第16話 いつもの朝。変わった日常
朝の空気は冷たく澄んでいた。
冬に向かう手前の、きゅっと引き締まった空。
眠たげな太陽が、果樹園の上にやわらかい光を落とす。
「行くぞ、モコ」
「モモ!(いく!)」
誠司は、いつもの黒いコートではなく、シンプルなジャケットにマフラーという軽い格好だった。
長い脚でゆっくりと歩幅を合わせながら、モコと並んで歩く。
モコはちょこちょこと短い足でその隣を進み、鈴をちりん、ちりんと鳴らしていた。
家の前の舗装路を抜けると田んぼ道。
水を抜いたあとの土色の田は静かで、白い息だけが生き物の気配を示す。
遠くでキジバトが鳴き、冬野菜の畑からは土の匂いがする。
「寒くないか」
「モモ!モモモ!(へいき! モコ、もふもふだから!)」
「そうだな。お前は標準装備で防寒完了だな」
誠司は横目で小さく笑った。
それに気づいたモコは、胸を張るようにふんすと息を吐く。
「モモ?(せいじはさむい?)」
「俺は平気だ」
「モモ!(ほんと?)」
「ほんとだ。昔はもっと寒いところにもいた」
「モモ?(むかしって、どこ?)」
誠司は少しだけ視線を空に上げた。
白い息が、朝の冷気にゆっくりと溶けていく。
「学生の時、冬の山に潜ることも多かった」
「モモ!(だんじょん?)」
「いや、“普通”の山だ。だが今みたいに管理が行き届いてないダンジョンも当時は多かったがな」
「モモ……(せいじ、むかしからすごい……)」
「別にすごくはない。ただ、必要だっただけだ」
さらっと言う。その言い方が誠司らしい。
実際には、彼は十代のころからダンジョンに入っている。
それは彼にとっては“日課”の延長にすぎないが、普通に聞けばとんでもない話だ。
でも、モコはそこはあまり深掘りしない。代わりに、ふわっと別の話題に飛ぶ。
「モモモモ!(きのうのやきいも、おいしかった!)」
「そうだな。母さんの焼き方は独特だ。甘みを出す温度をちゃんと分かってる」
「モモ!(またたべたい!)」
「母さんに言っておけ」
「モモ!(いう!)」
田んぼ脇の細い道をぐるっと回る。
通学途中の小学生の列とすれ違う。
「あっ、モコちゃんだ!」「おはよー!」
「モコー! フワフワしてるー!」
「モモ!(おはよ!)」
モコは尻尾を振って、ちょこっと胸を張った。
すっかり近所の人気者だ。
小さい子にも怖がられない従魔なんて、そうはいない。
(こういう時間は昔はなかったな)
誠司はふと思った。
朝の散歩。
何気ない会話。
通学の子どもに挨拶。
それから畑の様子を確認して家に戻る。そんな“普通の朝”。
自分はこういうのをしてこなかった。
昔は、朝=準備の時間。
身体を仕上げ、装備を確認し、日中のリスクを洗い出し、ときに命を守るための想定を何度も組んでいた。
危険と並んで生きてきた人間の朝は、いつも無音で鋭利だった。
けれど今は。
「モモモモモ~(きょうは、ひなたぼっこいっぱいする~)」
「日向ぼっこは修行にならないぞ」
「モモ!(なる!)」
「……なるのか」
「モモ!(なるの!)」
そう言い切られると誠司は口元だけで降参した。
(悪くない。……いや悪いどころか、たぶん、ちょっといい)
いつもは健康のため、仕事帰りにダンジョンを軽く“散歩”する程度だった。
だが、こんなゆっくりとしたペースで歩く散歩なんて、いったい何十年ぶりだろう。
そう思えるのは、きっと今、隣で鈴を鳴らしている小さな相棒のおかげだ。
⸻
家に戻ると庭の空気はほんのり温かくなっていた。
陽が上がると土の匂いもやわらかく変わる。
「モコ。俺はこれから役所だ」
「モモ……(いってらっしゃい……)」
モコの耳がすこし下がる。
きゅううっと尻尾も細くなる。
誠司は、しゃがんで目線を合わせた。
「夕方には帰ってくる。それからダンジョンに行く」
「モモ!(いく!)」
「それまで母さんといてやってくれ。畑の冬野菜、見てやれ」
「モモ!(まかせて!)」
誠司はぽん、とモコの頭を軽く撫でた。
その一瞬でモコの表情が一気に復活する。わかりやすい。
「母さん、行ってくる」
「はいはい、いってらっしゃい。お弁当持った?」
「持ったよ」
「名札つけた?」
「……つけないよ」
「ふふ。じゃあ、いつもどおり定時で帰ってらっしゃい」
「モモ!(ていじ!)」
「定時」
「モモ!(ていじだいじ!)」
「……そうだな」
相沢家における「定時」は、もはや宗教である。
SUVのエンジン音が遠ざかると、モコはしばらくその方向をじーっと見つめていた。
鈴が小さく、心細げに鳴る。
「……モコちゃん」
「モモ?(なに?)」
「畑、見に行きましょうか」
「モモ!(いく!)」
たったそれだけで、モコはもう元気全開になっていた。
単純で、素直で、扱いやすい。
芳子は(かわいい……)と内心で思った。
⸻
午前中のモコは忙しい。
まず、畑を一周。
大根の葉っぱの具合を見て、白菜の結球具合を確認して、「モモ!(おおきくなってる!)」と報告する。
報告される野菜側としても幸せだろう。
それから、土に前足を当てて、ほんのり《土壌再生》ソイルリジェネ》》を流す。
これは本気モードではなく、やさしい呼吸みたいな調整用。
それだけで畑の土の表面がふんわり柔らかくなった。
芳子は感心しきりだ。
「モコちゃん、ほんと働き者ねぇ」
「モモ!(モコ、はたらきもの!)」
「ふふ、宣言したわね」
そして次。
縁側で日向ぼっこタイム。
陽にあたって毛がふわっと膨らむモコは、ただそれだけでものすごい破壊力を持っている。
湯たんぽ+高級毛布+精神安定剤、すべてを物理で実装したような生命体。
触った者を幸福にする、国家戦略級もふもふ兵器。
そこに、ご近所さんが集まるのは自然の摂理だった。
「こんにちは~、お邪魔していい?」
「いらっしゃい。お茶いれるわね」
「モコちゃん今日もかわいいねぇ~」
「モモ!(いらっしゃい!)」
近所の奥さん、向かいのおばあちゃん、たまに農機具屋のおじさん。
いつのまにか縁側はちょっとしたサロンになっていた。
「この前の白菜、おすそわけ本当にありがとうねぇ」
「いえいえ、うち一軒じゃ食べきれないから」
「それにしても、なんでこんなに育つのかしらね」
「うちには優秀な土担当がいるのよ」
「モモ!(モコ!)」
「ああ~かわいい~」
撫でられる。
褒められる。
ほめられながらお煎餅もらえる。
モコは「モモモ~(しあわせ~)」とろける。
この家、天国かな?と誰かが思った。
日向ぼっこ、お茶、世間話。
穏やかな時間がのんびり流れていく。
(……たのしい。いちにち、ちゃんとたのしい)
モコは目を細めた。
誠司がいない時間はさびしい。
でも、寂しいだけでは終わらない。
いまは、待っている時間すらも、まるくてあったかい。
⸻
陽が傾き、空がオレンジに染まり始めたころ。
砂利道のほうから、低いエンジン音が聞こえた。
モコの耳がぴくっと立つ。
「モモ!?(きた!)」
次の瞬間、縁側から土の上に転がり落ち、全力疾走。
玄関の前でスタンバイ。
SUVが止まる。
ドアが開く。
その瞬間に飛びつく。
「モモモモモモーー!!(おかえりー!!)」
「おわっ」
誠司が半歩よろける。
だがもう慣れたもので、すぐに体勢を戻し、片手でモコを受け止める。
膝でバウンドさせて落とさないあたり、さすがの身体性能。
「ただいま。母さんは?」
「台所よー。今夜は野菜スープとカリフラワーのグラタン!」
「ありがたい」
モコはわしゃわしゃ頭を撫でられながら、報告をはじめる。
「モモ!(きょうね、だいこんみた! はくさいまいた! おばあちゃんおちゃきた! まるいせんべいおいしかった! あとね、ひなたいっぱいした!)」
「……そうか」
「モモ!(あとね! あとね!)」
「はいはい。あとでゆっくり聞く」
誠司はほんの少し、目を細める。
その横顔は、戦場にいるときの鋭さとはまるで違って、ただの「帰ってきた人」の顔だった。
「それじゃあ、飯の前にひと潜りしてくるか」
「モモ!(いく!)」
「着替えるぞ」
「モモ!(はい!)」
⸻
リビングの奥――普段は誰も入らない物置部屋に、誠司の装備ラックがある。
役所用のスーツとは別に、そこには探索者としての彼の“もう一つの顔”が整然と並んでいた。
誠司は静かに手をかざし、すべての装備を《収格納》から呼び出す。
黒いコートと刃の影が淡く光をまとい、室内の空気が一瞬、緊張を帯びた。
その身支度はわずか数十秒。無駄のない動作だった。
「準備よし」
隣ではモコも首の鈴をちょいっと整え、短い足でキリッと立つ。
「モモ!(よし!)」
誠司が小さく頷き、無言のまま玄関の方へ歩き出した。
玄関を出る。
夕暮れの光が山の端に沈みかけている。
オレンジと群青の境い目を走る車の中で、モコは助手席の特注シートにちょこんと座る。
安全ベルトもちゃんとカチッ。
誠司がチラと横目で見る。
「眠いか?」
「モモ!(だいじょうぶ! ダンジョンいく!)」
「そうか」
エンジン音が低くのび、夜の第七ダンジョンへ向かう。
二人にとって、それはもう特別なことではなく、
“今日もちゃんと一日が終わる手順”になっていた。
⸻
ダンジョンから戻ってくるころには、空は完全に夜だった。
家の灯りが迎えてくれる。
台所からはスープの香り。
「おかえりなさい。冷えたでしょ? お風呂入ってらっしゃい」
「助かる」
「モコちゃん先に入る?」
「モモ!(いっしょにはいる!)」
「はいはい」
湯気が立つ浴室。
誠司が背中を洗い、モコは湯船でぷかぷか浮かぶ。
たまにずぶっと沈みかけて「モモモモ!?(しずむ!)」となるのも、もはや日常。
「暴れるな。湯がこぼれる」
「モモモ~(きもちいい~)」
「……今日はよく働いたな」
「モモ!(モコ、がんばった!)」
「知ってる」
その一言で、モコはぽふっと湯船の中で丸まって、ほわぁ~っと幸せそうな顔になった。
⸻
風呂上がり。
夕食のテーブルには、あたたかい野菜スープとグラタンと、自家畑のサラダ。
みんなで「いただきます」を言って、モコは焼き芋デザートを手に入れて大喜び。
食後。
モコは満腹で誠司の膝に乗る。
芳子は「写真撮っとこ」と言って、スマホを向けた。
「モモモモ~……(きょうもたのしかった~……)」
「寝るな。歯を磨け」
「モモ~(はみがき~……)」
ふわぁ、と大きなあくび。
鈴がかすかに鳴る。
その音は、家の中に安心を落とすような、小さな灯りみたいだった。
誠司はモコの頭をそっと撫でる。
(……こういうのを幸せって言うんだろうな)
彼は言葉にしない。しないが、思った。
そしてモコは目を閉じながら小さくつぶやいた。
「モモ……(あしたも、さんぽいく……)」
「行くさ」と誠司は答えた。
今日もいい一日だった。
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