初雪の記憶


 街中で煌めくイルミネーションを見て、まだ少し早いんじゃないかなと思うのと同時に、これを用意した大人たちが逸るように足踏みしながらこの光の装飾を用意している様子を想像して自然と頬が緩んだ。


 稚拙な勇み足は、時々この世界が醜悪で、理不尽に塗れていることを忘れさせてくれる。都合のいいことばかりで、ポジティプな妄想が全部現実となり、今朝見た占いの通りにハッピーアイテムを持ち寄って、心配してたことが泡が弾けるように解決して重荷が降りる。


 そんな良い日が、もしかしたら今後あるのかもしれないし、その良い日が今日なのかもしれない。


 クリスマスが近づいてきた、12月のはじめ。私はショッピングモールの真ん中で鎮座する大きなツリーを見上げながら、くすっと笑う。


 そんな私を見て、館羽も訳もなく笑った。


「ねえ見て瑠莉ちゃん。クリスマスセットだって」


 ピザ屋さんを指さして、館羽が言う。


「3000円で、この大きさ……しかもジュースも付いて、ポテトとナゲットもあるんだ。クリスマス、これにする?」

「うん! 私、ピザ屋さんのピザって食べるの初めて!」

「私も、スーパーのピザは食べたあるけど、ちゃんとしたのはないかな。絶対美味しいよね」

「ハーフとハーフで、二種類のピザが選べるみたい。瑠莉ちゃん、何にする?」

「え、二人で一枚なの?」

「あれ、一人一枚、いけるかな」


 館羽がうーんと悩む素振りを見せる。私も、ピザの大きさがどれくらいで、私の胃袋がどれだけのピザを受け入れられるのかが分からないので、館羽と同じ仕草で悩んでしまう。


「食べきれなかったら冷蔵庫入れたらいいし、一人一枚にしよ。いろんな種類の買ってみて、シェアしたらきっと楽しいよ」


 その場面を想像したのか、館羽の顔が綻ぶ。


「いいね」


 館羽は笑うとき、少し目を細めて、艶やかに首を傾げる。


 ちょうど通りを風が吹き抜けていったのもあるけれど、手を握りたくなった。


 指同士が触れ合うと、館羽も手を広げてくれる。凹凸が合わさるように、私たちは繋がった。


 手を繋いだまま歩くと邪魔になっちゃうから、なるべく広がらないように密着する……というのはいい免罪符だった。誰にも迷惑をかけず、私達も得をする。


「私、コーンとポテトにする!」


 もうメニューを決めている館羽。まだ早いよと私は笑う。


 けど、その勇み足は、今だけ、許される。


 私たちがなりたかった大人たちも、きっとこの季節だけは、ちょっとだけ浮き足立っているはずだから。



 買い物を終えてマンションに帰る。館羽が幼稚園に向かうとき使っている自転車に空気を入れていると、壁の隙間に茶色い塊がくっついているのが見えた。


 部屋に戻ると館羽がクリーニングから返ってきた羽毛布団に押し潰されていた。布団から足がにょきっと出てジタバタしている様子は、なんだか亀みたいだった。


 助けてあげてもいいけど、上からわーって覆い被さっても面白いかもしれない。どっちがいいかな。うーん。考えているうちに、館羽が亀じゃなくなっていた。


「そういえば、駐輪場のところにカマキリの卵っぽいのがあったよ」

「え、本当? どこ?」


 そうなんだ、ではなく自分も見に行くという選択肢がまっさきに出てくる館羽がおかしかったし、そう答えるのは分かっていたから、私も場所は覚えておいた。


 館羽をカマキリの卵があった場所まで連れて行くと、館羽はわあっと目を輝かせてしゃがみこんだ。


「コンビニでお弁当買うと、こんな袋もらえるよね」

「なんか、ええ? どういうたとえなの」


 私も館羽の隣に座り込んで、カマキリの卵のジッと見つめた。


「これってさ、何匹くらいのカマキリが産まれてくるの?」

「種類にもよるけど、だいたい数百個なんだって。この卵はふわふわしてる綿みたいなので覆われてるでしょ? だからたぶん、オオカマキリの卵かな」


 カマキリか。たまに駐車場とかで見つけるけど、車に轢かれないかなって心配になることが多い。そのたび手に乗せて草むらに投げてるけど、誰かに見られていると少し恥ずかしくなる。


「カマキリの卵がくっついてる高さで、その年の積雪量が分かるってよく言うよね。あれって本当なのかな」

「どうなんだろう。カマキリの卵には対雪性があるって研究結果が出てるはずだから、雪より高く産まなきゃいけないってことはないと思う。でも、雪が少ないところにずっと住んでるカマキリが、ここでいっかって低いところに産み付けちゃうことはあるんじゃないかな」

「あー、たしかに。そう考えると、言い伝えって、鶏が先か卵が先かみたいなところあるよね。つまり、カマキリの卵が高いところにあるから雪がたくさん降るんじゃなくて、たくさん降る地域だから、そこに住むカマキリは高いところに卵を産むようになったってことであってる?」


 隣を見ると、館羽が真剣に卵を見つめていた。返事がこなかったことよりも、そんな館羽の横顔を見て、私は嬉しくなってしまう。


「ねえ、もっと聞かせて。カマキリのこと」

「え? あ、うん! えっとね、カマキリって、茶色と緑色の個体がいて、どうして個体ごとに色が違うのか。研究は進んでるんだけどいまだによく分かってなくって。でも、すっごく興味深いのがね、卵から生まれてくるカマキリは、絶対茶色と緑色が半分ずつで産まれてくるの」

「百匹産まれてきたら、五十匹が茶色で、もう五十匹が緑色になるってこと?」

「そうなの! 他にもね、成長途中で色が変わる個体もいるんだけど、それも絶対、どっちかの色には偏らないようになってるの。不思議。カマキリは、なんで色を変えるんだろう。なんでみんな、色が違うように産まれてくるんだろう」


 そう語る館羽は、どこかカマキリが羨ましそうでもあった。


 全員この色になれ。この色でないものは異端だ。そうやって色を選別し、染め上げていく私たち人間から見ると、たしかにそのカマキリの生態は、自由とも形容できるものだった。


 それからしばらく館羽はカマキリの卵をじっと観察していた。


 昼間でも冷たい風が吹くようになり、空気が刺々しくなってくる。そろそろ部屋に戻ろう。そう言いかけたときだった。


「瑠莉ちゃん。お願いがあるの」


 館羽が少し悲しげに、顔をあげた。




 新幹線に乗るのは久しぶりだった。


 小さい頃、家族で旅行に行ったとき一度乗ったっけ。


 お弁当も食べ終わって、温かいお茶を飲みながら窓の外を眺める。


 館羽はあまり口を開かず、私と同じように窓の外を険しい顔で見つめていた。


『一回だけ帰りたい』


 先日、そう言った館羽は、何かに追い迫られるようでもあり、何かを追い掛けるようでもあった。


 カマキリの卵を見てから、急にだ。何かを思い出したのかもしれないけど、私には分からなかった。


 どこに帰るの? と聞くと、館羽は答えづらそうに顔を伏せてから「地元に」と気まずそうに言った。


 一回だけ帰りたいというのは、私を誘っているのではなく、少しの間留守にするという意味だった。地元、という単語に、私の胸も静かに鼓動を早めていた。


 地元にいられないから、私は家族に連れられお母さんの実家に引っ越した。それなのに、また地元へ戻るなんて。知り合いと顔を合わせたら、なんて言われるか分からない。


 それでもこうして館羽に付いてきたのは、館羽が心配だったからだ。


 もちろん館羽も、旅行のつもりで言ったわけじゃないはずだ。最初、自分の家が恋しくなったのかとも思った。あの忌々しい家に帰るの? そう聞き返しそうになったけど、館羽がこうして立派な大人になり、なりたかった幼稚園の先生になっていることを考えると、私はそれ以上口出しできない。


 けど、それなら館羽は、家に帰りたいと言うはずだった。しかし館羽は、どこに帰るかをあえて濁した。いや、もしかしたら言いようがなかったのかもしれない。


「館羽、見て。もうスキー場が開いてる」


 遠くに見えた山を指さす。館羽は小さく「うん」と頷いた。


 新幹線を降りて、駅を出る。


 今住んでいるところよりも、人口密度が高く、空気がちょっとだけ堅い。息をすると酸素が肺に引っかかるような感覚。また、帰ってきてしまった。


 手のひらに汗が滲んでいく。


 館羽は駅を出ると、迷いのない足取りでバスに乗り込んだ。


 私の住んでいた家に行くのかもと一瞬思った。けど、私の家への道を、バスは通り過ぎていく。その次の駅で降車すると、やはり館羽はぐんぐんと歩みを進めていく。


 そして、ここまで来ると、館羽がいったいどこへ向かっているのかが分かってしまった。


 ため息と、疑問が浮かぶ。なんで館羽が、そんなところに用があるの?


 背中を追い掛けながら、思う。私もその家には、何度も行った覚えがあるから。


 そこは、更地だった。


 崩れた壁や柱を撤去した形跡はあるけど、途中で解体工事が取りやめになったのか、中途半端な状態で放り投げられていた。


 残された木材には全体を覆うほどの焦げが残っていて、現場の凄惨さを物語っている。割れたガラスもそのままで、辺りには人気がまったくなかった。


「館羽、ガラス踏まないようにね」


 敷地に入っていく館羽に、私も付いて行く。


 館羽は何かを探しているというよりは、いろんな場所から、その燃え朽ちた家を見下ろしては、悲壮とはちょっとだけ違う、噛み締めるような表情を浮かべた。


「瑠莉ちゃんが実家に引っ越したこと、反町さんが教えてくれたの」


 館羽は崩れた家から離れて、それから唯一形を残していた庭の物置のそばに座り込んだ。


 その名前を出されて、動揺しなかったと言えば嘘になる。動悸がして、呼吸が浅くなったのが分かった。


「それから、負けないようにって、応援してくれた」


 今日はとても冷え込んでいる。


 コートを着ている私でも、寒さに身震いしてしまうほどなのに、館羽はセーターにマフラーを巻いているだけの薄着の状態でも、身じろぎ一つしなかった。


 その瞳は、今何を見て、何を想起しているんだろう。私も、館羽が見ている方向に視線をやった。


「どうしてこうなっちゃうんだろう」


 反町がどうなったかは、あのマンションに住み始めて半年後に知った。


 館羽がいつも、共同で使っているパソコンで同じ記事を見漁っているのに気付いた。それは去年起きた、殺人事件についてだった。


 両親を殺し、そのあと家に火を放ち犯人は自らの命を絶った。実名報道はされていなかったが、その事件があった場所を見て、私はハッと息を呑んだ。


 悲しいとは思わなかった。


 けれど、館羽はそうじゃなかった。館羽は何度もその記事に目を通しては、目に涙を浮かべていた。


 両親を殺した、恐ろしい殺人鬼。小さい頃から虐待を受けていて、素行に問題があった。同じ学校に通っていた生徒たちのインタビューでは「いつかやると思っていた」と答えられている。


「変わろうとしてたんだよ、ちゃんと」


 弁明するように、館羽は言う。


 あんな、あいつが、館羽の心にこれほどまでに入り込んでいることに、私は苛立ちを覚えた。けど、たぶん、それは意味のない嫉妬だ。


「そうなんだね」


 館羽の恋人になって、時々思うことがある。


 恋人が、その人にとってのすべてじゃない。


 どれだけ愛を誓いあっても、触れられない心の領域というのはきっとある。それは友達や家族なら、容易に触れられる場所であったりもする。


 だから、恋人というのは一つの役割でしかない。その無力さに打ちひしがれることもあった。けど、そうじゃない。人と人の関係っていうのは、全知全能じゃないんだ。


 館羽は駅前で買った花を物置の前に備えて、手を合わせた。


「ずっと、お花を供えてた」

「うん」

「ねえ瑠莉ちゃん。もし、私が死んだら、毎日お花を供えにきてくれる?」

「うん」


 縁起でもない質問だったけど、私は答えた。


「じゃあ、知らない人だったら? 知らない人が誰かに殺されて、毎日お花を供えにこられる?」

「それは、無理かも。私にも、通うところと、行くべき場所と、やらなきゃいけないことがあるから。週一とか、月一なら、なんとか」

「そうだよね。そうなんだよね」


 館羽は供えた花に手を添えて、目を閉じた。


 しばらくそうやってると、目の前を白い何かが通過していった。


「あ、雪だ」


 今年の初雪を、まさかこっちで見ることになるとは思わなかった。珍しい。こっちはいつも、雪が降るのなんてもっと後なのに。


 館羽の髪に雪が乗っていたので、とってあげる。


「名前が、分からないの」

「え?」

「反町さんの名前。苗字でいつも呼んでたから、名前を、知らないんだ」


 そういえば、館羽は小学校のとき、クラスメイトを苗字で呼ぶことが多かった。名前で呼ばれていたのは思えば私だけだ。


 館羽は悔しそうに眉をひそめて、口をつぐんだ。しんしんと振り続ける雪が、館羽の肩に乗っては、溶けて消えていく。


 私も、あいつのことを思い出す。


 最後にあったのは、反町が中谷に襲われているとき。SOSの電話がかかってきて、慌てて駆けつけたのだ。


 学校に来ない館羽のことを相談すると、家にいるはずだと教えてくれたのは反町だったし、窓を割ればいいだろと言ってくれたのも反町だった。


 反町は頭がおかしかった。普通の人とは決して相容れない、欠けた倫理観を持っていた。けど、あいつは私と館羽のことを、よく理解していた。ムカつくほどに、欲望も、本能も、全部が筒抜けだった。


 私はまだ、この世に歓迎されているとは思っていない。


 私がしたことはどうしようもなく醜悪で、心に悪鬼を飼い慣らした異常者であることは変えようのない事実だ。きっと誰も私を理解しようとはしないし、同情もしない。


 けど、そうじゃない人はいる。


 一人は館羽。館羽は私のことを分かってくれている。私が抱えているものも、これから私が償っていかなきゃならないことも理解しているし、痛みや苦しみを分け合うこともできるし、手を取り合って歩いていくこともできる。


 館羽は私にとって恋人であり、理解者だった。


 そしてもう一人は、反町だ。


 別に私は、反町なんか好きじゃない。むしろ、あまり関わりたくはない相手だった。反町といると、自分が自分でいられなくなるような……いや、溶け込むために用意した偽の自分がどんどんと剥がされていくような気分になって、不快だった。


 あいつさえいなければ……全部はうまくいっていた。そう思うことも何度あっただろう。


 けど。


『そういうときこそ、自分の異常性を活かせよ。普通の人なら躊躇すること、深山なら出来るだろ。家に侵入するのなんて、人を殺すよりよっぽど簡単だろ?』


 私を、誰よりも。


 もしかしたら、お母さんやお父さんよりも。


 理解していたのは、反町だった。


「……はな


 館羽の供えた花に、私も手を添える。


「反町華。それが、あいつの名前」

「反町……華」


 館羽が復唱する。その一文字一文字を、撫で上げるように。


「綺麗な名前」


 もう、館羽の雪を払うことはしなかった。


 降りしきる、冷たい雪の感触を、私たちは抵抗せず受け入れた。


「何が違ったんだろうね、私たち」


 今を生きる者と、過去に捕らわれた者。


 違いなんて……。


 震えた肩を抱きしめると、館羽は声をあげて泣いた。


 その涙が私に向けられたものじゃないと分かっていても、今はただ抱き留めることしかできない。


 その心の領域に触れることができたのは、たぶん、あいつだけだろうから。



 帰りの新幹線に乗るころには、雪が本降りになっていた。


 ニュースを見ると、今夜中には積もるみたいだ。


 館羽はまだ浮かない様子で、窓の外を眺めている。過ぎ去っていく電柱の本数を数えながら、私は前に見た、カマキリの卵を思い出していた。


「ねえ、館羽。前に言ったよね。カマキリって、緑と茶色、半分ずつで産まれてくるんだって」


 館羽が首を傾げて、それから頷いた。


「それってさ、生き残るためなんじゃないかな」

「生き残るため?」

「もしカマキリの卵がコンクリートの上で孵化しちゃったら、獲物にすぐ見つかっちゃう。でも、茶色のカマキリがいれば、コンクリートの色にまぎれて、獲物に見つからず生き残れるかもしれない」

「うん」

「でも、だからって茶色のカマキリばっかり産んじゃったら、今度草むらの中で孵化したとき、茶色のカマキリは獲物に見つかって食べられちゃうかもしれない。孵化する場所を選べたらいいんだろうけど、きっとそれは、今を生きるのに必死なカマキリにはすごく難しいことで、だから、半分ずつにしたんじゃないかな」


 館羽は、ジッと私の顔を見て聞いてくれている。


「コンクリートの上で生まれても、草むらの中で生まれても、必ず誰かが生き残ることができるように」


 前に、駐車場の真ん中で立ち尽くしていたカマキリのことを思い出す。コンクリートの上にある、鮮やかな緑色。もしあれが茶色だったら、私は気付かなかったかもしれない。


 獲物に見つからないように姿を隠したら、手を差し伸べてくれる人にも気付かれない。あちらを立てればこちらが立たず。そういうぐらついた地盤の上で、カマキリたちは生きているんだ。


「だから、半分ずつなんだね」

「だと思う。それでね、館羽。さっきも言ってた。私たちと、反町、何が違ったのかって話なんだけど」


 館羽は太ももの上にこぶしを握って、真剣に傾聴した。


「私たちは緑色で、反町たちは、きっと茶色だった」


 いつか聞いた、そしてもう聞くことのない声。私の理解者であり、私の共犯でもある、狂った女の顔を、脳裏に思い浮かべる。


「それだけだよ、違いなんて」


 産まれた場所が草むらの中だったから、緑色の私たちはたまたま生き残って、反町たちは獲物に食べられてしまった。だけど、もし産まれた場所がコンクリートの上だったのなら、獲物に食べられていたのは、きっと緑色の私たちで、生き残るのは茶色の反町たちだった。


 それだけだ。


 それ以外の違いなんて、どこにもない。


 あるはずがない。


「瑠莉ちゃん、ありがとう」


 館羽は私の手を握って、それから隣に移動してきた。景色見なくていいの? と聞くと、館羽は無言で私の肩に頭を預けてきた。


 それから私たちは、終始無言で新幹線に揺られていた。


 過ぎ去っていく景色の中、雪が降り積もり白に染め上がった山に一つ、鮮やかに花を咲かせている木が生えていた。


 異質なその色は、歪でありながら、しかしどうしてか、私の心を、揺さぶって止まないのだった。

 

 

   

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