月光の記憶


 次第に曝け出されていた肌の温度があがっていき、シーツで擦れていた鳥肌が若干薄らいだ頃合でようやく我に返った。というよりも、自覚したと言ったほうが正しいだろうか。


 ただでさえいつもと違う香りのする布団の中で眠るのは難しいのに、隣に瑠莉ちゃんがいるだけで眠気は押し入れの隅に押し込められたかのように見えなくなる。


 それがいま、肌に触れ、吐息さえも知覚できるような距離にいるのだから意識が朦朧とするのも無理はない。


 衣服を脱ぐのに夏という季節は適している。だからズボンを片足に吊すのも、シャツを手首に巻き付けるのも、いともたやすく行われた。


「そこがいいんだ」


 ケースに入れた虫を観察するかのような眼差しで、瑠莉ちゃんが私を見つめている。私は寝転がって、瑠莉ちゃんはすぐ隣で座り込んでいるという体勢と状況に、胸がキュッと奥へ引っ込んでいきそうになる。


 ドキドキとはまた違う、逃げ場のない恥ずかしさがあっちこっちに激突して、ピンボールのように忙しなく音を立てている。ピンボールの玉が、外に出ないようはじき続ける。それでも合間を縫ってくる玉が時々穴に落ちてくる。そのたびに、私の口は半開きになり、粘ついた息を吐くのだった。


「また、顔隠してる」


 両手をどけられて、私は慌てて横を向いた。鏡を見たわけではないが、だらしなく開いた口を想像したら見られるわけにはいかなかった。


 私が顔を背けたことで、瑠莉ちゃんも無言になってしまった。暗闇の中、音が消えることによって一人でしていたときの感覚が蘇り、指の動きを再開した。


 砂利の上を手のひらで撫で上げるように、凹凸を感じながら、表面の抵抗を感じながらなぞっていく。ろくに絞っていないタオルを指で押すように、その都度水が溢れてくる。


 正直、怖かった。


 こんなにも出るものなのかと、自分の身体を心配してしまう。何かおかしいのではないか。人とは違うのではないか。そういう怖さも相まって、瑠莉ちゃんにはやはり見られたくなかった。


「痛みと、どっちが好き?」


 瑠莉ちゃんに耳元で囁かれて、私は目をギュッと閉じた。思考をめぐらせたのではない。あくまで、堪えるためだった。


 痛みなんて、とっくに興味はなかった。


 腸内細菌の変化により、日本人がゆっくりと欧米の食文化に適応していったのと同じように、私の頭に迸る欲求の回路もいつの間にか形を変えていたのだ。


「こっちのが、好きなの?」


 名称があるのは知っている。この行為がごく一般的に行われていることは知っている。異常なことではない、誰もが通る道だ。決して恥ずべきことではない。それなのに、秘すべきことである。そのもどかしさが、指先に乗って、表面を刺激していく。


 私が頷くと、瑠莉ちゃんは「そっか」と少しだけ優しい声色になった。


「その先が、わからないの?」


 また、私は頷く。


 整然とした肯定ではない。


 泣いていた子供が大人に諭されて、渋々頷いているような、そういう捻くれた返事だった。


 背中に瑠莉ちゃんの気配を感じる。


 そっと脇腹を触られて、身体が跳ねる。


「教えて、あげる」


 瑠莉ちゃんの声が震えていた。


 決意と葛藤を乗り越えてやってきた、音の波長が胸に充満していく。温かさと切なさが混ざり合うなかで、返事をする。「うん」という簡単な発声ができなかった。「ん」とかならまだしも、犬が「くーん」と鳴くような、声にならない声が先ほどから頻出している。


 横向きになった私の背中に、瑠莉ちゃんがいる。手がそっと伸びてきて、もぞもぞと動く私の右手に触れた。


「私は、こうしてる」


 手首を操り人形のように動かされて、自分で触っているはずなのに瑠莉ちゃんに触られているような気分になる。


 人間というのは、行動する前に脳が指令を出し、そのあとにようやく身体は動作する。そういう一連の動作があるから、自分で自分を触るという行為には突発性と刺激が少ないのかもしれない。


 ぞわぞわと駆け上がってくる悪寒の裏で、そんなことを冷静に分析していた。


「ここはあんまり触らない?」


 瑠莉ちゃんが私の手を握って、その場所を目指す。地図を指し示すように着地して、私はふるふると首を横に振った。


「そっか、分かる。怖いよね」


 その場所は苦手だった。嫌悪感からではない。私の持ちうる許容量をその刺激は超えているのだ。それこそ、痛みに近いものだった。赤く腫れ上がった傷口を指で触れたかのような熱さと痛さに最初は驚いて、慌てて保湿クリームを塗ったことがある。そのことを瑠莉ちゃんに言おうかと思ったが、恥ずかしくて言えなかった。


 そんなの、学生の間で終わらせておけばよかった。


 どうして私はいい大人になって、ようやく向き合い始めているのだろう。


「中、入れてみる?」


 だんだんと鈍くなってきた皮膚の感触に気持ちよさが離れかけていたとき、瑠莉ちゃんがそんなことを提案した。


「入れたことは?」


 自分の指先を吟味して、首を横に振る。


「濡れてるから、大丈夫だと思うんだけど。やってみる?」


 これまでの声よりも、いっそう小さく、低い声で囁かれる。いけないことに誘われているような、そんな感覚に陥る。他の人からの提案だったら絶対に断るのに、相手が瑠莉ちゃんだから託すように頷いてしまう。


 別に瑠莉ちゃんに直接触られるわけじゃない。瑠莉ちゃんは私の手首をそっと掴み、これから行く先を指し示してくれているだけだ。


「小指からやってみよ。ゆっくりでいいから」


 瑠莉ちゃんに言われる通り、小指をその場所にあてがった。本当に入るのだろうか。どういう仕組みで、入るのだろうか。どこからが入ったと定義されるのか。


 小指の爪を埋め込みながら、夏の暑さに蕩けた頭が一生懸命思考する。


 一歳の子供が歩くのを応援するお母さんみたいに、瑠莉ちゃんがずっと「ゆっくり、ゆっくり」と後ろから囁いてくれる。


 第一関節あたりまで入ったところで、ヒリヒリとした痛みを感じて手を止めた。

 口内炎を舌で舐めるような、鋭い痛みだった。だが、じっと指を収めていると、溶け出したように痛みが消えていく。もう少し進むと、また同じ痛みがやってきて、手を止める。


 その繰り返しを経て、私の小指は第二関節まで中へと入り込んだ。


 入れる、刺すという感覚をイメージしていたのだが、どちらかというと洞窟にある細い空洞に足を滑らせたかのような感覚で、入ったというよりは、入ってしまった、に近かった。


「頑張ったね、偉いよ」


 瑠莉ちゃんが私の手の甲を撫でる。ときどき、瑠莉ちゃんの小指が私の太ももに触れて電気が走る。今は私の指が埋まっているこの場所に、もし瑠莉ちゃんの指が入ったのだとしたら。想像するだけで、息の吸い方さえ忘れかけそうになる。


「きもちいい?」


 肯定も、否定もしなかった。


「わかんないよね。……じゃあ、動かしてみる?」


 動かす、の意味が分からなかった。


 とりあえず、手をグーパーと開け閉めする。


「そこじゃなくて、入れてる小指」


 中指を折りながら薬指を立たせられない私は、指の可動域が狭いのかもしれない。


「くいくいって、曲げられる?」


 小指だけを動かそうとすると、プルプルと震えてしまう。


 自動販売機の下に落ちた硬貨を手繰り寄せるように、必死に指を動かした。だが、きっと瑠莉ちゃんが期待しているであろう感覚はなかなかやってこない。


「曲がってるの、感じない?」


 形状が変わっているのは分かる。ただそれだけだ。


「きもちいいところない? 探してみて」


 探すのは得意だ。


 小さい頃からずっとやってきた。正解と、行くべき道と、常識の狭間で自分の正当性をいつだって探していた。その結果、私は自分が異常な存在なのだという答えに辿り着くことができた。


 指を探してきもちいい場所を探すのは、奥歯に挟まった食べカスを探す作業に似ていた。見つかればきもちいいのだが、それまでがもどかしい。


 ふと、ざらりとした場所に指が当たる。


 その瞬間、声が出そうになる。


 すぐさま唇を締めるが、そのせいでかえって変な声が出てしまった。


「あった?」


 瑠莉ちゃんにも伝わってしまっている。それがとてつもなく恥ずかしい。だが、どこか嬉しそうな声色を聞いてたら、やめようとは思えなかった。


「中指、入れてみる?」


 ただでさえ窮屈なのに、これからもっと太く長いものが入り込んでいくなんて。


「大丈夫。ちゃんと入るよ」


 恐怖というよりも、困惑の方が強い。知らない街をずっと歩いている。そのまま真っ直ぐ行けば着くからと言われても、実際にその景色が見えてこないことには安心はできない。


 中指は小指よりも入れるのに苦労した。入らないわけじゃない。ただ、奥に進むことに不安がある。


「入れながら息吐いてみて」


 瑠莉ちゃんに肩をさすられて、言われた通り息を吐く。それと同時に、指を奥へと入れていく。


 さっき辿り着いた洞窟と同じ場所に到着する。ここからは奥ではなく、下……いや、寝転がっているから上なのか。その道筋に沿うように、指を入れていく。


「初めてなのにすごいよ。ちゃんとできてる」


 褒められる、というよりあやされている。ともあれ私も、泣き疲れた子供のように、素直に従うことしかできなかった。


「いろんな触り方してみて。指を曲げたり、左右に動かしたり」


 瑠莉ちゃんに言われたとおり、指を動かす。


 先ほど触れたザラザラとした部分を狙って、トントンとしたり、ペンのインクを消すみたいに指を左右に擦った。


「館羽、息荒くなってる。かわいい」


 その現場を、瑠莉ちゃんが目視する。


 しっかりと見られている。


 ずっと、想像の中でしか存在しなかった瑠莉ちゃんが、今目の前にいる。


 五年間、ずっと想い続けていた。


 会えない寂しさを紛らわすように人間の真似事をして、そのたびに会えないことの悲しさに涙を流して手を止めていた。


 だが、今はそうじゃない。


「――あっ」


 初めて、私の声が部屋に反響した。


 これまで吐息混じりだった私の声は、反響する前に消えていた。


 だが、今の声は。


「えっちな声でたね」


 少しだけイジワルな声で、瑠莉ちゃんが言う。


「瑠莉ちゃん……」

「なぁに、館羽」

「触ってほしい」

「それはだめ」

「どうして?」

「まだ、返事をできてないから」


 買って欲しかったおもちゃを断られたときのように、不安と落胆のグラデーションで心が色づいていく。


「今は……さわれない」


 お預けをくらった犬の気持ちが、今なら少しだけ分かるかもしれない。


 我慢すればするだけ、涎が垂れてくる。


 餌を食べられないことよりも、食べたときの興奮を想像したら、溢れるものが止められなくなるのだ。


「だからこうして、手を握っててあげるから」


 瑠莉ちゃんの温もりと優しさを一心に受けて、指を動かした。


「我慢しないで、声出していいから」


 声を出さないように口を押さえていた手を離す。久しぶりに触れた空気の感触に歓喜する私の唇。


 空いた手を、無意識に瑠莉ちゃんの方へ伸ばした。そうすると、瑠莉ちゃんが手を握ってくれた。


 瑠莉ちゃんを求めるように、私は半身を瑠莉ちゃんの方へと向けた。


 想像ではない。


 盲目が見ている幻視でもない。


 たしかに存在している深山瑠莉という人間を、視界に捕らえている。


「瑠莉ちゃん……」

「うん?」

「ぞわぞわする」

「……うん、そのまま」


 妄想の解像度には自信があった。


 私は小学校時代の瑠莉ちゃんも高校時代の瑠莉ちゃんも、輪郭から毛先、声のトーンや仕草など細部まで頭の中で再現できる。だって私の人生にはずっと瑠莉ちゃんがいた。


 朝起きて鏡を見るたび、光のない死んだ右目があの日の記憶を鮮明に連れきたのだ。


 だが、それは驕りだった。


 想像や妄想では絶対に敵わない。


 実物には奥行きがあり、香りがあり、温もりがある。


 そして、想像の中では決して生まれないものがある。


 それは、未来だ。


 あんなことがあった、こんなことがあった。その経験と記憶だけを頼りに想像というものは繰り広げられていく。それはレパートリーやシチュエーションが有限であることを意味している。


 だが、現在進行形で広がっていく私と瑠莉ちゃんの世界は時間が許す限り、無限の拡張性を持っていた。


 私の頭に存在しない、無数の未来が息つく暇もなく連鎖していく。


 喜びと、幸せを、一心に受けて。


 これから更新され続けていく未来に想いを馳せたのと同時、頭の中で何かが弾けた。


 呼吸も、脈動も、意識も、何もかもを手放した時間が一瞬だけ生まれる。しかし次の瞬間には、悪夢から覚めたばかりのような荒い息と共に、身体がひくひくと痙攣した。


 自分の意思とは関係なく動き続ける身体から、魂が抜けた。そしてその魂を瑠莉ちゃんに抱きしめてもらい、また肉体に戻っていく。そんなことが起きたのではないかと思ってしまうほど、心の奥が満たされていた。


 幸せとは、また違うのかもしれない。


 容器にたくさんのお湯を入れられ、溢れ出したものが、今の私の声と、身体の震えだったのだ。


 瑠莉ちゃんの手を強く握ったまま、私は仰向けに倒れた。


 瑠莉ちゃんと、目が合った。


 仰向けになった私を見る瑠莉ちゃんの目は……それは、どういう目なんだろう。優しい目つきとも違う、なんだか、一心に、必死に、私から目を離すことができないとでも言うように。驚きという感情を少しだけ混ぜながら、その琥珀色の瞳がジッと、私を見下ろしていた。





 翌朝、目を覚ますと私は素っ裸だった。


 一瞬、昨日の出来事を忘れていた私は「え!?」と驚き、そして昨晩のことを思い出す。思い出して……また「え!?」と今度は自分の身体を抱きながら跳ねた。


 隣の布団はすでに空になっていた。


 慌てて服を着て一階に降りる。


 リビングからは美味しそうなお味噌汁と焼き魚の香りがした。


 すでに起きていたらしい瑠莉ちゃんと目が合う。


「お、おはよ館羽」

「お、おはようっ」


 どう考えても普通じゃない空気が、二人の間に流れる。


「さあ、今日はいい天気だなぁ」


 キッチンの奥から瑠莉ちゃんのおばあちゃんがお盆を持って出てきた。


「そ、そうですね」


 開け放った窓から差し込む夏の日差しは、朝だろうと留まることを知らない。


 部屋に舞った埃さえ照らす強い日差しを見て、私は服のボタンを閉め直した。


 太陽の光は、今の私には眩しすぎる。


 私が勇気を出せるのは、すべてを淡く映し出す、月光の冴える夜だけなのかもしれない。


 そういえば虫は夜行性だったな。


 街灯の周りを一生懸命に飛ぶ羽虫たちを、私は思い出していた。

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