第14話 実績



 梅雨の気配が漂い始めた六月初旬。

 ミーティングルームに呼ばれた智久は、椎葉監督の口から静かに告げられた言葉を聞いていた。


「坂井、交流戦の前半は中継ぎでいく。長いイニングは投げさせない。前回の登板が良かったといはいえ、実績がまだ足りん」


 淡々とした声だった。叱責でも、慰めでもない。

 ただ“現実”を言葉にしただけの、監督らしい言い方。


「はい。わかりました」


 短く答えた智久の表情に、迷いはなかった。

 中浜に負け、プロでも洗礼を受けて心が折れかけていたあの頃とは違う。

 新宮コーチに教わり、鈴羽という応援してくれるファンも居る。


 今は、役割を果たすことに集中すればいい。


 そう思えるようになっていた。


 それから約一週間。

 智久は中継ぎとして、四試合に登板した。計4イニングで被安打3、与四球0、失点1。

 数字だけを見れば派手ではないが、確実に信頼を積み上げていた。


 速球のキレ、カーブの曲がり。どちらも春先よりも明らかに良い。

 マウンドで深呼吸すると、頭が不思議なほど冴えていく。

 時には投げるコースを完璧に再現すら、出来た。


(これが俺だ)


 少しずつ、取り戻していく感覚がそこにあった。

 そして交流戦前半の最終カード、名古屋オウルズ戦。


 名古屋オウルズは智久が所属しているナ・リーグとは別のア・リーグに所属している球団だ。昨季までは三年連続最下位と落ち込んでいたが、今季はア・リーグ四位と奮闘している。投打のバランスが取れていて、簡単には勝てないチーム。


 スコアは4対2。リードして迎えた八回裏。

 球場のアナウンスから「背番号72、坂井智久」の声がかかる。

 九回の抑えにつなぐ重要な役割、そう思うと智久の手に力が籠もる。


「はい!」


 帽子を深くかぶり、マウンドへ駆け出す。

 アウェイである名古屋のスタンドからはオウルズファンの大歓声が響くが、不思議と怖さはない。

 照明の光がまぶしかった。


 打順は七番の指名打者から。

 初球、外角低めへストレートを投げ込む。


 カツン。


 芯を外した打球が、セカンド正面へ転がる。

 浅いバウンドを難なく処理して、ワンアウト。


(よし。腕が振れてる)


 マウンドでボールを受け取りながら、智久は小さく息を整えた。

 続く八番打者は左バッター。小柄だがミートが巧いタイプ。


 初球は内角へのカーブ、カウントを稼ぐための球。

 だが、僅かに甘く入った。

 打球は高く舞い上がる。ライトフライ。

 少しひやりとしたが、外野手が難なく捕球して、ツーアウト。


 スタンドのざわめきが、ほんの一瞬だけ静まった。

 その静けさの中、智久の鼓動が自分の耳に届く。

 悪くない。全部が噛み合っている。


(あと一人)


 九番番打者。ピッチャーの打席なのだが代打が出てきた。

 いかにも強打者の構えに智久は少し物怖じする。


 初球は外のストレート。空振り。

 二球目、低めいっぱいにカーブを落とす。これは見逃し。

 

 三球目。低め、ボール球のカーブ。

 智久が田岡のサインに頷き、構える。


 ボールは智久の指から離れ、急激に落ちていく。

 打者のバットが止まらない。

 風を切る音、キャッチャーミットの乾いた音。


「ストライク、バッターアウト!」


 審判の声と同時に、智久の胸に静かな熱がこみ上げた。

 1イニング、三者凡退。

 これで交流戦前半の登板はすべて終わった。


 ベンチに戻ると、大柳おおやなぎコーチが無言でペットボトルの水を差し出す。大柳コーチは強面無口と怖がられがちな人だが、投手がベンチに戻ると毎回飲料水を差し入れする心優しい人でもある。

 智久が受け取ると、コーチは低く呟いた。


「……良い。」


「え?」


「次、先発。阪神ライガース戦。それの第三戦。」


 その言葉に、智久は一瞬だけ息を呑む。

 阪神ライガース。

 中浜が所属しているチームだ。


 あの日夢見たリベンジ。

 燃えないわけがない。


「……はい。絶対、応えます」


 大柳は口の端を少しだけ上げた。

 それ以上は何も言わず、視線をグラウンドに戻す。


 智久も同じように、遠くのマウンドを見つめた。

 照明の光が滲んで、観客の声すらも混じり溶けていく。


(もう誰にも元天才なんて言わせない)


 そう心の中でつぶやいて、智久は静かに帽子のつばを下げた。

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