亭主と財布

あべせい

亭主と財布




 アーァ、暇だ。こんな暇な交番になんで勤務しなきゃならないんだ。こういう所に飛ばされたのも、おれに運がない証拠か。馬券は外れっぱなし、宝くじは外れくじの山。目のさめるような美人でも飛び込んでこないか、といつも思っているが……アッ、来た! なんだ。野郎か。血相を変えて、どうした?

「お巡りさん! たいへんです!」

「外は寒いですから、どうぞ中にお入りください。この椅子に腰掛けて。ゆっくりお話をうかがいますから」

「そんな呑気なことをいっていられないんです。あそこの交差点を左に曲がってすぐのコンビニから、いちばん近い交番って、ここですよね」

「その前に後ろの扉を閉めてください。交番の前が風の通り道になっていて、冷たい風が吹き込んでくるんです。本官は寒いのが大の苦手でね。定時パトロールも若いのにやらせているンですから」

「すいません」

 扉を閉めて、

「椅子をお借りします」

「どうぞ。で、どんなご用件ですか」

「それです! 落としたんです」

「あァ、落し物。待ってください。いま書類を作りますから……」

 引き出しを開けて紙を取り出す。

「で、なくされたのは?」

「財布です!」

「それはたいへんだ。ここは寒いですから、奥の小部屋でじっくりうかがいます。ふだんは仮眠室に使っていますが、どうぞ、こちらです……。こちらに腰掛けてください。では、順を追ってお聞きします。落とされたのは、どんな財布ですか」

「まだ届いていないんですか! そこのコンビニで落としたンですよ」

「きょうは財布のお届けはありません」

「じゃ、ネコババされたんだ。あァー、まいったな。あの財布は全財産……」

「どうされました」

「いや、いいんです。何をしゃべればいいんですか」

「財布の特徴を教えてください」

「ですから、二つ折りのよくある財布です。ただ、別れた妻が作ってくれた世界でただ一つの財布」

「元奥さんの手作りですか」

「妻は手先が器用で、いまも手芸教室をやっています。手作りといっても、売り物になるくらいよくできた財布です。中を開くと小さなポケットがたくさんあって、使い勝手がとてもいい」

「財布の中身ですが」

「現金で五千円ほど入っています。早く捜してください」

「現金が五千円ですか。微妙な金額だな」

「微妙ってなんですか」

「いえ、拾った人物が届け出るか、黙ってネコババするか。判断に迷いがでる金額ですから。罪悪感に余り責められることなく、もらっておくかと考えるか、届け出ようかと考える境界が、五千円なんですな。これが五千円以上になると、届け出派が俄然多くなります」

「弱った。もう少し入れておくんだった」

「この財布は難しいな。あきらめた……」

「ナニッ、出てこないだと! あんた、警察官は市民の生命、財産を守る義務があるんだ。あきらめたほうがいいとは、なんだ!」

「あきらめたほうがいい、なんて言っていないでしょうが。本官は、あきらめたら負け、といおうとしたンですよ」

 外にひとの気配がして、

「だれかきたようです。ちょっと見てきますから……」

 移動して、

 オッ、美人! ようやくおれにも運がまわってきたか。

「どうされました」

「あのー、それが……」

「どうぞ、お入りください……」

 外を見て、

「オイ、田中、いいところに帰ってきた。忙しいんだ。手伝え」

「加藤先輩。巡回、異常ありません」

「報告書はあとでいいから、奥にいる人から話を聞いてくれ。落し物だ。おれは、こちらのご婦人から話を聞く」

「先輩。こちらの女性は私がいまここまでお連れしたんです。だから、私が……」

「警察学校を出たばかりの新米がナニをいっとるか。おれは、女性に優しく、男に厳しいンだ。おまえは男に滅法優しいだろうが」

「先輩、それは内緒でしょう。わかりましたよ」

「奥さん、外は寒いですからどうぞ中へ。汚い椅子ですが、おかけください」

「失礼します」

「で、どんなご用件ですか。この交番はどういうわけか、いつも暇で。一日に二人もお見えになるなんて、本官がここに勤務して半年になりますが、初めてのことです。こんな何もない殺風景なところに交番を作って、ケイカンがよくない、ってか、ダッ、ハハハッ、ハ……」

「はァ?」

「それでご用件は? そうですね。いきなりしゃべれといってもね。これは失礼しました。そうだ。お茶、お茶ダ。オーイ、田中。奥さんに、お茶を差し上げてくれ」

「そんなことをしていただかなくても。すぐに失礼します。実は……」

「田中、昨日いただいたカステラがあるだろう。それも一緒につけて持ってくるんだゾ。いえね、ほら、ここから見えるでしょう。あの蕎麦屋のそばの和菓子屋。あの和菓子屋の息子が、この前、入浴中の女性を覗いて大騒ぎになったことがありましてね。そのとき、本官が女性との間に入って事件をもみ消した、いえ、穏便に処置したお礼に母親が持ってきた極上のカステラなんです。それにしても遅いな。どんなご用件でしたか」

「実は、これ、なんです」

 バッグからとりだす。

「財布ですね。二つ折り、革製の男物……どこかで、聞いたことがあるな……! 田中は何やってんだ。ちょっと待ってください。見てきます……田中、おまえはお茶も入れられないのか」

「先輩。こちら鈴木太郎さんというお名前ですが、いまお聞きしたところでは、財布は落としたのではなく、盗まれたとおっしゃるンです」

「ナニッ、盗まれたって。大変なことですよ。盗まれたと落としたでは、天と地、警察官とやくざほどの違いがあることはおわかりでしょう。もっとも近頃は警官もやくざも似たようなものか」

「思い出したんです。そこのコンビニでのど飴を買おうとしていたとき、いつの間にか横に女性が立ったんです。女性はわざと私のそばに来たようで、私がちょっと横に移動すると、その分だけ私のほうに移動してくる」

「美人ですか?」

「まァまァ、です」

「あなたのうぬぼれじゃないですか。その女性もたまたまのど飴を買いに来たンですよ」

「いいえ。彼女はのどをこわすようなタイプじゃない」

「そんなことがわかりますか」

「顔を見ればわかります」

「まァ、いい。それで、どうしました」

「私はどうにかのど飴を選んで、レジに行き勘定をしようとしたら、ポケットに入れていた財布がなくなっていたンです」

「それで、その女性に盗まれたと考えた。どうかな。買い物をする前に落としたことも考えられます」

「ズボンの後ろポケットに入れていたんです。落とすなんてことはありえない」

「尻ポケットが一番財布を落としやすいンです。一番盗まれやすいところでもありますが。実は、いまあなたのものらしい財布を拾った女性が来ています」

「そいつが犯人だ!」

「待ってください。オイ、田中……田中は、どこに行った?」

「先輩。田中はここです。いま、ご婦人のお相手をしています」

「あの野郎。ちょっと目を離したら、こうだ。美人はおれの専門だろうが。こうなったら、対決しかない。鈴木さん、こちらに来てください」

 移動して、

「こちらの女性が財布を拾われた方で、その財布がこれです。見覚えはありますか」

「これは! 私のです。間違いありません。証拠に、この財布の角に『鈴木太郎』って名前が刺繍してあるでしょう」

「なるほど。しかし、あなたが鈴木太郎という証明は?」

「田中、いいことをいう。そうだ。鈴木太郎という身分証明書がありますか」

「この女性に聞いてください。彼女が証明します」

「エッ!? 奥さん。どういうことですか」

「この人、わたしの夫です。いえ、正確には、元夫です」

「なんですか。元夫婦! 夫婦して、交番のお巡りをからかいに来たんですか」

「そうじゃない。この女が私のポケットから財布を盗んだんです。いくら、元妻でも犯罪でしょうが」

「田中。法律はどうなっている。キャリアのおまえなら、わかるだろう」

「法律上、夫婦でない場合、元夫婦には窃盗罪が成立します」

「それみろ。おまえは泥棒だ。ズボンのポケットから財布を盗んだのだからな」

「黙っていれば、いいたいことを。わたしが盗んだのなら、どうしてわざわざ交番に届けに来るの。お巡りさん、こんな簡単な理屈はおわかりになるでしょう?」

「そうだ。そりゃそうです。あなたは、財布を拾った善意の人だ。鈴木さん、あなたは財布を届けてもらったのだから、報労金を支払わなければならない」

「報労金? なんですか。それは」

「お礼です。財布を届けてもらった感謝の印を、金銭に換えて報いるンです」

「バカな。こいつは、私の前の女房ですよ。慰謝料だって財産分与だって世間並みに払っている」

「しぶしぶね。それもほんのわずか」

「報労金なんて必要はない。拾ったというのも、信用できない。盗んだに決まっている。女房はおれの悪い癖を知っているから」

「悪い癖ってなんです?」

「お札は財布に入れないで裸でポケットに突っ込んでおく癖があります。ですから、財布の中は小銭ば……!」

「あなたさきほど、財布の中身は、五千円ほどといいましたね。どうしてそんなウソをついたンです。財布を調べれば、わかることですが、どれ、いま見ますから。あなた、少し下がって!」

「やめてください。これは。私の財布とわかったのでしょう。返してください。報労金でもなんでも払いますから!」

「田中。この男を抑えていろ! 場合によっては、公務執行妨害で逮捕だ」

「奥さん。立ち会ってください。いまから、先輩が財布の中身をあらためます。これは正当な職務です」

「お願いですから、女房、いえ元女房の前でそれを開けないでください」

「先輩。被害者は泣いていますが」

「もう、財布をなくした被害者じゃない。ウソの申告をして本官の公務を妨害した被疑者だ。しっかり、抑えておけ! では、奥さん……二つ折りの財布を開く……ふつうこのカード差しには、クレジットなんかのカード類を入れますが、何もないですね」

「この人は、盗まれたらたいへんだといって、クレジットカードは一切持たない主義なんです」

「では次ぎに、この開きを……ナイ! 札は一枚もありません。おっしゃった通りです。小銭入れは……あー、あります。エーッと、五百円玉が三枚に、百円玉が一、二、三、四、五……五枚あります。あと、十円が二枚。以上しめて……、五百円が三枚で千五百円、百円が五枚で五百円だから、ざつと三千円か」

「先輩、二千二十円です」

「きりあげたら三千円だろうが」

「お巡りさん。もう一度、札入れのポケットを見てください。ほかにポケットはありませんか?」

「待ってください。あー、あります。これですね。オッ、何か、入っている」

「見ちゃいかん。それは、私のプライバシーだ。見たら、訴えるゾ!」

「田中! しっかり抑えていろ」

「鈴木さん。警告します。これ以上抵抗なさると、手錠を使うことになります」

「しかし、なんですね、二千二十円の入った財布をなくしたぐらいで、血相を変えて交番に飛び込んできますか。あのときのご主人、いや、元ご主人の顔色はただごとではなかった……この紙切れは何だ? 西洋の美人が描いてあるが」

「そうだ。西洋の美人画だ」

「いいえ。それは、いまから百年以上も昔の、明治初期に発行された神功皇后の古いお札で、五十万円だったら右から左に飛ぶように売れる品物です」

「この一枚が五十万円! 先輩! ぼくにも見せてください。こんな希少価値のある紙幣なんて見たことがありません」

「被疑者をしっかり抑えておけ」

「先輩。そのポケットにはまだ何か、入っていますよ」

「本当だ」

「ダメだ! 見るな!」

「田中、抑えておけ……ウン? 写真だ。それも若い女性、すこぶるつきの美人だな。鈴木、おまえの愛人か」

「イイエ」

「ちょっと見せてください。こんなひと見たことが……これ、私です。昔の……」

「奥さんの写真ですか」

「あなた……こんな写真、どうして持っているの。わたしとあなたが出会った頃、一緒に冨士山に登ったとき、あなたが撮ってくれた写真でしょう。わたしが一番気に入っている写真を、どうして……」

「おれの、宝物だから」

「あなた!」

「田中! ここはスタジオじゃないだろう。ラブシーンは外でやってもらえ。さァ、交番は、店仕舞いだ」

「よかったら久しぶりに、これから夕飯でも食べないか。昔よく行ったレストランが改装して味も前よりさらによくなったらしい」

「いいわね。わたし、買い物の途中なので、急いですませて行くから、先に行って待っていて」

「お巡りさん。この財布は持っていっていいですね」

「どうぞ」

「先輩、このまま本人に返していいんですか。五十万円の古札が入った財布ですよ。所定の手続きを踏まないと、あとで厄介なことになりませんか」

「別れた夫婦が元の鞘に収まろうとしているンだ。この交番が初めて人の役に立った。こんな素敵なところに交番を作って、ケイカンがイイ、ってか。ダッ、ハハハッ!」

 元夫婦は交番を出ると仲良く手を振って右と左に分かれました。

「うまくいった。この財布には、気づかれないように、おれが自分で工夫して、角から大事なものを差し込めるようにしておいたんだ。この角に小指をこう入れて……オッ、あった、あった。一億円の当たりくじ。毎回三百枚づつ、十年間買いつづけた成果だ。あいつに夕飯くらいおごってやってもバチは当たらないか。……待て、この宝くじ、どこか、ヘン……!」

「あの人、相変わらずのバカね。わたしが作った財布よ。どこにどんな隠しポケットがあるか、知らないとでも思っているの。拾ったときに真っ先に調べたわ。そうしたら宝くじが一枚。銀行に電話をかけて聞いたら、一億円が当たっているというじゃない。だから代わりに外れくじを入れておいた。気がついている頃かしら。亭主と財布は手放しても、この一億円は手放さないわ」

                  (了)

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亭主と財布 あべせい @abesei

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