第2話山寺の少女
黄鬼のもとへ向かうアオだったが、なるべく人目を避けるように、山から山へと渡り歩いていた。
昼は岩陰に身を潜め、夜は月を頼りに進む。
谷の霧は白く、風は冷たく、落ち葉がしっとりと足もとに貼りついた。
そんなある夕暮れ、木々のあいだから、ぽつんと建つ古びたお堂が見えた。
屋根は苔むし、板戸は裂け、風が吹くたびギィ……と悲しげな音を立てている。
「今日は、ここで休ませてもらおう」
アオはそっと戸を開け、堂内に足を踏み入れた。
中は薄暗く、長年の香の名残がかすかに漂っている。
目を凝らすと、中央に大きな竹籠がひとつ、ぽつんと置かれていた。
不思議に思い、近づいて蓋をそっと開けてみると――
そこには、まだ幼い女の子が、すーすーと寝息を立てて眠っていた。
「……なんで、こんなところに?」
アオは思わず眉をひそめた。
着物は薄汚れ、頬はこけ、髪には枯れ葉が絡んでいる。
誰かに置き去りにされたのか、それとも――逃げてきたのか。
そのとき。
パチ、と小さな音がして、少女の瞼がゆっくりと開いた。
透きとおるような黒い瞳が、闇の中でまっすぐアオを見つめる。
「……鬼さん、なの?」
アオは一瞬、息を呑んだ。
泣き叫ぶかと思った。逃げ出すかと思った。
だが少女は怯えるでもなく、ただ不思議そうに問いかけている。
アオは、口の端を少し上げて言った。
「……まぁな。そうだ、鬼だ」
少女は目を伏せ、小さな声で続けた。
「鬼さん……わたしを、食べるの?」
アオは目を丸くして、慌てて両手を振った。
「食べるだって!? な、何をバカな――!」
声が思わず大きくなった、その瞬間。
アオの耳が、ピクリと動いた。
――何か、いる。
山の夜気の奥で、微かな足音が混じった。
重く、ぬめるような気配。
まるで湿った獣が、地を這っているかのようだ。
アオは即座に少女の肩に手を置き、口に指を当てた。
「……静かにしてろ。何かが来た」
少女は怯えながらも、小さくコクンと頷いた。
お堂の外で、ざり……ざり……と、何かが這う音がする。
風ではない。獣でもない。
音のたびに、土の匂いと腐れた葉の臭気が押し寄せた。
お堂の柱が、わずかにきしむ。
火の気も灯りもない闇の中で、アオの瞳だけが、かすかに光った。
――どうやら、“休む”どころではなさそうだ。
籠の陰に身を隠し、息を潜める。
静かに戸が開き、気配だけがするりと入ってきた。
――人間……なのか?
アオの嗅覚は、人のそれとは比較にならないほど、発達している。
気配は、明らかに人の気配だが匂いは、まるで肉食獣のような獣臭を発していた。
人の皮を着ていながら、血と腐った
戸の前に立っていたのは、獣ではなかった。
だが、もはや人でもなかった。
肉の気配だけが濃く、瞳の奥には空洞が広がっていた。
それは、辺りを警戒する素振りも見せず、無造作に籠の蓋を開ける
――その刹那、アオが飛び出し――その腕を掴みねじりあげる。
「あああぁぁぁ! 痛てぇ! 」
――やはり……人間だ、だとすればこの獣臭は?……まさか。
アオは、ねじりあげた腕を少し緩めて、聞いた。
「お前、なにもんだ?」
コイツは、なんの警戒もせずに籠の蓋を開けた、中身を知っていた……少女が入っていることを。
「へっ、俺は鬼だよ」
「鬼」と名乗った男は、人間でありながら鬼に成り果てた存在。
人を喰うことで生き延びている――その匂いが「獣臭」。
少女は、次の餌だった。
「ふもとの村のヤツらは、生贄を捧げて自分達が食われないようにしてるのさ、俺はそれを食べるだけだよ」
アオは男の胸倉を掴み上げた。
「ふざけるな……それが“鬼”だってのか」
男は口角を吊り上げ、血のような笑みを浮かべた。
「何が違う? お前らも人を喰ってたんだろ?
俺はただ、生きてるだけさ。
人を喰わなきゃ、俺が死ぬんだ」
「違う!オレ達は、オレは、人を食わなくても生きていける、お前もそうだろうが!」
怒号が、堂の中の闇を裂いた。
女の子がびくりと肩を震わせる。
アオの手に力がこもり、男の喉から掠れた声が漏れた。
「……俺たちはな、人を襲わねぇように牙を研ぐのをやめた。
爪を隠して、山に籠もった。
お前ら人間が、怖がらねぇように――」
アオの目が細く光る。
「なのに今は、人間が“鬼”を名乗って人を喰うのか」
男は苦しげに笑った。
「お前らがいなくなったからさ。
人は、鬼の役をやるしかなくなったんだよ」
アオはしばらく黙っていた。
外では風が唸り、屋根の苔がぱらりと落ちる。
やがて、ゆっくりと手を放した。
「……違うな。
お前は鬼の真似をしてるんじゃない
お前は、人でも鬼でもねぇ、ただの人喰らいだよ」
男の目が見開かれる。
その刹那、闇の中でアオの拳が閃いた。
鈍い音が響き、男の体が後ろへ吹き飛ぶ。
戸板が割れ、夜気が一気に流れ込んだ。
アオは女の子の手を取る。
「行くぞ。ここはもう腐ってる」
少女は何も言わず、ただアオを見あげ、両手でアオの手をぎゅっと握る。
外の風が冷たい。
月が、山の向こうに沈もうとしている。
その向こうに――黄鬼の棲む山があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます