完璧な隣人
まちゃおいし
第1話
俺のアパートは、都市の喧騒からわずかに外れた、忘れられたような場所に建っている。木造モルタル二階建て、築四十年。壁紙はところどころ煤け、廊下を歩けば床板がギシリと軋む。最寄りの駅から徒歩十五分という微妙な距離と、この古さのおかげで、家賃は驚くほど安かった。俺がここを選んだ理由は、ただそれだけだ。
俺、佐伯は、三十代半ばのシステムエンジニア。日々の大半をクライアント先での常駐作業に費やし、夜遅くこのアパートに帰っては、コンビニ弁当を無言で胃に流し込み、ただ眠るだけの生活を繰り返している。人付き合いは得意ではない。むしろ、極度に苦手だ。このアパートの住人たちも、お互いに無関心で、それが俺にとっては唯一の救いだった。
そう、隣の203号室に、あの男が越してくるまでは。
俺の部屋は202号室。203号室に越してきた男は、田中と名乗った。歳は俺と同じくらいか、少し下かもしれない。清潔感のあるシャツに、きれいに整えられた髪。そして何より、人を安心させるような完璧な笑顔が印象的だった。
「初めまして。203号室に越してきました、田中と申します。これは、つまらないものですが」
彼が差し出したのは、有名店のクッキーの詰め合わせだった。このボロアパートの挨拶回りには、あまりに不釣り合いな高級品だ。
「あ…どうも。佐伯です」
俺は寝癖のついた頭を掻きながら、その箱を受け取った。
「佐伯さんですね。よろしくお願いします。隣同士、何かとご迷惑をおかけするかもしれませんが」
「いえ、こちらこそ…」
「このアパート、静かでいいですね。僕、騒がしいのが苦手で」
そう言って笑う田中の笑顔は、まるでテレビCMの俳優のように整っていた。
それからというもの、田中は俺の生活に頻繁に顔を出すようになった。
朝、ゴミを出しに行けば、すでに彼はそこにいた。
「おはようございます、佐伯さん! 今日は燃えるゴミの日ですね。分別、完璧です」
彼は俺の半透明のゴミ袋を一瞥し、にっこりと笑う。彼自身のゴミ袋は、中身が見えないよう黒い袋に入れられ、さらにきつく縛られていた。
夜、疲れ果ててアパートに帰り着くと、階段の途中で彼とすれ違う。
「お疲れ様です、佐伯さん。今日も遅くまで大変でしたね。あまり無理なさらないでください」
彼は、俺がいつも終電間際に帰宅することを知っているかのようだった。その労りの言葉は、俺の疲弊した神経を逆撫でする。彼の過剰なまでの「良識」と「配慮」が、俺には息苦しかった。
彼の部屋からは、生活音がほとんど聞こえてこなかった。テレビの音も、話し声も、足音すら。まるで、そこに誰も住んでいないかのように静かだった。
ただ一人、このアパートで異物だったのは、101号室の男だ。仮に鈴木と呼んでおこう。
鈴木は、深夜に友人を呼び集めては馬鹿騒ぎをし、大音量で音楽を流すのが常だった。壁の薄いこのアパートでは、その騒音は建物全体に響き渡る。大家に苦情を入れても「注意はしてるんですけどねえ」と頼りない返事が返ってくるだけ。俺を含む他の住人は、ただひたすら嵐が過ぎ去るのを耐えるしかなかった。
田中も、もちろんその騒音には気づいていたはずだ。一度、郵便受けの前で会った時、俺はそれとなく鈴木の話を振ってみた。
「101号室、またうるさかったですね」
「ああ…」田中は一瞬、あの完璧な笑顔を消し、眉をひそめた。「本当に。ルールを守れない方というのは、困りものですね」
その時の彼の目は、笑っていなかった。ただ冷ややかに、101号室のドアがある方向を見据えていた。
俺は彼を「人当たりの良すぎる、無害だが鬱陶しい隣人」だと認識していた。その認識が、音を立てて崩れ去るまで、あと数日もかからなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます