第2話

 その夜は、季節外れの嵐だった。


 叩きつけるような雨が窓を打ち、風が古い建物の隙間をと鳴らして通り抜けていく。俺はクライアント先のトラブル対応で終電を逃し、タクシーで午前二時過ぎにようやく帰宅した。濡れたスーツのまま玄関に倒れ込み、ため息をつく。


 疲労困憊の体に鞭打ってシャワーを浴び、冷蔵庫に残っていた缶ビールを煽る。その時だった。


 嵐の音に混じって、明らかに異質な音が共用廊下から聞こえてきた。


 という鈍い音。壁に何か重いものが叩きつけられたような音だ。


 そして、くぐもった男のうめき声。


「……やめろ…がはっ…!」


 それは、聞き覚えのある声だった。101号室の鈴木だ。


(また酔っ払って転んだのか…?)


 だが、緊迫したその声色は、ただの泥酔とは違う。


 俺はビールの缶を握りしめたまま、玄関のドアに近づいた。心臓が嫌な音を立てて脈打っている。関わり合いたくない。面倒事はごめんだ。


 しかし、次の瞬間、俺の耳は決定的な音を拾ってしまった。


「だから、言ったじゃないですか」


 その声は、隣の部屋から聞こえてきたのではない。廊下からだ。


 冷たく、無機質で、感情の読めないバリトン。


 


「静かにしろって、僕は、何度も、お願いしましたよね?」


「うぐ…っ…! ひ…」


 


 再び、肉体が壁に打ち付けられる音。


 俺は反射的にドアスコープに目を押し当てた。古いレンズは曇りがかっていて視界が悪い。だが、薄暗い非常灯に照らされた廊下の光景は、俺の目に焼き付くには十分すぎた。


 そこには、田中が立っていた。いつもの清潔なシャツではなく、黒いレインコートのようなものを羽織っている。


 そして、彼の足元には、鈴木がうつ伏せに倒れていた。すでに抵抗する力もないのか、小さく痙攣している。


「どうして分かってくれないんですか。ルールは守らないと」


 田中は、独り言のように呟きながら、倒れた鈴木の頭を、そので、ゆっくりと、しかし容赦なく踏みつけた。


「あ…が…」


 鈴木の口から、空気の漏れるような音がした。


「あなたは、このアパートのを乱した。それだけじゃない。僕の睡眠も妨げた」


 田中は、まるで汚れた雑巾でも扱うかのように、鈴木の髪を掴んで無理やり仰向けにさせた。鈴木の顔はすでに血と泥で原型を留めていなかった。


「これで、静かになりますよね?」


 田中は、あのを浮かべていた。暗い廊下で、その白い歯だけが不気味に光っている。


 そして彼は、その笑顔のまま、鈴木のを、何度も、何度も、踏みつけた。


 


 


 嵐の音と、固いものが柔らかいものを砕くおぞましい音が混じり合う。


 俺は息を止めた。吐き気が胃の底からせり上がってくる。


「……うるさいのは、嫌いなんですよ。俺」


 田中は、完全に動かなくなった鈴木を見下ろし、満足そうに息をついた。


 俺はスコープから目を離し、背中をドアに預けたままズルズルと座り込んだ。震えが止まらない。今すぐ警察に電話しなければ。だが、指がスマートフォンのロックを解除することすら拒否する。


 もし、今、俺が物音を立てたら?


 もし、田中が、俺が見ていたことに気づいたら?


 廊下から、何かをが聞こえてきた。ゆっくりと、一定のリズムで、101号室の方へ向かっていく音。


 そして、しばらくして、今度は水が流れる音。誰かがホースか何かで、廊下を洗い流しているような音だった。


 その音は、一時間近く続いた。


 俺は、玄関マットの上で、ただ夜が明けるのを待つことしかできなかった。

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