第15話 交差
六月中旬。湿った風が大阪スタジアムに集った観客の頬を撫でる。
阪神ライガース対千葉シーグルズ、交流戦第三戦。
観客席はラーガース特有のざわめきを醸し出していた。
シーグルズの先発は智久。
そして、ライガースの先発は中浜陽太。
智久はブルペンで軽く肩を回しながら、遠くに見えるライガースのベンチを見つめた。
ユニフォームは違えど、あの背番号「18」は、見間違えようがない。
(まさか、こんな形でまた向き合うことになるなんてな)
高校最後の夏、地方大会の一回戦。
勝負を決めたのは中浜の一振りだった。
智久はドラフト最下位、彼はドラ1。
それが、今の立場だ。
椎葉監督が短く言う。
「やるだけやってこい。初回から全力でいい」
「はい」
智久は小さく息を吸い、マウンドへ向かう。
耳の奥で、ファンの歓声が遠のく。
ただ、自分の鼓動だけがはっきりと響いていた。
そして、打順表を見て、ほんの少し眉を上げる。
一番、ピッチャー・中浜。
DH制が導入されていないア・リーグではあるのだが、ピッチャーで一番というのはあまり聞かない。一般的には負担の多いピッチャーを九番に置くことが多いのだ。
(投げて打つのかよ......)
智久の胸に火が灯る。
負けるわけにはいかない。
ピッチング練習を終え、中浜と対峙する。
高校時代から変わらないバットを極端に上げるフォーム。
何も変わらないはずなのに智久には威嚇しているように見える。
初球。
外角いっぱいにストレートを突き刺す──が、スパン、と乾いた音。
打球はセカンドの右を鋭く抜けた。
中浜は軽く右手を上げ、一塁ベース上で笑った。
その姿に、智久は僅かに奥歯を噛む。
(あいつ……スイングが、全然違う)
高校時代の中浜は、力で押すタイプだった。
だが今は、軸がぶれない。体重移動が滑らかで、無理がない。
プロの中で揉まれた、洗練された打者の動きだ。
結局、一回表はその一本だけで抑えたものの、智久の中に残ったのは小さな焦りだけ。
中浜はもう“高校の中浜”じゃない。
それが痛いほど伝わってきた。
それでも二回、三回と、智久は少しずつ呼吸を取り戻していく。
低めへのカーブ、外へのチェンジアップ。
打者の手元でわずかに沈むストレート。
五番に出会い頭のホームランを打たれたが、智久は追加点を許さない。
ベンチ裏で田岡がつぶやく。
「悪くない。球も走ってるしこのまま行こう」
椎葉監督も腕を組みながら頷いた。
智久は五回を終えて、スコアボードに刻まれたのはわずか“1”
試合は1対1の同点。緊張感が続く。
六回表。ツーアウト、一、二塁。
ここまで投球数は七十を超え、汗が額を伝って目に入る。
そして、ここで回ってくる、一番の中浜。
スタンドがざわめく。
敵地の応援は、まるで地鳴りのようだった。
マウンド上で、智久は深く息を吸った。
田岡が構えるミットを見つめる。
(ここを抑えれば、また前に進める。俺は、もう過去の俺じゃない)
初球、外角高めへのストレート。
中浜は動かない。ボール。
二球目、チェンジアップ。
振らせたが、かすめただけでファウル。
三球目。カーブ、首を振る。
智久はストレートのサインに頷いた。
ポジションに入ってクイックで腕を降る。
その瞬間智久には中浜の目が光って見えた
スパーン、と破裂音が響く。
慌てて振り返るが、白球は完璧なアーチを描いてライガースファンの待つライトスタンドに吸い込まれていった。
風を切る音が耳の奥で割れ、観客席が爆発する。
電光掲示板には「4対1」の文字。
中浜はダイヤモンドを悠々と一周し、ホームベースを踏む。
そして一瞬だけ、ベンチを振り返らず、智久の方を見た。
挑発でも、嘲笑でもない。
ただ、見つめるだけ。
智久の胸の奥に、熱いものが込み上げる。
でもそれは怒りではなかった。
純粋な悔しさ。
ベンチから椎葉監督が動いた。
中継ぎが呼ばれ、交代を告げられる。
智久は帽子のつばを握りしめた。
それでも智久の目は、中浜の背に釘付けになっていた。
中浜の背中が、遠ざかっていく。
高校時代の“傑物”は、プロでもまだ光の中にいる。
自分はただその影を追いかけているだけ、智久はそんな感覚に陥る。
ベンチに戻ると、鈴羽からのメッセージがスマホに届いていた。
『ナイスピッチ! 打たれたけど、気持ちは伝わりました!』
画面を見つめながら、智久はゆっくり息を吐いた。
手のひらには、まだボールの感触が残っている。
あの手応え。あの打球音。
悔しさが、確かな輪郭を持って胸の奥に沈んでいた。
(まだだ。まだ、足りない。何かが)
ベンチの奥。空調の風が、熱を冷ますように静かに智久を吹き抜ける。
夜の大阪の空は分厚い雲に覆われて、星の光ひとつ見えなかった。
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