悪魔の記憶
梅雨の時季になると、洗濯ものがなかなか乾かないから困りものだ。
窓に打ちつける雨粒に恨めしい視線を投げつけながら、乾燥機を回す。
テレビを点けても時代劇の再放送しかやっていなかったので、手持ち無沙汰になってしまう。
学校の友達と遊ぶのもいいけど、こんな天気じゃ出かける場所も限られる。
掃除だけは得意だったので部屋は綺麗にしておいたけど、そのせいで仕事もない。
退屈の八方塞がりが幸福であるという自覚はありながらも、どうしてもまだ一人の時間に慣れない。
私は五年の間、一人で過ごしてきた。家族ともなるべく話さなかったし、職場の人とも関わりを持たなかった。人と繋がってしまえば、交友関係が増えるのと同時に優しさに包まれてしまう。
人を殺そうとした私なんかが、そんな温かい人の手によって救われてはならない。そう思ったから、孤独という罰を自分に与え続けてきたのだ。
それなのに、どうやら人間は堕落するのは案外簡単らしい。
私はもう、人の温もりを欲していた。孤独は辛い。元々人と関わることで不安を紛らわすタイプの人間だった私は、見事先祖還りを果たしていた。
「館羽、早く帰ってこないかな」
部屋をウロウロと歩いて回る。
することがないわけじゃない。でも、一人でするくらいなら館羽としたい。
掃除はすると館羽が褒めてくれるから一人でしたい。……犬?
犬になってしまったのか、私は。
マンションの廊下から、足音が聞こえた。とん、とん、ととん、とん……館羽だ!
玄関に出迎えに行くと、やはりドアが開いた。
「おかえり館羽、今日はちょっと遅かったね」
「ただいま瑠莉ちゃん。実習の方が長引いちゃって。あれ、なんだか良い香りがする」
「今日はカレーだよ! 学校の先生から、ルーを分けてもらったの」
専門学校に入学するとき、今は家元を離れて恋人と二人暮らしをしていると先生に伝えた。すると先生は「若いのに立派だねぇ」と感心した様子で言ってくれて、それ以来食材をたびたび分けてくれるようになった。
お金に困っているわけではないのだけど、そういう人の優しさに触れると嬉しくなる。
「ありがとう瑠莉ちゃん。私、瑠莉ちゃんの作ってくれる料理だいすき」
「やった、嬉しい。って、あれ、館羽そんな手提げ袋持ってたっけ? 可愛いね」
館羽はいつもリュックを背負って幼稚園へと向かう。今朝もそのはずだったのだけど、帰ってきた館羽は緑色の手提げ袋を持っていた。布で作った花びらが施されていて可愛らしい。
「今日は園の子たちで手芸をやったの。それでみんなが作ってくれたんだぁ」
館羽が手提げ袋を大事そうに、そして誇らしげに見せてくる。
館羽は新しい職場にはすっかり馴染んだようで、子供たちからも好かれていることが話から窺える。
「よかったね、館羽」
そんな館羽は、きっとそうやって生きるべきなのだろう。子供に愛されて、子供を愛す。それができる人なんだ。そうなって本当によかったと、思うのと同時に、それが私にとっての希望にもなる。
館羽を、救いたかった。少しでも、力になりたかった。今を生きる館羽の血肉に、遺伝子に、私の細胞が少しでも混ざってくれているのなら、私も自分の行いと向き合える。
あんなことは決してしてはいけない。だけど、それで救われたものもある。ただ、今後もあのような決断が正解であるとは限らないし、ほとんどの場合が失敗に終わるだろう。
そういう現実味を帯びた判断を積み重ねていった数だけ、人は大人に近づくのだと思う。
一か百かではダメなのだ。常に妥協案を繰り出して、誰も傷つかない方法を選び続ける。
難しいけど、館羽となら、きっとできるはずだ。
私たちはこれからも、二人で一緒に、大人になっていく。
「瑠莉ちゃん、これ渡すの忘れてたっ。一昨日預かってたお花屋さんのポイントカード」
「あ、うん……って、館羽! 服、服!」
着替えていた途中で思い出したのか、館羽なんと、上だけ下着姿の状態でキッチンまで走ってきた。
私はカレーの具合をおたまで確かめていたので、すぐに手を離せない。
火を止めようとすると、館羽が後ろから抱きついて来た。
私のポケットに、手を入れる。
館羽の手が、ズボン越しに、足の付け根付近をもぞもぞと動いている。
「ポイントカード、入れておいたよ」
「あ、ありがとう」
そう言って館羽は、私から離れると、リビングに戻っていった。
平穏が幸せであり、安寧が充足であると分かってはいる。
館羽と二人暮らしを初めて三ヶ月ほど経つが、私たちはすっかりとその静けさに腰を下ろしていた。
だから、久しぶりだった。
心臓がこんなにもドキドキしたのは。
翌日、私は学校の帰りに友達と遊んでから帰った。
館羽も今日は職員の人と飲み会があるらしく、帰りが遅くなるとのことだった。
友達と遊んでいる最中、私と館羽の話になった。友達は恋人と同棲する私の生活事情が気になるらしく、いつも興味津々に聞いてくる。というのも、その友達も、付き合っている人がいて、いずれ同棲したいと考えているらしかった。
そんな中で、私は友達にこんなことを聞かれた。
「一緒に住んだら、性事情ってどうなりますか?」
そういえば、館羽と二人暮らしを初めてから、そういうことは一切していない。お互い新生活で忙しかったのもあるが、それではだいぶ落ち着いた今の言い訳にならない。
友達と別れてからも、そのことについてずっと考えていた。
したい、とは思えない。
それは私の中に、まだ極小の罪悪感が残っているからだ。
館羽が望むなら、してあげたい。だけど、私からしたいというのは、無礼というか、どの口が、というか……。
ああ、こんなの館羽に聞かれたら、きっと怒られるんだろうな。
私は幸せになっていい。
館羽がそう言ってくれた。
でも、幸せって因数分解すれば、たくさんの事情が絡み合っていて、その中には、きっと恋人がするべき事情というものも入っている。
私が館羽に対して抱く感情は、鮮明に恋愛であると断言できる。館羽から告白されてから約半年の間、ずっと自問自答したことだ。
そうでなければ、私は付き合ってなどいない。恋人になりたいから、付き合ったのだ。
館羽は、どうなんだろう。したいとか、思ってるのかな。
今のところ、館羽から誘われたことはなかったけど。
「あ」
向かいの横断歩道を渡る集団の中に、館羽の姿が見えた。
飲み会の帰りかな。ちょっと顔が赤い。
館羽と目が合ったので、手を振って合図した。
しかし、館羽は私に気付いたにもかかわらず、隣を歩いていた男性に話しかけていた。
とても楽しそうに、笑いながら。
さらに翌日、私はまた悶々としていた。
部屋を歩き回りながら、この間のことを考える。
「あの男誰よ!」
テレビのドラマから聞こえてきたセリフかと思ったら、自分の声だった。いけない、冷静にならなきゃ。
心を落ち着かせるために部屋を掃除する。
「って、なんか落ちてる」
館羽が愛用する本棚の近くに、なにやら漫画が落ちていた。
すっかり漫画が趣味になった館羽は、どんどん本棚を増やし、今では三つの本棚が満杯になっている。
「なんの漫画だろ」
館羽と話題を共有するために、私もよく漫画は読ませてもらっている。
だけど、落ちていた漫画の表紙は見たことがなかった。しかも、やたら薄いし。
ページが開いたまま落ちていたその本を、拾い上げる。
「って、な、なにこれ……っ!」
なんと、そのちょうど開かれていたページが、キャラクター同士がその、ごにょごにょしているものだった。
――や、やだっ、やめて……っ!
――やめないよ。○○が可愛すぎるのが悪いんだから。
「ただいまー、瑠莉ちゃん?」
「にょわーーーー!」
慌てて本を棚に戻して、掃除機を握る。
「おほほ、どうしたの館羽。今日は早かったね」
「なんかマダムだね。あれ?」
館羽が本棚の方に目をやる。
ま、まずい。気付かれた?
しかし館羽は、私の手元を見ると、くすっと笑った。
「瑠莉ちゃん、掃除機、逆に持ってる」
さらに翌日。
また、本が落ちていた。
昨日とは違う本。
けど、趣向は似たようなものだった。
――この前喋ってた男、誰?
顔から火が出そうになる。
これって、ようは、エッチな本というわけで、館羽が購入したというわで……。
館羽って、こういうのが好きなの?
無理矢理責められる、みたいな。言葉責め? 的な。
しかも今日の本、よく見たら、男女のカップリングだ。男性の方は、心なしかこの前館羽が話していた人に似ている。
不安と心配が、焦りへとグラデーションを変えていく。
また、館羽が帰ってくる。
「あれ、瑠莉ちゃん。どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
本を背中に隠したまま、私は素っ気なくそう答えた。
さらにさらに翌日。
ついに事件は起きたのだった。
また、天気が崩れた。
館羽はびしょ濡れの状態で帰ってきた。
私は慌ててタオルを渡しに行った。館羽のシャツはびしょ濡れで、下着が透けている。今日は雨が降るって分かってるんだから、傘持って行けばよかったのに。それに、どうしてそんな色のついた下着を付けてるの? 白いシャツなんだから、透けるに決まってるじゃん。
館羽はいつからこの状態なのだろう。
まさか、下着が透けた状態でここまで歩いてきたのだろうか。
どれだけの人が館羽のこの姿を見たのだろう。
館羽はシャツを脱ぐと、タオルで髪を拭き始めた。
あまりジロジロ見るのもよくないと思い、私はキッチンで晩ご飯の準備を始めた。
残りものを使った鶏肉の寄せ鍋。ぐつぐつと煮立つ様相を眺めながらも、心ここにあらずの状態だった。
鍋ができたので火を切って、お米が炊けていることも確認する。
「館羽ー、ご飯できたよ」
リビングに戻ると、館羽がソファに寝転がっていた。長い素足が出ているなと思ったら、どうやら下着だけになっているようだった。上はシャツを着ているだけで、ここから見たら下着がシャツに隠れて何も履いていないように見える。
また、そんな格好して。
火は消したはずなのに、また心が煮立つ。
「ちょっと、館羽、聞いてるの?」
館羽は漫画に夢中のようだった。
後ろから覗き込む。
館羽が読んでいたのは、あの、薄い漫画だった。
もうさすがに気付いている。エッチな漫画は、何故か薄いのだ。
「あ、瑠莉ちゃん」
館羽がこちらに気付く。
振り返る際に、シャツがめくれあがった。
驚くことに、シャツの下にはブラもつけていなかった。
館羽の胸が僅かに露出する。
私はもう、我慢できなかった。
「瑠莉ちゃん……? きゃっ」
気付いたら、館羽に乗りかかっていた。
「そんな格好してさ」
「瑠莉ちゃん……」
「誘ってるの?」
館羽の手首を掴んで見下ろす。
バサッ、と館羽が読んでいた漫画が床に落ちた。
思わず、その漫画に視線が移る。
そこに書かれていたのは――
――そんな格好してさ、誘ってるの?
「あはっ」
耳元で、嗤うような声が響いた。
その蠱惑的な笑みを見て、私はそこでようやく気が付く。
そうだ、今思えばあの日、館羽は私が手を振っていることに気付いていた。
その週に、漫画が落ちていた。その漫画は「この前喋ってた男誰?」というページが開いた状態で落ちていた。
というか、そもそも館羽は、漫画をあんな風に置いたりしない。
館羽は必ず漫画を置くときはしおりを挟む。しかも、館羽は必ず寝る前に本棚を整理するので、翌日まで置きっぱなしなんてことは絶対にありえないのだ。
ということは、つまり。
餌にかかったのは、私の方だったのだ。
「瑠莉ちゃん、私……どうされちゃうのかなぁ」
白い歯が、淡いピンク色の唇からはみ出して、妖艶な光を放っている。
ああ、どうやらこの家には。
悪魔が住んでいるらしい。
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