その一文を見て私は本を閉じた
U木槌
その一文を見て、私は本を閉じた
灰色の霧が窓ガラスを這う。舐めるように、愛撫するように。塔の輪郭は溶けて境界を失い、私の聖域と外界との区別もまた曖昧になる。
いや、違う。区別など最初から存在しない。存在してはならない。
私の部屋。石と埃と黴の三位一体が支配する、この完璧な閉域。外の世界など、ああ、あの喧騒、あの色彩、あの、生命力という名の陳腐な発露。考えるだに吐き気がする。口の中に酸っぱい唾液が湧いてくる。飲み込む……何度も、何度も。
私は此処でいい。
古びた書物の頁を繰る指先だけが私の確かな存在証明。紙魚の這った跡は銀色の軌跡。侵蝕の芸術だ。インクの染みは黒い涙。誰が流したのか。誰のために流れたのか。朽ちかけた革の装丁に鼻を埋めれば、過ぎ去った時間の腐臭が甘美な毒のように肺腑を満たす。
それが私の嗜好。
歪んでいる、と人は言うだろうか。だが、正常とは何か?均一化された微笑み、予定調和の幸福、それこそが最も醜悪な奇形だと私は信じている。いや、知っている。この歪んだ神経回路が真実を捉えていると。
その本との出会いは、運命だった。
古物市場の隅。埃を被った他のガラクタに埋もれて、それは私を待っていた。まるで私だけのために。装丁は何の変哲もない黒い布。タイトルも、著者名もない。ただの匿名の物体。
だが、手に取った瞬間……微かな痺れ。
死んだ皮膚に触れるような、それでいて奥底で何かが蠢くような気配。血管の中を逆流する血液の感触。心臓が一拍、飛んだ。
これだ。
私はそれを運命と呼ぶことにした。他にどう呼べばいい?
塔に持ち帰る。蝋燭の揺れる灯りの下で——電灯など使わない、あの無機質な光は私の美学を冒涜する——震える指で最初の頁を開いた。
インクは乾いた血の色をしていた。
綴られていたのは失われた言語。あるいは失われるべきだった言語。文字は蠢いていた。頁の上で、うねり、絡み合い、何かを伝えようとしている。
だが、私には読めた。
否、言葉が直接私の歪んだ神経回路に流れ込んでくるかのようだった。翻訳という過程を経ず、理解という段階をも飛び越えて。ただ、注入される。知識が、感覚が、痛みが。
それは、ある世界の記録。或いは、ある個人の、壊れきった魂の独白。
語られるのは、痛み、欠損、裏切り、そして腐敗。
引き裂かれた肉の断面の幾何学的な美しさについて。筋線維の織りなす複雑な模様。骨の白さの純粋さ。流れ落ちる涙が床の染みとなり、地図を描く克明な描写。それが一滴、また一滴、広がり、つながり、大陸を形成する。絶望の底で微かに灯る残虐な希望の光。それは癌細胞の輝きにも似ていた。
私は恍惚として読み耽った。
これだ。これこそ私が探し求めていた真実の美。
醜悪さの中にのみ存在する純粋な輝き。腐敗こそが芳香であり、崩壊こそが完成である、と。頁を繰るごとに私の魂は共鳴し、軋み、歓喜の悲鳴をあげた。骨が鳴る。脊髄を電流が走る。
作者は私と同種の魂を持つ者に違いない。
時を超え、空間を超え、私たちは歪んだ鏡のように互いを映し合っている。彼(あるいは彼女)の眼に映った世界と、私の眼に映る世界は、同じ色をしている。灰色と、黒と、時折、血の赤。
文章は粘つく蜜のように濃密だった。
舌に絡みつくような、甘ったるくてどこか腐った甘さ。時折、鋭利なガラスの破片のように私の意識を切り裂いた。痛い。だが、心地よい。傷口から何かが溢れ出す。それが何なのか私は知りたくない。知ってしまえば、この快楽が終わってしまう。
描写される風景は、常に崩壊の途上にあった。
建物は傾き、壁には亀裂が走り、天井から雨漏りがする。だが、その崩壊こそが美しい。完全な建築物など退屈だ。崩れかけてこそ建物は表情を持つ。
登場人物たちは、皆、美しい傷を抱えていた。
肉体的な傷、精神的な傷、あるいはその両方。彼らの流す血は葡萄酒であり膿は真珠だった。いや、そう書かれていたわけではない。だが私にはそう見えた。そう感じられた。
私はその世界に完全に没入していた。
灰色の霧の街も、塔の孤独も、遠い過去の出来事のように感じられた。いや、それすらも幻で、本当に存在するのはこの本の中の世界だけなのではないか。私の指先、紙の感触、蝋燭の熱……それらさえも虚構なのではないか。
読み進めるうちに物語はある一点へと収斂していくようだった。
焦点が絞られていく。渦が巻く。その中心に——
ある女性。
その存在はこの歪んだ世界の中心に位置するようだった。太陽系の中心にある太陽のように。いや、ブラックホールのように。すべてを引き寄せ、すべてを飲み込む。
彼女の描写は特に丹念で、執拗だった。
何度も、何度も、角度を変えて。光を変えて。時間を変えて。だが、その全てが、完璧に調和していた。矛盾しながら、調和していた。
肌は磨かれた象牙ではなく、打ち捨てられた陶器の破片のようにひび割れていた。
その亀裂から何かが覗いている。光なのか、闇なのか。生なのか、死なのか。瞳は輝く宝石ではなく、底なしの沼。覗き込めば、吸い込まれる。そして、二度と戻ってこられない。
声は美しい旋律ではなく軋む蝶番の音。
だが、その不協和音こそが音楽だった。完璧に調律された楽器などつまらない。狂った音程が心を揺さぶる。
そして、彼女の纏う絶望の香り。
どんな香水よりも芳しいと作者は記していた。
素晴らしい。完璧だ。
これ以上の美が、この世に存在し得るだろうか。私はその女性像に自らの理想の全てを見た。いや、見出した。いや、植え付けられた。もはや、どちらが先だったのか分からない。
私の理想が彼女なのか。彼女が私の理想を形作ったのか。
鶏が先か、卵が先か。
どちらでもいい。重要なのは、今、ここに、完璧な美が存在するということ。この頁の上に。この文字の中に。私の脳内に。
物語は佳境に入っていた。
その女性が何かを決意する場面へと至った。息を詰めて私は文字を追った。蝋燭の炎が私の興奮を映して大きく揺れた。影が壁に踊る。妖しく、艶めかしく。
期待に胸は高鳴り、指先は冷たく汗ばんでいた。
心臓の鼓動が耳に響く。ドクン、ドクン、ドクン。リズムが速くなる。呼吸が浅くなる。
彼女はこの歪んだ美の世界で、どのような究極の選択をするのか。
どのような破滅的な、官能的な結末を迎えるのか。自らを傷つけるのか。他者を傷つけるのか。それとも、世界そのものを——
頁を繰る。
そしてその瞬間——私は、その一文に到達した。
「彼女は、窓辺に咲いた小さな白い花に、そっと微笑みかけた。」
…………。
文字が、視界の中で歪む。
いや、歪んでいるのは私の眼か、それとも世界そのものか。
白い、花?
その単語を私の脳は拒絶する。受け入れることを断固として拒む。胃の腑から酸っぱいものが込み上げてくる。喉を焼く。口の中に、苦い唾液が溢れる。
そっと、微笑みかけた?
時間が止まった。
否、逆流したのかもしれない。蝋燭の炎が逆方向に揺れているように見える。影が壁を這い上がっていく。重力が反転した。
頭の中で何かが砕ける音。
ガラス細工の城が粉々に崩れ落ちるような。いや、もっと繊細な、もっと複雑な構造物が——私の中で丹念に積み上げてきた美の体系そのものが——崩壊していく音。
白い花?
あの、陳腐で、無個性で、生命力だけを無意味に主張する、あの?春になれば勝手に咲き、夏には枯れ、何の物語も持たない、あの?教科書に載っている、絵葉書に印刷されている、あの?
微笑み?
穏やかで、温かで、何の陰りもない、あの? 幸福の象徴、健康の証、正常性の旗印、あの?
違う。
これは違う。
私は本を膝の上に置いたまま動けなくなっていた。指先が頁から離れない。まるで凍りついたように。あるいは磔にされたように。
これはあの女性ではない。
あの、ひび割れた陶器の肌を持ち、底なしの沼のような瞳で私を見つめ、軋む蝶番のような声で囁き、絶望の香りを纏っていた、あの完璧な存在ではない。
白い花に微笑む女性など……。
それは、ただの、普通の、人間だ。
健全で、正常で、平凡な。
朝起きて、朝食を食べ、仕事に行き、夕食を食べ、眠る。週末には友人と会い、笑い、たわいもない話をする。そういう、どこにでもいる、誰でもない、人間。
否定する。
私の全存在を賭けて、否定する。
だが、文字は消えない。頁に刻まれたあの一文はそこに在り続ける。
「彼女は、窓辺に咲いた小さな白い花に、そっと微笑みかけた。」
何度、瞬きをしても。何度、頁を擦っても。
これは、裏切りだ。
私に対する、冒涜だ。
いや、それ以上だ。これは、契約違反だ。暗黙の、だが絶対的な契約の破棄だ。作者と読者の間に結ばれた、歪んだ共犯関係の一方的な破壊だ。
何故?
何故この完璧な醜悪さの物語の最後に、こんなありふれた、凡庸な、吐き気を催すほどの「正常」な一文が?
それは、まるで。
精緻な屍蝋の彫刻の額に幼稚な子供がクレヨンで落書きしたような。
黒いベルベットの上に蛍光ピンクの絵の具をぶちまけたような。
静謐な墓地に遊園地の音楽を大音量で流すような。
不協和音。
断絶。
理解不能な、異物。
私は、震える手で、前の頁を繰った。
もしかしたら読み間違えたのかもしれない。疲労で視力が落ちていたのかもしれない。蝋燭の光が不安定で影が文字を歪めたのかもしれない。
だが、そこには……
「彼女は長い間、窓の外を眺めていた。灰色の空、朽ちかけた建物、流れる汚水。その全てが彼女の魂と共鳴していた。」
ああ、そうだ。これだ。これこそがあの女性だ。
灰色と、朽ちと、汚水と。美しい。完璧だ。
だが、その次の頁には……
「そして彼女は気づいた。窓辺に小さな白い花が咲いているのを。」
まだ、許容できる。「気づく」という行為には驚きが含まれている。予期せぬ出来事への戸惑いが。その戸惑いが、次の拒絶を、次の絶望を生むのだろう。そう、信じた。
だが、次の一文は……
「彼女は窓辺に咲いた小さな白い花にそっと微笑みかけた。」
微笑みかけた。
受け入れたのだ。あの女性が。白い花を。生命を。希望を。
裏切られた。
私は本を閉じることができなかった。否、閉じたくなかった。まだ何か説明があるはずだ。これは罠なのだ。読者を油断させるための。次の頁で彼女はその花を引き千切り、踏みにじるのだ。そして、その潰れた花弁の中に新たな美を発見するのだ。
そう、であってくれ。
私は次の頁を繰った。
「その微笑みは長い冬の後の最初の春の光のようだった。」
……春の、光?
「彼女の心に、温かなものが広がっていくのを感じた。それは、久しく忘れていた感覚だった。」
温かな、もの?
「生きていてもいい、と。そう思えた。」
生きて、いて、も、いい?
私の手から力が抜けていく。
本が、膝の上で、重くなる。まるで石のように。あるいは死体のように。
これは。
これは希望の物語だったのか?
絶望から希望への転換の物語だったのか?
闇から光への物語だったのか?
否。
否、否、否。
それは、最も陳腐な、最も凡庸な、最も吐き気を催す物語の類型だ。「困難を乗り越えて主人公は成長する」「絶望の底から希望を見出す」「愛が全てを救う」——
そんな、幼稚な、甘ったるい、嘘っぱちの物語。
私が、求めていたものでは、断じて、ない。
だが。
だが、何故、私は泣いているのか?
頬を伝う熱いものを感じて、私は初めて気づいた。涙が、流れている。止まらない。次から次へと、溢れてくる。
何故?
私は、悲しいのか?
怒っているのか?
それとも……。
本を見る。閉じられた、黒い表紙。その下に、あの一文が眠っている。「彼女は、窓辺に咲いた小さな白い花に、そっと微笑みかけた。」
美しい、のか?
いや、違う。
美しいはずが、ない。
これは私の美学に反する。私の信念に反する。私の、存在そのものに、反する。
だが、心の奥底で何かが囁く。
「お前も、本当は——」
否。
私はその声を力づくで押し殺す。
私は歪んでいる。それが私だ。正常になることなど望んでいない。白い花に微笑むことなどできない。したくない。
蝋燭の炎がまた揺れた。
窓の外では灰色の霧が相変わらず街を覆っている。
私の世界は何も変わっていないはずなのに。
何かが決定的に変わってしまった。
本を見つめる。
あの女性は今、どんな顔をしているのだろう。
微笑んでいるのか。
穏やかな、温かな、何の陰りもない微笑みを。
ひび割れた肌も、底なしの沼のような瞳も、軋む声も、絶望の香りも——全て、消えてしまったのか。
それとも、それらを抱えたまま、それでも、微笑んでいるのか。
後者であってほしい、と願う自分がいる。
だが、本文は、それを明言していない。
曖昧なのだ。
そして、その曖昧さが、私を、苛立たせる。
答えを知りたい。
だが知りたくない。
知ってしまえば、この感覚が——この、胸を掻きむしられるような、内臓を抉られるような、この感覚が——終わってしまう。
そして私は、この感覚を嫌悪している。
だが、同時に……手放したくない、とも思っている。
矛盾だ。
全てが、矛盾している。
本が私に何を求めているのか分からない。
作者が何を伝えたかったのか分からない。
いや。
本当は分かっているのかもしれない。
だが、認めたくないのだ。
私はゆっくりと本を持ち上げた。
両手で黒い表紙を抱きしめるように。
中に込められていたはずの歪んだ魂の熱は——
まだ、そこにあった。
消えてなどいなかった。
ただ形を変えただけだ。
冷たい炎から、温かな炎へ。
破壊の火から、再生の火へ。
否。
私は首を振る。
そんな綺麗事を信じるものか。
だが涙はまだ止まらない。
奥歯を噛みしめる。
ギリリと音を立てる。
白い花。
微笑み。
その言葉を反芻するだけで胸が苦しい。
締め付けられる。
呼吸ができない。
ああ、なんと——
なんと——
(完)
その一文を見て私は本を閉じた U木槌 @Mallet21
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