ポンコツサキュバスは天才に論破されて甘やかされています
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第1話 天才はたいへんなご馳走です
(リリス視点:近距離)
ぐう、と。
お腹の奥、そのもっと奥深く。サキュバスとしての「核」が、情けない音を立てて収縮する。
もう、三日ほど、まともな「食事」にありつけていない。
正確には。この現代日本とかいう魔界とは違う世界に来てから、まともに「食事」をした記憶がなかった。
天野リリスはサキュバスである。
男を(あるいは女を)誘惑し、その甘美な精気を吸って生きる、誇り高き魔族のはず、だった。
しかし。
「……す、空きました……」
大学のキャンパスの、そのまた隅にあるベンチで。リリスはうずくまり、ほとんど涙目になっていた。
先端が小さなハート型になった尻尾が、主の空腹と絶望に連動し、力なく地面に垂れている。ぴくりとも動かない。
理由は単純明快。
リリスは、致命的にポンコツだった。
サキュバスとしてのプライドは、魔界で一番高い。それはもう、エベレストよりも(エベレストが何かは知らないけれど)高い自信があった。
知識だって豊富だ。三百年前の魔道書に記された『男を確実に堕とす誘惑術百選』は暗記しているし、五十年前の『淑女のための悩殺ポーズ集』だってマスターした。
それなのに、だ。
実践が、まるでダメだった。
誘惑しようと目を合わせれば、緊張で声が裏返る。
悩殺ポーズを決めようとすれば、必ず足がもつれて転ぶ。
練習したキザなセリフを言おうとすれば、途中で恥ずかしくなってむせる。
結果、ここ数百年、リリスが得られた「精気」は、ゼロ。
ゼロである。
誇り高きサキュバスが、餓死寸前。なんという屈辱。なんという失態。
魔界では「あの子、また転んでるわ」「可愛いけど、サキュバスは無理じゃない?」と散々な言われようだった。
もう、魔界にはいられない。
この屈辱を雪ぐため、そして何より、この本能的な空腹を満たすため。
リリスは一念発起し、精気の「質」より「量」を求めて、人間界――それも、人が飽和しているという、この日本とかいう島国にやってきたのだ。
「……それなのに、です」
人間は、確かに多い。
だがしかし。リリスは根本的な勘違いをしていた。
ここの人間たちは、魔界の住人より、遥かに「誘惑」に慣れていない。
リリスが(ポンコツなりに)勇気を振り絞って誘惑の言葉を口にしようものなら、「え、なに? 宗教の勧誘?」「ごめんバイトあるから」と、塩を撒かれる勢いで逃げられる。
誘惑以前の、コミュニケーション不全。
質の低い精気すら、吸うことができない。
これならば、まだ魔界にいた方が良かった。
魔界なら、誰かから「精気」を吸わなくても、魔界自体に遍在する魔力からエネルギーを摂取できる(でないとまだ「精気」が吸えない子どもが大きくなれない)。
しかし、いつまでもそれに頼っているのは、一人前でないということだ。
リリスはずっとこのまま(ポンコツのまま)誰かの「精気」を吸うことなく、生きるしかないと諦められていた。
だからこその出奔。だからこそやってきた、この島国なのに。
未だ戦果ゼロ。
もうダメだ。
いっそ、このままベンチで塵になって消えてしまおうか。
プライドも誇りも、空腹の前では意味がない。
視界が、霞んできた。ああ、これがサキュバスの最期……。
――その、瞬間だった。
ふわり、と。
それまで感じたことのない、濃密で、甘く、そして驚くほどに「上質」な気配が、鼻先を掠めた。
「……!?」
リリスは、餓死寸前の獣が獲物を見つけたかのように、顔を跳ね上げた。
視界の霞みが、嘘のように晴れる。
いた。
ベンチから少し離れた、講義棟へ向かう石畳の上。
そこに、一人の人間が立っていた。
女の人、だ。
すらりと背が高い。モノトーンのシャツワンピースが、やけに知的に見えた。
切れ長の目。ミステリアス、という陳腐な言葉では足りないほどの、静かな存在感。
周囲には、他にも大勢の学生たちが歩いている。
なのに、彼女だけが、まるで別の空間にいるかのように際立っていた。
「……ご、ご馳走……です」
リリスは、よだれが出そうになるのを必死で堪えた。
間違いない。
あれは、一級品だ。
そこらの人間が「ファミレスのランチ」だとしたら、あれは「魔界の王族しか口にできない満漢全席」レベルの(満漢全席が何かは知らないけれど)、極上の精気。
あれを、あれを一口でも吸えたなら。
きっと、百年は飢えに苦しむことはないだろう。
垂れていたハート型の尻尾が、ぴん、とアンテナのように天を向いた。
空腹は、消えていない。
だが、今は「空腹」よりも「期待」が勝っていた。
リリスはベンチから立ち上がると、フラフラする足を叱咤し、本能のままに「ご馳走」へと歩み寄った。
彼女は、どうやら誰かと待ち合わせをしているらしかった。
時折、スマホ(という板)に目を落としては、小さくため息をついている。
その仕草すら、なぜか絵になる。
「あ、いた! 四ノ宮せんぱーい!」
リリスが声をかけるより先に、別の学生(男)が彼女に駆け寄った。
「四ノ宮……御影、先輩。すみません、遅れました!」
「ん。大丈夫だよ」
四ノ宮御影、と呼ばれた彼女は、気さくに、しかしどこか体温の低い声で答えた。
「それより、レポートの件だっけ。こないだの催眠実験の」
「そうです! あの、先輩のレポート、意味が分からなすぎて……。天才の考えてることは違いますね!」
「別に天才じゃないよ。ただの事実。……じゃあ、行こっか」
しのみや、みかげ。
催眠。天才。
リリスは、その単語を頭の中で反芻した。
(天才……! やはり、ただ者ではありませんでしたわ!)
リリスの古い魔道書知識によれば、「天才」や「秀才」と呼ばれる人間の精気は、そうでない人間のものより、遥かに栄養価が高いとされている。
大当たりだ。
リリスは、自分の幸運に打ち震えた。
(これはもう、天が、いえ、魔王様が私に与えた試練であり、ご褒美!)
あの男が去り、御影が一人になる瞬間を待つ。
幸い、チャンスはすぐに訪れた。
レポートの話はすぐに終わり、男は深々と頭を下げて去っていった。
御影が、再び一人になる。
今だ。
今しかない。
リリスは、震える足で一歩を踏み出した。
大丈夫。私はサキュバス。誘惑のプロ。
空腹で力が出ない? 関係ない。本能が、あの「ご馳走」を求めている。
リリスは、御影の目の前に、堂々と(実際はフラフラと)立ちはだかった。
---
(御影視点:中距離)
後輩との話を終え、さて次の講義棟へ向かおうかと思った、その時だった。
目の前に、小さな「何か」が立ちはだかった。
四ノ宮御影は、足を止めた。
視線を、ほんの少し下げる。
そこにいたのは、小柄な女の子だった。
いや、女の子、でいいのだろうか。
服装が、まずおかしい。露出度の高い、一昔前のファンタジー作品に出てきそうな、黒い革の衣装。
そして、何より。
背中から、小さなコウモリの羽が生えている。
お尻からは、先端がハート型になった、細い尻尾が伸びていた。
コスプレ、だろうか。
だとしたら、ずいぶんとクオリティが高い。尻尾などは、どういう仕組みか、ぴんと緊張したように立っている。
御影は、その非日常的な存在を、冷静に観察した。
顔色は、ひどく悪い。目の下には隈。フラフラしている。
だが、その瞳だけは、妙な熱量に満ちていた。
まるで、飢えた小動物が、必死に餌をねだるような。
「完璧なコスプレ」&「余裕のまるでない小動物」
面白い。
御影は、少しだけ口角を上げた。
---
(リリス視点:近距離)
目の前の「ご馳走」が、私を見ている。
見透かすような、切れ長の目。
値踏みされている? 違う違う、今は私が「値踏み」する番のはず!
リリスは、ここ数百年でほとんど枯渇した、なけなしのプライドを総動員し、けなげな胸を張った。
(ここで失敗したら、今度こそ餓死……!)
緊張で、心臓がうるさい。
だが、やるしかない。
「あ、あの……!」
声が、裏返った。
(ち、違います! 今のはナシです!)
リリスは咳払いし、練習してきたキザなセリフを、必死に絞り出した。
「わ、私……! 今宵、あなたを誘惑しにきました!」
言った。
言いきった。
さあ、どうだ。このサキュバス、天野リリスの魅力に驚くがいい。
リリスは、この日のために練習してきた奥義――「魅了(チャーム)の魔眼」を発動した。
目に、ありったけの「色気」を込める。
(これで、あなたは私の虜……!)
リリスの瞳が、妖しい光を(本人的には)放つ。
目の前の天才は、その視線を、まっすぐに受け止めた。
数秒の、沈黙。
リリスの心臓が、破裂しそうに鳴っている。
やがて、御影は、ふう、と小さく息をついた。
「ん」
御影は、気さくに、しかし何の感情も読み取れない声で、言った。
「はいはい。誘惑ね。わかったよ。完全に理解した」
「……え?」
リリスは、固まった。
(え? はいはい?)
おかしい。
魔道書によれば、「魅了の魔眼」を受けた人間は、即座に我を忘れ、サキュバスのしもべとなるはず。
「リリス様、どうか私を!」とかなんとか言って、跪くはずだ。
それなのに、なんだ、この反応は。「はいはい」? まるで、子供の「おままごと」に付き合うような、そんな口調。
リリスが混乱でフリーズしていると、御影の、すっとした手が伸びてきた。
「ひゃっ!?」
その手が、リリスの頭に、ぽん、と置かれた。
そして。
くしゃ、くしゃ、と。
まるで、道端で出会った子犬か子猫でも愛でるかのように、優しく、しかし容赦なく、頭を撫でられた。
「えらいえらい。頑張ったね」
「……ふぇっ!?!?」
リリスは、今度こそ素っ頓狂な声を上げた。
(な、撫でられて……!? わ、私が!? 誘惑したのに!?)
プライドが、粉々に砕け散る音がした。
あまりの羞恥と混乱に、顔がカッと熱くなる。
尻尾が、期待の「直立」から、混乱の「疑問符(?)」の形に、ぐにゃりと曲がった。
だが、その瞬間。
頭を撫でられている、その手のひらから。
じわり、と。
微弱だが、確かに「エネルギー」が流れ込んできた。
精気、ではない。
もっとずっと薄味で、栄養価の低い……そう、「
「あ……」
餓死寸前だった体に、ほんの少しだけ、力が戻る。
(さすが天才さん。スナックでもこの濃度!)
今すぐ死ぬことは、なさそうだ。
でも飢えは満たされない。
誘惑は、完璧に失敗した。
サキュバスとしてのプライドは、ズタズタに引き裂かれた。
それなのに。
頭を撫でる手が、不思議と温かくて、心地良い。
リリスは、訳が分からないまま、御影の顔を見上げた。
御影は、やはり体温の低い顔で、小さく微笑んでいた。
「じゃあね。講義あるから」
それだけ言うと、御影は、満足したようにリリスの頭から手を離し、すたすたと講義棟の方へ歩いて行ってしまった。
一人、石畳の上に取り残される。
リリスは、呆然と、その背中を見送った。
頭には、まだ御影の手の感触が残っている。
流れ込んできた「
ハート型の尻尾は、力なく地面に垂れていた。
「……な、なんなの?……あの人……」
空腹は、相変わらずだ。
でも、餓死は免れた。
そして、何より。
(あんな「おやつ」で、この私を誤魔化せると思ったら、大間違いです!)
リリスは、拳をぎゅっと握りしめた。
(次こそ、次こそ、あの「ご馳走」……四ノ宮御影を、完璧に誘惑して、丸ごと頂いてみせます!)
天才をどう堕とすのか?
ポンコツなサキュバスの、プライドを賭けた(そして空腹を満たすための)挑戦が、今、始まった。
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