マスターキー

sohemiya

第1話

私がそのホテルの前に立ったのは、木曜日の夜十時過ぎだった。ポケットには昼間買ったサンドイッチのレシートと、三日前から吸っていない煙草が入っている。街灯が一つ、蛾を集めて震えていた。


ホテルは廃墟だった。


剥がれた外壁。割れた窓ガラス。錆びた雨樋から、昨日の雨がまだぽたぽたと落ちている。看板は朽ち、文字は読めない。誰がどう見ても、十年は放置された建物だ。


だが私は知っている。ここには**マスターキー**が存在することを。


その知識が、私の足を止めていた。アスファルトに落ちた雨水が、街灯の光を反射している。水たまりの中に、蛾が一匹落ちて溺れかけていた。私は靴の紐を結び直した。別に緩んではいなかったが。


そのとき、背後から足音が聞こえた。


振り返ると、五十代くらいの男が歩いてくる。紺色のジャンパー。少し禿げた頭。ごく普通の、どこにでもいる中年男性。彼は私を一瞥することもなく、廃墟であるはずのホテルへまっすぐ向かった。


私は息を止めた。


男はためらわない。彼には何が見えているのだろう。私には廃墟にしか見えない建物へ、彼は迷いなく近づいていく。


男が入口に近づいたとき、内部で何かが動いた。


階段を降りてくる音。革靴の音。規則正しく、ゆっくりと。そして――現れた。


黒いスーツの男。年齢不詳。髪は完璧に撫でつけられ、白い手袋をはめている。彼は階段の下で立ち止まると、微笑んだ。唇だけの、目の笑っていない微笑み。


「いらっしゃいませ」


声が聞こえたような気がした。風に乗って。あるいは私の想像。


私は物陰に身を隠した。自動販売機の横。コーヒーとコーンポタージュのボタンが、赤く光っている。私のジャケットのポケットに、百円玉が三枚入っていた。それがカチャカチャと音を立てる。私は息を殺した。


マスターと呼ばれているのだろう、黒服の男は、中年男性の前に立った。そして――


跪いた。


ゆっくりと、優雅に、まるでバレエのような動作で。彼は地面に膝をつき、中年男性の足元へ顔を近づけていく。男は少しよろめいた。壁に手をついた。その手が震えている。


マスターは男の靴を脱がせた。片方、そしてもう片方。靴下も。素足が夜気に晒される。男の指が、無意識に縮こまる。


そして――舐めた。


右足の親指から。ゆっくりと、丁寧に。一本一本。指の間も。男は目を閉じた。恍惚とした表情。喉が震えている。息が荒い。


私は吐き気を覚えた。


いや、違う。吐き気ではない。もっと別の何か。理解できない感情。嫌悪と羨望が入り混じった、名前のない感情。


儀式は五分ほど続いた。


マスターが立ち上がる。男に何かを差し出す仕草。だが私には見える。彼の手のひらには、何もない。空気。虚無。


男は両手で、それを受け取った。


「ありがとうございます」


男の唇が動く。そして彼は、受け取ったはずの何かを、ポケットに入れた。満足げに。確かな手応えを感じているように。


男はホテルの中へ消えていった。廃墟の中へ。マスターはしばらくそこに立っていたが、やがてゆっくりと階段を上り、闇に溶けていった。


静寂。


蛾はまだ街灯の周りを飛んでいる。水たまりの中の蛾は死んでいた。私のポケットの百円玉が、体温で温まっている。


私は壁に背中を預けた。コンクリートの冷たさが、シャツ越しに伝わってくる。空を見上げた。星はない。都会の空は、オレンジ色に濁っている。


どれくらいそうしていただろう。


別の客が来た。今度は若い女性。ハイヒールの音が、夜の路地に響く。彼女もまた、何も疑わずホテルへ向かう。


マスターが再び現れる。


同じ儀式。跪き、靴を脱がせ、足の指を舐める。女性は小さく喘ぐ。そして空気を受け取り、中へ入っていく。


また別の客。老人。


また別の客。学生らしき男。


また別の客。スーツ姿の女性。


全員が同じように。疑わず。受け取り。入っていく。


私はまだ壁に背中を預けたまま、見ている。ただ見ている。


時計を見た。十一時を回っていた。


自動販売機が、低い音を立てて冷蔵庫のモーターを回している。コーヒーのボタンが点滅を始めた。売り切れの表示。ポケットの百円玉を握りしめた。手のひらに汗が滲む。


私は歩き出していた。


自動販売機から離れる。百円玉がポケットで鳴る。靴が水たまりを踏む。小さな波紋。死んだ蛾が揺れる。


ホテルの入口へ。


廃墟の入口へ。


マスターが、再び階段を降りてくる。黒いスーツ。白い手袋。彼は私を見る。そして、何かを悟ったような表情を浮かべる。


彼は何も言わない。ただ、首を横に振る。ゆっくりと。


私は立ち止まる。


マスターは私を見続けている。その目に、哀れみのようなものが浮かんでいる。


私は口を開こうとした。何かを言おうとした。だが声にならない。


風が吹く。街灯が揺れる。蛾が舞う。


マスターは踵を返し、階段を上り始める。


「待って」


私の声。


マスターは振り返らない。ただ、階段の途中で止まる。


「入りたい」と私は言った。


「入れません」


低い声。断定。


「なぜ」


「あなたは知っていない」


沈黙。


私のポケットの煙草が、ふと重く感じられた。三日前から吸っていない煙草。それを吸いたいと思った。今すぐに。この瞬間に。


だが私の足は、もう動き始めていた。


一歩。


マスターは階段の上から、こちらを見下ろしている。


もう一歩。


敷居が近づく。コンクリートの境界線。


私の靴の先が、その線に触れる。


マスターの目が、わずかに見開かれた。


私は、最後の一歩を――

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