、凍り付いた。
目的までバレている。
なぜ? どうして?
「このブレンドじゃ、効果は期待できないよ」
「な、何を……! こ、これは、魔道書に伝わる、誰でも絶対堕ちる秘薬でして……!」
しどろもどろになるリリスに、御影は、やれやれというように首を振った。
「魔道書ね。……リリ、一つ聞くけど、その『媚薬』の効果を裏付ける、エビデンスは?」
「……え?」
リリスは、思考が停止した。
今、なんと言った?
「え……えび? えび、です?」
海の幸? あの美味しいやつ? なぜここで海老?
リリスのポンコツな頭が、フル回転で(空回り)答えを探す。
御影は、リリスのその反応を見て、今日初めて、本気で楽しそうに、ふっと笑った。
「エビデンス。科学的根拠(サイエンティフィック・エビデンス)のこと。……まあ、いいや」
御影の、アカデミックなスイッチが入った。
「まず、カモミール。これは鎮静作用が主だね。リラックスはするけど、性的興奮には繋がりにくい。むしろ眠くなる」
「ふぇっ!?」
「次に、紅茶。こちらはカフェインによる覚醒作用はあるけど、それはコーヒーでも同じ。これを『恋する乙女の涙』の代用にするのは、象徴的意味(シンボリズム)としても弱い」
「うっ……」
「極め付けは、生姜。確かに血行促進作用はある。ジンゲロールとショウガオールだね。でも、これを『媚薬』レベルの興奮剤として扱った臨床データは、信頼できるものが存在しない」
御影は、まるで大学の講義でもするように、淡々と、しかし容赦なく、リリスの「武器」を
「その魔道書がいつのかは知らないけど、その処方、たぶんプラセボだよ」
「ぷ、ぷらせぼ……?」
「思い込みの効果。病は気から、みたいな。君が『これは媚薬だ』って強く信じて、それを飲んだ相手も『これは媚薬かも』って信じたら、少しは効果があるかもね、ってレベル」
御影は、水筒をリリスに差し返した。
「私、小学生の頃、夏休みの自由研究で、世界中の恋愛魔術と性愛呪術を一冊にまとめたことがあるんだけど、今度、実家から送ってもらって貸してあげるね。……そうだな。おすすめは、南アフリカやボツワナで作られてる「コロベラ」かな。
(リリス視点:近距離)
頭が、真っ白になった。
いや、沸騰した。
回路が、焼き切れた。
プライドを賭けて。
なけなしの魔力を込めて。
スーパーで一番いい生姜を選んで。
作った、渾身の秘薬が。
えびでんす?
ぷらせぼ?
意味は分からない。
分からないが、これだけは分かった。
私の誘惑は、またしても、完璧に、木っ端微塵に、失敗したのだ。
それも、前回のような「あしらわれた」レベルではない。
「知的」に、「合理的」に、完膚なきまでに、「論破」されたのだ。
「う……」
空腹と、絶望と、羞恥で、もう立っていられなかった。
視界が、ぐにゃりと歪む。
ぽろり、と。
サキュバスの(ポンコツな)目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「う、うわぁぁぁぁぁん! なんでですか、もぉぉぉ!」
もう、プライドも何もない。
リリスは、その場にしゃがみ込み、子供のように泣きじゃくった。
ハート型の尻尾が、べしゃり、と地面に張り付いている。
(ひどいです! 私の努力を! 魔道書を! えびでんすとかぷらせぼとか、訳のわからない言葉で!)
---
(御影視点:中距離)
あー。
泣かせた。
御影は、しゃがみ込んで泣きじゃくる小さな背中(羽としっぽ付き)を見下ろし、少しだけ、罪悪感に似たものを感じた。
いや、違うな。
これは、罪悪感じゃない。
(可愛い)
本気で魔道書を信じて、本気で「媚薬」を作ってきて、本気で論破されて、本気で泣いている。
なんて、ピュアなんだろう。
そして、その「絶望」と「羞恥」から発せられる、この、微弱だが甘い気配。
御影は、このコスプレの子――リリスが、人間ではない何かの存在で、「精気」か、それに類する「感情のエネルギー」を求めていることまで、推論でたどり着いていた。。
三日前の「撫でた」時よりも、今、この「絶望」の瞬間に発するエネルギーの方が、質が高い。
だが。
泣かせたままでは、寝覚めが悪い。
それに、何より。
こんなに面白い「おもちゃ」――もとい、「観察対象」を手放す気は、御影にはなかった。
御影は、リリスの前にしゃがみ込むと、三日前と同じように、その頭を優しく撫でた。
「はいはい。泣かないの。ごめんごめん、ちょっと意地悪しすぎた」
「うぅ……ひどい……ひどいです……!」
「うん、ひどいね。ごめん」
泣きじゃくるリリスの顔を、覗き込む。
「でも、リリ」
「……なんですか?」
「頑張って作ったのは、本当なんでしょ? えらいえらい」
その言葉に、リリスの涙が、ぴたり、と止まった。
「……え?」
「私に飲んでほしくて、一生懸命、魔道書(?)読んで、スーパーまで行ったんだよね。その努力は、本物だよ」
リリスの目が、きょとん、と丸くなる。
御影は、その反応が可愛くて、また笑ってしまった。
「それに」
御影は、リリスの涙で濡れた頬に、そっと指を伸ばした。
「そんなに泣くと、お腹、すかない?」
「!」
その一言は、リリスの核心を突いた。
空腹。
そうだ、私は、お腹が空いている。
絶望も羞恥も、空腹の前では二の次だ。
「……すき、ました……です」
リリスが、消え入りそうな声で白状した。
御影は、満足そうに頷いた。
「だよね」
御影は、リリスの顎にそっと手を添え、自分の顔を近づけた。
リリスの、潤んだ瞳が、驚きに見開かれる。
(え? え? な……?)
「媚薬なんかより、こっちの方が、よっぽど合理的じゃない?」
ちゅ、と。
軽く、触れるだけ。
リリスの唇に、御影の、少し冷たい唇が重なった。
---
(リリス視点:近距離)
―――時が、止まった。
唇に、柔らかい感触。
何が起きたか、理解が追いつかない。
キス?
きす、された?
私が? この天才に?
その、思考停止の、刹那。
流れ込んできた。
御影の唇から、リリスの「核」に向かって、奔流のように。
濃密で、甘美で、抗いがたいほどの「
(あ……ああ……!)
これは、「おやつ」じゃない。
角砂糖なんかじゃない。
これは、本物の、「食事」だ。
あの日、遠くから感じた、あの「ご馳走」の本物の味。
空っぽだった胃袋が、いや存在そのものが、急速に満たされていく。
力が、みなぎる。
顔色も、きっと良くなっている。
今なら、なんだってできる、と思えるくらい!
唇が、ゆっくりと離れていく。
御影が、意地悪そうに微笑んでいた。
「……どう? お腹、いっぱいになった?」
リリスは、答えることができなかった。
ただ、満たされた幸福感と、論破された絶望感と、そして、久しぶりの「食事」の衝撃で、頭がぐちゃぐちゃになっていた。
ハート型の尻尾は、今、喜びでちぎれんばかりに、ブンブンと振られていた。
思い知った本物の「食事(キス)」の味。
こんなものを知ってしまったら。
もう、「おやつ」だけの日々には、戻れない。
リリスの、ポンコツなサキュバスとしての(そして、腹ペコな生物としての)本能が、そう叫んでいた。
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