第17話 神様と呼ばれる人
夕食を終えたあと。
食卓の湯気もゆっくりと消えて、夜の冷えがリビングに降りてくるころ。
相沢家の夜は、だいたいこんなふうに落ち着いていく。
芳子はソファに腰を下ろし、膝の上にはモコ。
モコはまんまるに丸くなり、あたたかい湯たんぽみたいに芳子のお腹にくっついていた。
鈴がときどきちりんと鳴る。
「モモモ~……(ねむい~……)」
「はいはい、今日もよく働きました」
芳子は、毛並みに指を沈める。
指先は年齢を感じさせるけれど、動きはとてもやさしい。
なでるたびに、モコの目がとろとろと細くなっていく。
その横で、誠司は湯呑を持っていた。
いつもより、少し長く母を見ていた。
「……母さん」
「なぁに?」
「ひとつ聞いていいか」
誠司は、真顔のまま言う。
「母さんはどうやって、モコの言ってることがわかるんだ?」
芳子は「ふふ」と笑った。
「どうやってって……なんとなくよ」
「なんとなくか」
「そうよ」
そこで一拍おいてから、彼女は言葉を続けた。
「モコちゃんの声って、ただの音じゃないの。 “いま嬉しいのよ”“これ見てほしいの”“ちょっと寂しいの”っていう気持ちそのものが、すーっとこっちに入ってくるの。頭で考えるよりさきにわかるのよ」
「……気持ちが入ってくるね」
「あなたが小さいときと同じよ」
芳子は、あたりまえのように言った。
「まだ上手にしゃべれなくても、いま『お腹すいた』とか『うまくいったから褒めてほしい』とか、そういうのはわかったの。モコちゃんも、あれと一緒」
それは、さらっと言うにはずいぶんおかしな話だ。
召喚士やテイマーでは無い、普通の人間が従魔の感情を“受け取る”なんて、そう簡単なことではない。
でも、誠司はそこを疑いはしなかった。
なぜなら、芳子はもともとそういう人なのだ。
昔から、相沢家は近所の人がふらっと集まる家だった。
誰かが仕事で失敗した日も、家庭でつらいことがあった日も、なぜか足は相沢家に向かう。
縁側に座ればお茶が出て、ちょっと泣けば「大丈夫よ」と言われ、帰るころには心が軽くなる。
それが当たり前に続いた結果、今では地元の人たちにこう呼ばれている。
「相沢さんちの神様」。
もちろん、表向きはただの冗談だ。
ただ、半分は本気だ。
農協の人ですら、野菜の苗を届けに来たはずがいつの間にか愚痴をこぼし、帰るころにはなぜか笑って帰っていく。
腰を痛めた隣の奥さんなんて「芳子さんと喋ると痛みがやわらぐのよ」と真顔で言っていた。
本人は「それは気のせいよ」と笑っているが、不思議なことにそういう話は一人や二人ではない。
誠司は腕を組み、湯呑をテーブルに置いた。
「……母さんが神様って言われる理由、わかった気がする」
「まぁいやだ、そんな大げさな」
「大げさか?」
「大げさよ。ただの、おせっかいおばあちゃんよ?」
「おせっかいおばあちゃんが、従魔と意思疎通してるのは聞いたことがない」
「ふふ、それはそうねぇ」
そのやりとりを聞いていたモコが、半分眠たげに小さく鳴いた。
「モモ……(よしこ、だいすき……やさしい……)」
芳子が微笑んで頭を撫でる。
「ほら、いまのは“大好き、うれしい”ってことね」
「モモモ!(ちょっとちがうけど、そう!)」
ぴくっと耳が立ち、尻尾がぽふっと丸くふくらむ。
満足したモコは、再び芳子のお腹に顔をうずめた。
その様子を見て、誠司はほんのわずかに口元を緩める。
本当にいつ見ても思う。
言葉が少し違っても、母はなぜかモコの“心”をまっすぐ受け取ってしまう。
そして、それを優しさに変えて返す。
自分の母は不思議な人だ。
もちろん、ただ優しいだけではない。
芯の部分は、誠司以上に静かで強い。
たとえば、金の話。
この家は収入の柱がひとつではない。
役所の給料だけではないし、ダンジョンからの素材換金だけでもない。
実は、相沢家の畑とハウスから出る野菜や果物は、かなりの金を生んでいる。
信じられない甘さの白菜や、濃い味のブロッコリー。
糖度の高いカリフラワーや、葉が肉厚すぎるほうれん草。
それから、季節外れの樹上完熟バナナやマンゴー、ライチ、スターフルーツ、ジャポチカバ。
どれも一般流通にまず乗らない品質のものだ。
それらは全部、誠司が手を入れたハウスと畑から採れる。
AI管理の温室3棟分、温度も湿度も自動管理、肥料も点滴制御、収穫までロボットがやるフルオート。
「趣味だ」と本人は言っているが、正直、普通の会社員が趣味で持つ規模ではない。
味はプロがうなるレベル。
いや、プロがうなったからこそ話が広がり、今では余剰分を高級店が買い付けていくほどになっている。
数字だけ言えば、大企業の会社員の年収くらいは野菜と果物だけで生まれている。
でも、そのお金は贅沢にはほとんど使われない。
芳子は派手なものを買わない。
高いアクセサリーも興味がないし、旅行もそこまで遠出はしない。
服も普段着は質がいいものだけど、目立ちはしない。
代わりに何に使っているかというと。
スタンピードで親を亡くした子どもたちの支援だ。
あの「魔物の暴走」が起こるたび、死者が出る。
冒険者の孤児、農家の孤児、町の孤児。
そういう子どもたちは、一見すると行政の制度に乗っているようで実際には穴がある。
たとえば制服代、部活の道具、月謝、塾、交通費。
あるいは、ただ「帰ってきて話を聞いてくれる大人」がいないということも、あまり制度では面倒を見てくれない。
芳子はそこに手を伸ばす。
お金も出す。
物資も持たせる。
そして、それ以上に縁側に座らせて、お茶を出す。
「うちはね、誰が来ても断らないのよ」
芳子は当たり前のように言った。
「“助けて”って言葉にしなくても、『疲れた』って顔で来たら、それでもう十分」
「……だから“神様”って言われるんだ」
「いやだわ、あれは冗談よ」
「冗談にしちゃ、実働が重い」
「まぁ、そうねぇ」
「母さん、気づいてるか?」
「なぁに?」
「母さんがやってなかったら、たぶん俺がやってた。それなりに強引なやり方で」
「ふふ。わかってるわよ。だからあなたが動く前に、私がやっちゃうの」
誠司は、ふっ、と笑った。
それは稀にしか出ない種類の笑いだった。
モコがむにゃむにゃと寝言を言う。
「モモ……(よしこ、やさしい……いいきもち……ねむい……)」
「今のは、“いい気持ち、ねむい~”ね」
「そう聞こえるのか?」
「ええ。ほら、こうしてるとわかるの」
芳子はぽん、と自分の胸を軽く叩いた。
「耳じゃなくて、こっちで聞こえるのよ」
誠司はその仕草を黙って見つめた。
心で聞こえる、と彼女は言う。
彼は《
芳子は、その“心”をまるごと受け止める。
手段は違っても通うものは同じ。
それが、この母子の在り方だった。
どっちが特別かそれは、もう言うまでもない。
「……母さん」
「なぁに、誠司」
「母さんはやっぱり不思議だ」
「不思議じゃないわよ。ただ、うちの子たちがかわいいだけ」
さらっと言ってから、にっこり笑う。
“うちの子たち”と、ためらいもなく複数形で言う。
「うちの子たちは働き者なのよ」
「モモモモモ~(むにゃ……モコは、はたけのまもりかみ~)」
「ね? ほらこの子なんて、一日中畑を見てくれるんだから」
「……誰が教えたんだ、そのセリフ」
「わたし」
なんてことない、とでもいう顔で言って、肩をすくめる。
モコはというと完全に眠りに入った。
重さを預けきって、ちょいちょい小さく前足を動かしている。夢の中でも転がっているらしい。
誠司はしばらく黙って二人を見ていた。
この家の中心は、たぶん自分ではない。
ダンジョンでも、役所でもない。
ここにいる二人こそが、家の“あたたかさ”そのものだ。
「……母さん」
「なぁに?」
「ありがとな」
「なに照れてるのよ」
「照れてない」
「はいはい」
芳子はそう言って、モコの頭をなでながら、続けた。
「あなたもありがとうね。ちゃんと帰ってきてくれるから」
誠司はなにも言わなかった。
でも、言わなくてもよかった。
静かな夜。
外では冬の風が柿の枝を揺らしている。
家の中には、湯気と甘い焼き芋の残り香と誰かの寝息。
この場所を人が「神様の家」と呼ぶのは……
べつに、不思議なことでもなんでもないのかもしれない。
モコは寝息の合間に幸せそうに鳴いた。
「モモ……(だいすき……)」
その意味は、この家の全員にちゃんと届いていた。
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