存在しない記憶


 両親は毎晩のように喧嘩をしていて、そのたびにあたしは本を読んでいるフリをして気配を消した。


 父親は母親を殴りつけ、食器が割れ、血が白壁に付いてシミになっていく。父親が留守にすると、母親はその鬱憤を晴らすようにあたしを殴りつけた。


 人間はこうやって耐えて、発散し、心の均衡を保つのだと幼心ながらに理解し、あたしは殴られるのが自分の役目なのだと思い素直に虐待を受けた。


 やがて両親は離婚し、あたしは小学生になった。母親は父親が出ていってすぐのころは憔悴しきっていて何も喉を通っていない状態だったが、しばらくすると元気になった。


 元気な母親というのが不思議でしょうがなかったのを今でも覚えている。あたしにとっての母親とは、いつも父親に殴られて、それが終わるとあたしを殴りつける存在でしかなかった。


 そして、自分の家庭がどれだけ異常であるかは、友達の家に遊びにいったときにようやく気付いた。家庭というのは笑顔と幸福で満ちあふれ、心落ち着かせられる場所なのだと、和気藹々と話す友達とその親の顔を見ながら羨んだ。


 ずっと本を読んでいたこともあって、自分でも描いてみたいと思うようになった。あたしは本棚から絵本を取り出して模写した。そして次第に、自分で物語を考えるようになった。


 授業中も、あたしは先生の話も無視してノートの隅に漫画を描いていた。しかし、隣の席の中谷なかたにとかいう女が「めっちゃ絵上手いじゃん! なにそれ漫画!? すげー!」と大きな声で叫んだせいで先生にバレてしまった。


 中谷はアホで、バカで、そして間抜けだった。猪突猛進という勇猛果敢な言葉は似合わない。どちらかというと、制御機能の壊れたロボットみたいな奴だった。


 そんな中谷はいつもあたしの漫画を読みたがり、読むたびに目を輝かせ……いや。やめだ。中谷のことを思い出す必要も、深掘りする必要もない。


 母親が知らない男を家に連れてくるようになったのは、小学六年生になった頃だった。


 来る男は基本的に若いやつばかりだったが、中には五十代、六十代くらいの男もいた。母親は入れ替わり立ち替わり、違う男を連れてくる。


 そしてある日、母親はあたしを庭の物置に閉じ込めた。


 外から南京錠をかけられ、母親が開けてくれるまで暗くて狭い物置のなかで、一晩過ごすこともあった。自分の膝を抱き、考えた。


 母親があたしを邪険に扱っているのはすでに気付いていた。母親はあたしを愛していない。しかし、あたしも母親を愛しているわけではなかった。


 生まれてきたのが間違えだったのか。だが、芽吹く命にあたしができることはなかった。あたしに落ち度はない。そう考えたら無性に腹がたってきた。


 ある日、いつものように物置に閉じ込められたとき、南京錠が閉まりきっていないことに気付いた。押し入れを開けて、外に出る。


 ふと、家の中から声が漏れているのに気が付いた。母親の声だった。


 最初は泣いているのかと思った。母親のことなど愛してはいないが、父親に殴られているときの母親の悲痛な顔を思い出し、あたしは急いで家の中に向かった。


 男が母親にひどいことをしていたら、助けなきゃいけない。あたしは庭から持ってきたスコップを両手で握りしめて、声の方へと向かっていった。


 ドアをこっそりと開ける。


 母親が、


 ご飯を作っているときの顔も、眠っているときの顔も、窓から差し込む日差しに目を細めている穏やかな顔も、あたしは全部知っている。


 しかし、目の前で身体をよじらせ、悶えるような母親の顔は、今まで一度も見たことがなかった。


 あたしはスコップを持っていることも忘れ、男と母親の交わりを見続けた。心臓がドクドクと鳴っていた。


 不快ですらあった。


 嫌悪感すら抱いていた。


 しかし、狂おしいほど興奮した。


 声が鳴り止み、あたしは慌てて物置に戻った。


 男の乗った車が遠ざかっていく音。母親が物置を開け、あたしを家に連れ戻す。


 さっきまであんなに鳴いていたのに、叫んでいたのに、快感によがっていたのに、母親は素知らぬ顔を突き通していた。


 それがどうしようもなく、ああ、たまらなかったのだ。


 気付けば母親を押し倒し、服を剥ぎ取り、抵抗する母親を殴り、そして男と同じように身体をもてあそんだ。


 やめてと苦悶に歪む表情と、あたしの記憶に根付く普段の母親が重なり、崩れ、溶け落ちていく。涎が出るのを抑えられなかった。


 頭の中で火花が散っているかのような感覚に、あたしは夢中になった。


 それからあたしは、クラスのやつらにも同じことをするようになった。


 家に呼び込み、ベッドに寝かせ、襲いかかると、決まってそいつらはやめてと叫ぶ。


 最近仲良くなった女。私たち友達だねっ、と笑顔であたしの手を握った女。そいつらの顔が、歪んでいくのがとてつもなく気持ちよかった。


 一度、本気で抵抗されたことがある。あたしは引き出しに入っていたナイフを取り出して、そいつを脅した。反撃しようと勇気を振り絞った顔も、みるみるうちに青ざめていき、そしてあたしに身を委ねた。


 そしてあたしは気付いた。


 あたしはきっと、あのときの父親に憧れているのだ。


 暴力と、恐怖による支配。


 あたしに従い、あたしに屈服し、嫌がりながらも受け入れるしかない、その脆弱さと愛らしさが、あたしは見たかった。父親が、あたしの母親にそうしていたように。


 ふと、昔、虐めていたやつの顔を思い出す。


 あれもなかなか、ひどい虐めではあった。凄惨なその光景は、小学生がするにはおよそ信じられないほど残酷なものだった。あれも、もしかしたら父親に憧れていたという現れなのだろうか。


 いや、違う。あいつは、虐められているあいだ、ずっと幸せそうだった。顔は苦悶に満ちあふれていたが、心は笑っていた。証拠はないが、感覚でわかった。だからあいつを虐めることではあたしは満たされなかったのだ。


 だが、逆に、幸福に蕩けた顔なら見ていたい。いつも虐められ、痛い痛いと演技をしながら快感に溺れていたあいつを、優しく、包み込み、整然としない柔らかさで支配できたら、きっと最高だろう。


 ああ、きっと反対が好きなのだ。


 金魚を火で炙ったこともある。鳥を地面に埋めたこともある。


 そういう、本来とは真逆の場所に突き落とすことがあたしにとっての呼吸なんだ。


 中谷が柔道の大会で対戦相手を骨折させた。くそ、また中谷だ。あいつのことはもう忘れたい。忘れたいが、あいつのおかげであたしは気付くことができた。


 あたしたちは、異常だ。


 趣味嗜好の域を超えた、本能が逆流した果てにある衝動の世界にいる。


 普通の人間なら制御できるはずの欲求に依存し、自分の意思とは関係なく、気付けばそれら異常を摂取している。


 世間でたびたび起こっている猟奇的な殺人事件を調べていくたびに、犯人たちは幼い頃から異常な欲求を抱え、それを発散するたびに人を殺していることが明らかになった。小さい頃から、動物を殺したり、クラスメイトを過剰に虐めたり、倫理から外れたことをなんの罪悪感もなしに行っている。


 高校に入学して、一番最初に仲良くなったクラスの女子をベッドに縛り付けて襲っている最中、このままじゃマズイと思った。


 あたしたちはこのままだと、道を踏み外す。しかし、この身体の内で沸騰する本能と欲求は、絶対に自分の力で抑えきることなんかできない。いずれ暴走し、事件に発展する。


 どうすればいい。


 どうすれば。


 そう考えている途中、中谷が、人を殺した。






 供えた花が夜風で揺れている。


 雑踏に混じる笑い声は、ここで起きた凄惨な事件を完全に忘れ去り、未来へと向かっていく。なんの罪もない人間が、異常な人間の犠牲になる。これがどれだけ、理不尽で、悪質で、醜悪なのかを、正常な人間は常日頃から考えることがない。


 それは幸せなのか、それとも、盲目なのか。講釈を垂れる資格は、あたしにはない。


 浅海あさみがうちを訪れて、一年が経った。


 浅海は五年前に殺人未遂を起こして姿を消した深山みやまのことを探しているらしい。


 もう再会できただろうか。連絡先も交換していないし、知るよしもなかった。


 あの日、浅海を部屋に招き入れたとき、あたしは舌から滲み出る涎を我慢するのに必死だった。あの浅海が、整然な顔をして、深山に会いたいとあたしを頼る。


 有り体にいえば、あいつは大人になっていた。


 そんな浅海を、ぐちゃぐちゃにしてやりたい。苦悶の表情で、嬌声をあげる浅海を見てみたい。何度、その牙を剥きだしかけただろう。


 しかし、それすら浅海にはお見通しだった。にじり寄りかけたあたしにあいつは「もうしないでほしい」と言い切った。


 浅海との会話を反芻しながら家に戻る。


 玄関に投げ出されている靴を見て、あたしは舌打ちする。それと同時に、男が部屋から出てきてあたしの髪を掴んだ。


 この男は今のあたしの父親だ。二年前に母が連れて来た。詳しい経緯は知らない。知ることを、許されなかった。


「外で遊んでる暇があったら、身体でも売って金稼いでこいよ!」


 髪を掴まれたまま、壁に打ちつけられる。鼻血がドロッと流れて、白壁にシミができる。


 リビングから味噌のいい香りがただよってくる。母親が、料理を作っているのだ。廃れていた母親も、結婚したことで艶を取り戻した。あたしが壁にぶつけられる音も、きっと気にも留めていない。


 新しい父親は、家であたしと目が合うたびに暴力を振るった。しかし、こいつは前の父親と違ってバカだ。前の父親は母親を殴るとき、必ず顔や腕は避けていた。


 ……本能に呑まれた獸が。


「あ!? なに笑ってやがんだ! ああ!? お前が飯食えてるのは誰のおかげかわかってんのか!」


 無様だ。哀れだ。滑稽だ。


 抵抗する気力もなかった。


 部屋に戻り、鼻血が止まるのを待ってから、あたしは引き出しの中に隠していた原稿用紙を取り出して机に並べた。


 浅海に言われてから、あたしは再び漫画を描き始めた。


 十年近い空白期間を埋めるのには時間が要ったが、最近になってようやくコツを取り戻しつつある。


 本当はデジタルで描きたかったが、給料のほとんどはあの父親に渡さなければならなかったので、安い板タブすら買うことができなかった。


 近くの家電量販店から万引きでもすればいいかと考えたこともあった。けれど、部屋に飾ってあるトロフィーを見ると、そんな気も起きなかった。


 漫画を描き始めてから、昔の衝動は消えた。


 女を犯したいなんてバカな考えは、ないわけじゃないが、それは衝動とはかけ離れた想像の域に留まり続けている。そして、自分を制御し続ける息苦しさが漫画を描くモチベーションにもなっていた。


 あたしは、漫画に救われた。


 漫画を描くことで、異常な自分をコマの中に留めて、創作の中で完結させることができた。これらを実際にしたいとは、微塵も思わなかった。


 そう考えると、あたしは、浅海にも救われたのかもしれない。漫画を描けばと進言してくれたのはあいつだ。


 昔の夢を大人になってもう一度追い掛けたいなんて、あたし一人だったら考えもしなかった。


 今夜も、ひっそりと、小さな屋根の下であたしの筆は線を描いている。それは、未来への夢想でもあった。




 近頃、顔色がよくなったと職場の人に言われるようになった。


 実際、生きていて楽しいとさえ思えた。何か目指す場所があるというのは、暗がりに明かりを灯してくれる。


 仕事が終わり、家に帰る。


 しかし、玄関で靴を脱いでいる最中に、その異様な静けさにあたしは息を呑んだ。


 何かがおかしいと思った。


 あたしは静かに部屋に行き、もうすぐ完成する原稿を取りだそうと引き出しを開けた。


 だが、そこには何もなかった。


 部屋のドアが開いた。


 父親が入ってくる。手には、あたしがこの一年、必死で描き続けた原稿が握られていた。


「お前みたいなやつが、こんなことする資格があると思ってるのか」


 父親が、見せつけるように、原稿に手をかけた。


 やめろ。 


 それは、あたしの希望だ。


 浅海が教えてくれた、夢というのは、異常な自分さえも救ってくれる。だからあたしは、筆に夢を乗せた。これまでの懺悔と、後悔と、贖罪を、物語にして、絵にして、生きる希望にした。


 それが、目の前で、ビリビリに引き裂かれる。


 目の前で散っていく紙は、費やした年月など関係ないと言わんばかりに、脆く、そして一瞬にして塵と化した。


 父親は呆然とするあたしの首を絞め、そしてベッドに押し倒した。


「聞いたぜ、お前がお母さんに何をしたか」


 父親が、あたしの服に手をかけた。抵抗する間もなく脱がされる。信じられない力だった。


 父親が、ベルトを外し、ズボンを下ろした。


「ふざけんな!」


 思いきり腹を蹴ってやった。


 だが、それは父親を逆上させただけだった。


 重い拳が、あたしの頬を打った。奥歯がぐらつき、口の中が一気に血の味で広がる。膝でお腹を蹴られ、それから何度も馬乗りの状態で殴られ続けた。


 絶対に、抵抗なんかできない。力が違いすぎる。勝てるわけがない。


 ……怖い。


 ふと、父親の後ろを見る。部屋の入り口から、母親があたしを見ていた。


 ああ、そうか。これは罰なんだ。


 あたしがしたことの報い。母親はずっと、あたしがこうなるのを望んでいたんだ。


「謝ったら許してやるよ」


 息を荒くした父親が、あたしの胸元から足の付け根までをなめ回して言った。


 いまさら、自分がどうなろうとしったことじゃない。中谷や、深山がそうだったように、あたしも報いを受けるときがきた。それだけのことだ。


 しかし、机の上で煌めく、過去の栄光。何かを目指し、何かになりたいと願い、誰かを救いたいと思い描き、努力した証のトロフィーが、あたしを見下ろしている。


 いやだ、終わりたくない。こんなところで。


 プライドなんて捨てろ、大人になれ。人間になれ。


「ごめんなさい……許してください……」


 涙ながらにそう訴えた。


 父親は、垂れていた涎を舌で舐めとるとあたしに覆い被さった。


「なんでっ! 謝ったのに!」


 何もかもが遅かった。


 なんで? 知るか。あたしだっていつもそうやって、誰かを傷つけてきただろ。被害者の気持ちを知るいい機会だ。


「やだ、やめろ!」


 そんな風に、切り捨てることなんかできなかった。


 あたしは、やり直したい。


 間違い続けた人生を、ここで元通りにしたい。


 こんなところで、こんな男に、こんな家族に、破壊されてたまるか。


「誰かっ、誰か助けて!」

「誰もこねえよ!」


 父親に殴りつけられる。それでも叫んだ。


 すると、窓がパリン! と割れた。部屋の中に、大きなレンガがゴトッと転がる。


 突然の出来事に、父親も呆気に取られていた。


反町そりまち!」


 聞き慣れた声だった。


「み、深山……? なんでここに」

「いいから! 手を伸ばして!」


 何がどうなっているんだ。分からないが、あたしは父親のお腹をもう一度蹴り飛ばして深山の手を握った。


 父親から逃げるために用意した逃走経路。窓の下に置いたタイヤに着地すると、繋いでいた手が解けた。


「やったね瑠莉るりちゃん!」

「まあ、窓を割るのには慣れてるから……」


 浅海も一緒だった。あたしが状況を理解するのに遅れていると、浅海があたしの名前を呼んだ。


「来るなって言われたけど、また来ちゃった」

「浅海……」

「てか服! 服着てよ! 私の上着貸すから!」


 深山に上着を肩にかけてもらい、あたしたちはその場を走り去った。


 近くの神社に来ると、あたしたちは一目の付かない場所に座り込んだ。


「ここ、小学校の頃に私がよくお世話になったところ。ほとんど人来ないから、安心して」


 深山が懐かしむように目を伏せて、それからあたしの顔と、腹を見て顔をしかめた。


「ほんと、私たちって似てるね」


 小学校の頃、深山が親から虐待を受けていたという話を思い出した。しかし、あれはすぐに鎮火した。あたしの知っている話だと、深山の母親が虐待に気づき父親を止めたらしい。


「似てねーよ、全然」


 そんな母親はどこにもいない。あたしの母親は、あたしが虐待されることを望んでいた。


「反町さん」


 横で、浅海が心配そうにあたしを覗き込んでいた。


「どうして来た」

「この前、反町さんの部屋に入れてもらったときからずっと気になってたの。反町さん、もしかしたら、今……自分じゃどうにもならない場所にいるのかもって」

「はっ、まさか、助けに来たのかよ」


 浅海は少し困ったように、眉をひそめる。代わりに、深山が答えた。


「そうだよ。館羽たてはってば、反町のことずっと心配してた。私たち、今は県外に住んでるんだけど、急に館羽がやっぱり戻るって言い始めたから、今日来たんだよ」

「心配なんてされる人間じゃないって。わかるだろ。うちがお前らになにしたのかも」

「うん、わかるよ。それで、漫画は、どう?」

「は?」


 浅海が、まったく関係ないことを聞いてくる。


「漫画、描けた?」

「……ダメだった。描いたけど、父親に見つかって、そんで、破り捨てられた」


 そうだ、ダメだったんだ。あたしが見出した希望も、人間になるための魔法も、暴力の支配によって消え去った。


 あたしが生み出した人間たち。自分たちが間違った存在であることを自覚しながら、幸せにはなれないと分かっていながら、それでも足掻いて、微かな希望を見つけたキャラクターたち。


 残酷で、凄惨で、それでも誰かのためになればと描き上げた物語は、誰の目にもとまることなく、破り捨てられた。


「じゃあ、また頑張らなきゃだね」


 横で、話を聞いていた深山がそうつぶやいた。


「アホか、もう無理だ」

「そうかな。私もね、今は美容師を目指してるんだけど、もう難しすぎて、絶対無理だーって何回も思うよ。それにね、ハサミを握るたびに、疼くの。過去の自分が」


 浅海を虐めていた深山の恍惚とした顔を思い出す。しかし、目の前の深山にその面影は微塵もなかった。


「それでも、頑張ってる。夢を追うってきっと、挫折の繰り返しなんだよ。人生も一緒、間違うし、失敗するし、もしかしたら、誰かを傷つけることもある。でも、それで今度こそはって、這いつくばってでも、泣きながらでも前に進むのが大事なんじゃないかな」

「そうだよ反町さん。ここから逃げようよ。それで、もう一回やり直そうよ!」


 浅海が手を伸ばしてくる。深山も、肩を竦めてから手を差し出す。


「私たちが今住んでるところ、すごくいいところだよ」

「空気も澄んでるし、ちょっとだけ、天気が不安定だけどね」


 二人が楽しそうに顔を見合わせる。


 不思議と、嫉妬はしなかった。二人が掴んだものが、どれだけ果てしない願いと祈りの先にあったかを、あたしは知っている。


「いいのか。うち、二人にひどいことをした。特に、浅海。うちは浅海を、あの日、無理やり――」

「いいんだよ、それで」


 浅海が頷く。


「後悔していこう? 罪を抱いて、前に進もう? 犯した間違いは絶対に消えない。だけど、やり直すことはできる。でも、やり直すためには、自分を許しちゃ、きっとダメなんだよ。ね、瑠莉ちゃん」

「うん。私も、あのときの自分が、今も許せない。許せないから、館羽をもっと大事にしたいって思ってる。反町は、どうしたい? その後悔を、どんな形に変えていきたい?」

「うちは……」


 過去を背負って、遠い場所に逃げて、それから、何をする? 何を作り上げる?


「自分と同じ苦しみを持っている人を、救いたい」


 この指で、筆で、あたしにしか生み出せない、あたしだけの物語で、苦しんでいる誰かを救いたい。誰かの代わりにあたしが傷ついて、苦しみたい。


「じゃ、行こうよ、反町。新幹線はもう予約してあるから」

「うん! あ、でもその前に服、着なきゃね」

「たしかに、いくらやり直すっていっても、下半身裸で出歩いたらそっちで逮捕されちゃうよ」


 二人が笑い合う。ああ、別に、あたしがこの中に入る必要なんかない。あたしに幸福なんか訪れなくてもいい。ただ、こんな光景を見ていたかった。


 こんな家族が、ずっと欲しかった。


 食卓に並んで、今日あったことを話しながら、美味しいねって言って、テレビを見ながら笑ったりして。なんでもない、くだらない、静かで、穏やかな日常が欲しかった。


「ありがとな」


 浅海の頭に手を乗せて、ゆっくりと撫でる。


 こうすればよかったのかもな。これまで、何度も傷つけてきた人たちに。最初から、こうして接していれば。


「深山も」


 肩を抱いて、二人の温もりを感じる。冷たくない。支配も、恐怖も感じない。人が、人と寄り添う温かさ。


 本能に偏った愛情じゃない、もっと健全で、爽やかな、友愛に包まれ、気付けば涙がこぼれていた。


「反町さん」

「反町」


 今度は二人が、あたしの頭を撫でてくれた。


 あたしは何度も、自分の目から零れる涙を拭った。


「うち、頑張る。頑張って、やり直す……だから!」


 ありがとう。


 本当に。


 これから何度も、苦しんで、後悔して。


 たくさんの人を救っていくから。


 だから――。





「これからも、友達でいて」


 燃えさかる炎の中で、そう呟いた。


 皮膚がじりじりと焼け、燃え朽ちた家の柱や壁が次々と倒壊していく。


 破り捨てられた原稿はとっくに灰になっていた。


 手から力が抜ける。


 ゴトっと音を立てて、トロフィーが転がった。


 部屋の真ん中に倒れた両親は、頭から血を流し、ピクリとも動かなかった。


 なんて、自分勝手な妄想をしてしまったんだろう。


 あたしなんかが、許されるはずもないのに。救われるはずもないのに。


 存在しない記憶に縋り、もしかしたらって、有るはずもない未来に希望を抱いてしまった。


 やり直すなんて、できるわけがない。あたしはもう、取り返しのつかないことをしてしまった。


 火がどんどんと燃え広がっていく。今ならまだ、窓から逃げ切れるだろうか。


 だが、逃げてどうする? 逃げた先に、未来はない。あるのは光のない独房と、懺悔の毎日だけだ。


 生まれてから今日まで、幸せだったことなんか一度もなかった。いつも一人で、あたしなんかこの世に必要ないって扱いをされて、居場所なんかどこにもなくって、どう生きればいいかも誰も教えてくれなかった。


 だから自分で見つけるしかなかった。狭く、拙い選択肢。だから、間違えた。


 母親の死体を見下ろす。


 どう、声をかけていたっけ。母親のことを、なんて呼んでいたっけ。


 炎が父親に燃え移った。肉が焦げるにおいがどんどんと充満していく。


 窓枠が崩れ、もう逃げ場がなくなった。この部屋はもう、ただの棺になっていた。あとはもう、火葬されるのを待つだけだ。


 母親にかける、最期の言葉を、必死に探す。


 こんな娘でごめんなさい。


 本当はもっと、笑い合っていたかった。


 家族として、あなたと接したかった。


 愛されたかった。


 そして、愛したかった。


 …………違う。


 違うだろ。


 浅海の言葉を思い出せ。


 あれは夢じゃない。妄想じゃない。


 浅海はあたしに、なんて言った。


『で、でもっ、言ってみたら、変わるかもしれないよ? 私のお母さんも最初は聞いてくれなかったけど、ちゃんと伝えれば、分かってくれるよっ!』


 なんて夢見がちな。理屈も根拠もない、純真で、綺麗な言葉なんだろう。


 なあ、浅海。


 分かった気がするよ。


 浅海がどうしてそんなに、眩しく見えるのか。


「ねえ、ママ」


 だからあたしも、あいつを見習って、なんの意味も持たず、ただ一心に生きていた頃の自分にすべてを託した。


 あの頃のあたしは、何を夢見ていた?


 何で喜んでいた?


 唯一の、幸せだった時間は――。


『ママ! 見て! 漫画の賞を貰ったんだよ!』

『まあ! すごいじゃない! 今日はお祝いしなくっちゃね!』

『うん!』


 頭から血を流した母親に顔をすり寄せ、その冷たい身体を抱きしめる。


「あたし、あたしね」


 涙など、流す資格もない。そう言うかのように、燃えさかる炎が目元を渇かしていく。


 熱い、熱い棺の中で、あたしは母親の頭を優しく撫でた。


「漫画家に、なりたいんだ」

 

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