饗宴

考える水星

饗宴

 貪欲と奔逸たるを誇る退廃したタラッサ人が住まう〈西の極限〉。その放蕩の海タラッサ・アソーテに浮かぶへドニア諸島の宝石のような島々が一つ、ソリュビア島の王コマゲネスは、深く飲酒と宴とを愛し、その宴の見事なるがために、またその果て無き酒飲みのために、「饗宴の王」の名を受けて、自らもそのように名乗って憚らなかった。彼はこの世の如何なる酒をも飲み干したと謳い、その驕りは、享楽と放蕩とを司るデモリース神の酒宴にあっても我に勝る酒客は無しと公言するほどであった。しかしながら、コマゲネスの宴があまりにも素晴らしかったために、人々はもはやその享楽にあずかれなくなるのを厭って、その危険な傲慢を咎める者はいなかった。それでますます、コマゲネスは名声を高めていた。


 そして、デモリースにその歓楽を捧げるという名目で開かれたある宴のことであった。此度の宴でもコマゲネスはその豪勢な欲望を惜しみなく示した。皿は黄金、卓は眩い大理石。宝石のごとく輝くイチジクや、芳香の香草をまとわせて焼かれた鳥がそこに並び、美麗な彫像で飾られたぶどう酒が湧き出る噴水は来客の歓心を大いに買った。楽人たちは狂喜と舞踏の調べを奏で、美男美女が次々と供され、阿片やあらゆる霊薬が惜しげもなく振る舞われた。遂に得難いイコルの瓶までもが姿を現した時などには、その霊妙なる薬効の甘美に列席する誰もが息を呑んだ。

 やがて、一昼夜にわたって行われた宴もたけなわとなった頃である。人々は酒泉から溺れるようにそれを飲み、脂ののった肉や蜂蜜に漬けられた果実を際限なく味わい、身も心も制御を失って互いに衣を脱ぎ棄てて互いに抱き合った。そしてそれをコマゲネスが愉悦まじりに眺めながら、薄めないぶどう酒を口に運んでいる時であった。

 数多くひしめく宴席の、その誰も気が付かぬ内に、コマゲネスの傍らに一人の女が立っていた。その女は場違いなみすぼらしい衣で身を包み、薄汚れた頭巾で顔を隠し、招かれた者の誰でもなく、そして手には酒を納める小壺を抱えていた。

 乱痴気の酩酊者どもはともかくとして、まだ酔い潰れていない番兵たちや詮索好きな侍女たちの、その誰もが気が付かなかったのは奇妙なことであった。だが宴の王は、それしきのことで取り乱しはしなかった。また、大して疑問に思いもしなかった。酒宴の席には、とかく不思議の起こるものだったからである。

「何者か」と、コマゲネスは尊大に問いかけた。不釣り合いな姿の女がすぐそばに立っていたにも拘らず、饗宴の主にふさわしいその声は動揺の色なく堂々と響き、またよく通るものであったので、たちまち酔乱の客人たちすら彼へと視線を向けた。

「招かれざるを拒みはせぬとも、相応しからざるは値せぬ。ここを何とぞ心得る。かのコマゲネスの宴なり。己を何と心得る」その声は低く、そして威する気迫があった。

しかし、乞食然としたその女はその見た目に反し、威されるどころか一歩歩み出た。そして手にする酒壺を捧げるように持ち上げると、高らかに声を発した。

「ニコクレスの子、コマゲネス。ソリュビアの王、飽くなき宴のカリュブディスよ!」

女の声はかすれて低く、しゃがれていた。でありながらも、その言葉の響きは堂々として、広大な広間の端から端にまで轟き渡り、その不釣り合いには豪胆なるコマゲネスでさえほんの微かに身構えて、客人たちは固唾を飲んだ。

「そは宴の王とぞ心得る。故に今、これなる神酒ネクタルを献じて奉らん。世に唯一なる美味にして、まことに無二なる妙味になれば、ただのひとたびも味わえば、如何なる美酒も美食も色は無し。如何な酒杯をも降したと、あえて言葉にするのなら、受け取りたまえよ、この神酒を。それはまさしく相応しきなり、ここにまさしく授けよう」

 女の言葉が終わった時、場は静まり返っていた。あれほどに乱れていた宴の場では、客人たちは折り重なったり抱き合ったりしたままに、身動き一つしなかった。彼らは皆、今しがた起こっていることを飲み込むのに難儀していたのだ。その多くは詰め込んだ鮪の焼き身を飲み込むのにも難儀している有様であったから、それも当然と言えたが。

 しかしコマゲネス自身はひるんだのも一瞬で、代わりに、彼は嘲るように、嘆息の仕草をして見せた。

「身の程知らずの狂人が、王に何を授け得よう。惨めたらしい物乞いが、宴に何を捧げ得よう。どうして貴様の如き鼠から……」

しかしそこで、女は王の言葉を遮った。

「繰り言をするか」

ただ一言。それは冷たく、嘲笑的であった。雷に打たれたようであった場に、たちまち氷のような緊張が広がった。女は軽蔑するような仕草で酒壺を引っ込めると、神々をも非難するような力強さで言葉を続けた。

「大言壮語のコマゲネス、所詮はお前も恐れるか。贅を尽くせしという者は、ただその限りを示す者。饗宴の王を名乗れども、見よその宴の乏しきを。欲望の貧しきが故に、愚かな者は得たりと言う! 嘘と虚飾に渇かぬその舌を、わざわざと甘露が潤すことも無し。ああ、満ち足りた者よ!」

 「満ち足りた者よ」、この言葉を女が言い終えた時、客人たちは皆あまりのことに息を呑んだ。何故ならこの呼び名は、欲望の飽くなきことを尊きとするデモリース信仰の彼らにとって何よりの侮辱であったからである。それを仮にもコマゲネスのような身分のものに言い放つなど、信じられぬことであったのだ。彼らは皆沈黙した。だが今度はその静寂は長くは続かなかった。空気が吸い込まれるような一瞬ののち、爆発の如き怒号が噴出したのである。

 それは入り混じったものであった。まず、宴の主人に対する途方もない無礼に怒り狂う者達。この者らは気狂いの女の非礼に激怒し、身の程を弁えぬ振る舞いを非難し、殺してしまえ、或いは宴の「余興」にしてしまえ、などと口々に叫んでいた。そしてそれとは別に、女に乗じてコマゲネスを罵る者たちもいた。彼らは普段はコマゲネスの宴の歓喜にあずかりながらも、その名声や威信を妬ましく思っている者たちや、或いは単に底意地の悪い者たちであり、酔いも手伝って気を大きくし、この機を逃すまいと平素より気に食わぬ「饗宴の王」をここぞとばかりに挑戦も受けられぬ臆病者、一杯の酒も飲めぬ小器などと詰ったのである。

 このような者たちが一緒に喚いたのだから、場は当然収まらない。お互いの言葉を聞いた客人同士は取っ組み合い、つかみ合い、殴り合い、嘔吐してそれを相手に吐きかけたりなど、到底目も当てられない有様となった。いつの間にか、アッという間に、饗宴はコマゲネス派と反コマゲネス派の乱闘の舞台になってしまったのである。

そしてそのがやがやの中で、ある者が「このような得体の知れぬ狂女が差し出すものなど、腐った汚泥か毒であるから飲む必要などない」と叫ぶ者がいた。すると反コマゲネス派の客人らは「そのように言って我らが自称宴の王は強き酒から逃げるのだ。恥知らずにも飲めない酒などは無いと言いながら!」と応えた。するとコマゲネス派は「彼に飲めぬ酒など無いわ」と言い返し、すると「そんなら飲んでみるがよろしい」と続く。そしてその様子を、事の発端たる女はどこか楽し気に眺めている。もはや、このまま宴は瓦解していくかとも思われた。


 その時である。硬質の大きな音が、突然に空気を切り裂いたのは。思わず群衆は身を固くして沈黙した。

果たして、音の由来は、コマゲネスであった。彼は自らの杯を、放り捨てるように、力強く投げつけたのだ。陶器の杯は柱に激しくぶつかって粉々に砕け散っていた。その顔には、常の嘲るような微かな笑みの影も無かった。それを見て、客人は皆恐れ戦いてしまった。

 だがコマゲネスは彼らの方を顧みることもなく、女を見据えながら指を振り、何事かを近従に命じた。それを受けた召使は、慌ててどこかへと駆けていき、程なくして見事な装飾の施された黄金の酒杯を手に戻ってきた。そしてそれを、恭しくコマゲネスに手渡した。

 まだものをよく見ることのできた全ての人は、その杯を目にして驚いた。というのもそれは、コマゲネスの有する至宝であったからである。それはタラソス市の名高き職人、ケイロテクネスの手になるものであると言われており、コマゲネスが最も厳粛な神事か、或いは最も壮大な宴を執り行う時にのみ、用いられるものであったのである。

「見よ、疑い深き人々よ」

杯を掲げて、コマゲネスは言った。

「見よ」

光り輝く酒杯と併せて、それは実に威厳ある姿であった。まるで神託者の言葉のように、客人らは皆目を奪われ、彼に釘付けとなっていた。乱闘のために重なり合っている者たちも、眼前の出来事にすっかり気を取られていた。

コマゲネスは見回して、誰もが彼を注視しているのを確かめると、あくまで尊大に、女に向けて美しき杯を差し出した。すると、女は微笑んだように見えた。そして一度は取り下げられた酒壺は、再び持ち上げられ、その中身はなみなみとコマゲネスの黄金の杯に注がれた。

 「見よ」ともう一度、コマゲネスは宣言し、杯を高々と掲げた。そして朗々とした声を張り上げた。


酒と名づくるものならば、飲んで飲まれることはなし

毒杯とても杯よ、注がれたならば拒むことなし

我の名こそはコマゲネス、酒宴においては勝る者なし

女神の恵みは我に満つ--我が渇望は尽きることなし


その詩を歌いあげると、コマゲネスは最後に一際高く「宴の王位は我にあり!その王冠に疑いは無し!」と叫んだ。疑いなく、迷いなく、偽りなく、彼は事実信じていたのである。酒と名のつくものならば、決して己を殺せはしまいと。デモリースが、彼の女神が、そのようなことを許すはずはないと、彼は確信していたのである。

そしてそのままに、彼は満たされた杯を一息にあおった。


コマゲネスが、空になった杯を持ち上げて見せた時、今日幾度目かの静寂が、再び場を支配していた。しかし今度のものは気まずさでも、恐れでも無かった。程なくして沸騰した水が蓋を押し上げるように、歓声がその沈黙を押し破った。

それはコマゲネスの見事な飲みっぷりを盛大に称えるものであった。コマゲネス派の者ばかりではない、つい先程まで盛んに野次を飛ばしていた者でさえもコマゲネスを讃えて杯を掲げていた。乱闘していた者たちはすっかり一緒になって良いものを見たと口々に言い合い、中でも特にコマゲネスを痛烈に罵倒していたある者は、タラッサ人の乾杯の習わしに従ってその一滴を地にこぼすことでコマゲネスに敬意を捧げようとしたが、酩酊のために杯の中身をほとんど全て自分の顔にぶち撒けていた。

 コマゲネスはその喝采を、打ち寄せる波のように快く味わっていた。間違いなく、この出来事はこれから暫くの間、彼の名声を高める話として広められるだろう。そう思いながら、コマゲネスは事の発端たる女はどのような反応を示しているかと目を向けた。しかし、女は、現れたのと同じように、忽然と姿を消していた。

 「くだらぬ酒に相応しい、くだらぬ下郎であったのだ」とコマゲネスは考えた。そう言えば、あの女のもたらした酒は、意外なことに味は悪くはなかったが、しかし平凡、取るに足りないものであった。一体あの者はなんであったのだろうか、彼は訝しんだが、しかしそれ以上考えることはしなかった。なんといっても、栄光は今彼の手の中にあったのだから。そしてその日、祝宴は無事に終わり、やがて人々は自らの見た者を広めるために各々の家に帰っていった。


 それからあくる日の朝であった。コマゲネスは葡萄の蔦の装飾が施された寝台から起き上がると、いつものように一日の始まりのぶどう酒を口にした。それは、ソリュビアに産する葡萄からコマゲネスの所有する醸造所で醸された一級品のぶどう酒であった。が、それは彼の奇怪なる苦悩の始まりであった。

 味が無いのである。その朱色の液体は不快にぬめぬめとしてざらついており、そしてその快き芳香も、愛のような甘さも、欠かすことのできぬ渋みもなく、ただ灰のような空虚さだけがあった。死者の骨を液体にしたらばこのようなものであろうか。そこにあるはずの歓喜の一切は無く、ただ果てのない落ち込むような暗黒、ニュクスよりもなおいっとう暗い闇がそこにはあった。それは無であった。

 あまりのことに、コマゲネスは思わず一度口に含んだぶどう酒を吐き捨てた。そして、そのままの勢いでぶどう酒を持ってきた侍従を打ち据えた。

「貴様の如き薄汚い奴隷は、この私にいったいどんな呪わしいものをもたらしたのだ!」

コマゲネスは怒りに任せてそう怒鳴りつけたが、何のことやら分からぬ侍従は、「どうかお慈悲を、我が主よ、ですが私はいつものように酒蔵からあなた様のぶどう酒をお持ちしただけでございます!」と答えたので、ならばぶどう酒が腐っていたか何かをしていたに違いない、と今度は酒蔵の管理を任せていた者を呼び出して、コマゲネスはその者を叱責した。すると彼は決してそんなことはあり得ない、というので、コマゲネスは侍従が持ってきたぶどう酒の残りを彼に飲ませてみた。

 しかしながら、番人はそれを飲んで、このぶどう酒は確かに美味である、というので、コマゲネスは憤慨して、「蛇の左手にも劣るこの卑劣な悪漢め、貴様の舌は確かに二又に裂けておるわ! 命惜しさにそのような虚言を弄するか!」と散々に罵った。だがそこで、今度は侍従が件のぶどう酒を確かめてみて「確かにこれはコマゲネス様に供するべきぶどう酒であり、美味なるものでございます」と恐る恐るに言った。

コマゲネスはもうすっかり参ってしまった。この侍従ドロニコスも番人オイノンも、そもそもはコマゲネスが信頼の為にその任を与えた者たちであり、以来長きに渡ってその職務を忠実にこなしてきた者たちであったからである。

「狂気が我に取り憑いたとでもいうのか」

 彼はすっかり不機嫌になり、件のぶどう酒を海にでも捨ててしまうよう命じると、朝餉のために中庭へと向かった。しかしそこで、気を取り直してまず漬けオリーブを口にした時、彼はますます参ることになった。それはまるで湿った石のようであったのだ。あまりのことに震える手で手にしたパンは、乾いた海綿のようであり、チーズはただもう不快な塊であった。それらにあるべき香りも味も、朝のぶどう酒のように無かったのである。

 コマゲネスは、偶然通りかかった侍女に、パンの一切れを渡して食べてみるように命じた。侍女は一体何故にそのようなことをさせられるのかが分からず怯えていたが、ともかく彼女はそれを食べ、震えながらも上等なパンだと述べた。

 これでとうとう、コマゲネスも自身に何かが起こったのだということを認めざるを得なくなった。彼から味わいを奪うなど、一体どんな忌まわしい呪いであろうか? 彼は苦悶したが、すぐに、前日の宴に現れた女と、その「神酒」を思い出した。怪しげなことと言えば、まずそれであった。

 コマゲネスは、早速兵士たちに命じ、また触れを出して、女を探し、また呪いを解く為にお抱えの錬金術師を呼びつけて、呪い解きのための霊薬を作らせた。だが、それを飲んでも依然として味は戻らず、結局彼は味のしない不快な液体をやたらと飲まされただけに終わり、また数日にわたる捜索でも、ぼろを着たあの女らしき者は一向に見つかりはしなかった。

 困り果てて、コマゲネスはソリュビアのデモリース神殿を訪れた。そして、この呪いは一体如何なるものか、また女神に愛されし自身にこのような呪いをかけられるのはいったいどれほどの者なのかと問いかけた。

 すると、阿片の煙に包まれた神殿の中で、陶酔の巫女は、「陛下の呪いはまさしくデモリース自身よりもたらされたものであります」、と述べた。「けれども、その理由を我らは知りませぬ」、と。

 コマゲネスは打ちひしがれた。何故に彼の女神はこのような仕打ちをなさるのか、と。私は常に自らを証明し続け、そしてデモリースに忠実であったではないか?


 それからというもの、コマゲネスは呪いを解き、デモリースから許しを得るために幾つもの試みを行った。財産を費やして盛大な犠牲を捧げ、また毎日神殿に通っては女神にその許しを乞うた。誇ってきた酒蔵の中身も、数々の財宝も、所有する多くの奴隷も神のために捧げられた。また、神に歓楽を捧げるための宴を再び、以前よりも更に立派に催したが、これはコマゲネスがもはや如何なる飲食の喜びも味わうことが出来なくなってしまっていたがために随分と精彩を欠いたものとなり、客人を前にしたコマゲネスは味のしない不快な塊となった食物を無理に食べようとして、遂には嘔吐してしまう始末であった。結局、この宴は彼の「饗宴の王」の名をいたずらに貶めるだけのものとなってしまった。苦慮の果てに、彼はその「饗宴の王」という称号、彼が誇ってきたその呼び名を返還し、デモリース神へと捧げるとさえ宣言した。しかしそれでも彼の呪いは解けなかった。

 コマゲネスの呪いの噂は、かつて彼の名声が広がったのと同じようにへドニア中に広まった。それにより、もはや彼の名声は地に堕ち、もはやソリュビアをかつての歓楽の目的で訪れる者たちはいなくなった。コマゲネスを王者として盛んに讃えていた調子のよい者たちは皆去った。コマゲネス当人は、もはや彼が何よりも深く愛した如何なる御馳走も美酒も意味を持たず、ただ生きるためだけの飲食も苦痛となり、空腹と渇きに苦しめられて、見事な偉丈夫からすっかり死者のように痩せ衰えてしまっていた。多くのものを失って、彼は今や狂おしく宮殿を徘徊するようになっており、ソリュビアもそれと呼応するようにしてかつての栄華をすっかり失っていた。そして、最初は饗宴の王の零落を面白がっていた移り気なタラッサ人は、いつしかその悲劇にも飽きて、へドニアは彼のことなど忘れてしまった。


 それから長い沈黙の果てであった。ある日、「饗宴の王」よりの宴への招待が、人々のもとに届いたのは。それはあの運命的な日、謎めいた女が現れたあの宴に列席していた人々に届いていた。招待は見事な筆致で書かれ、ありし日のコマゲネスを思い起こさせる美しい言葉で、再び宴の催されることを伝えていた。これにはコマゲネスのことなど忘れていた人々も、かつての饗宴の王が遂に呪いを解かれたのだろうかと噂をした。そしてこの宴がその復活を祝うものであるならば、それはどれほど盛大で、見事であるだろうかとも。好奇心と欲望に導かれた人々は、果たしてとうとうその招待を受けた。

そして約束された宴の日、彼らは船でこぞってソリュビアを訪れた。が、不安と期待のないまぜでソリュビアの港に辿り着いた人々は、そこがあまりにも寂れていたので驚き、また抱いていた不安をますますかき立てられた。だが、もうここまで来てしまったものは仕方がない、せめてコマゲネスの顔だけでも確かめておこうと人々はすっかり人の減った通りを進み、遂に荒れ果てたコマゲネスの宮殿に辿り着いた。そこでは、すっかり陰鬱な雰囲気になったドロニコスともはや仕事のなくなってしまった酒蔵の番人オイノンのただ二人が客人を出迎えた。彼らの他には宮殿に人気は無く、すっかり静まり返っていた。

唯一残ったこのコマゲネスの従僕らは、集った客人をかつては華やかであった宴の殿堂へと導いた。そこには客人の分の席が用意されていたが、立ち並ぶかがり火台には蜘蛛が巣を張り、また如何なる食物も酒も用意されていなかった。代わりに、骸骨のような姿になったコマゲネスがただ一人、彼の玉座に座して客人らを待ち構えていた。彼の前には、今や彼の有するただ一つの価値あるものとなったあの黄金の酒杯だけが置かれていた。

「よくぞ来られた皆々様、さあ各々のところにお寛ぎなされい」

そう言うコマゲネスの声は亡霊のようであり、しかしその顔には久しく失われていた彼の微かな笑みがあった。それを見て人々は全くもう恐怖してしまったが、ここで立ち去ろうとすればそれこそどのような災いがあるか分からぬと、勧められるままに大人しく席に着くほかなかった。

「我らは集ったようであるな」

 過去からの残響のような声でそう言うと、コマゲネスはいつかのように手でドロニコスに何ごとかを命じた。すると、ドロニコスは鋭い短剣を載せた盆を持ってコマゲネスの傍に侍った。コマゲネスはその短剣を手に取ると、そのまま天を仰いだ。そして何事かを唱え始めた。

「高き神よ、デモリースよ、罌粟の乙女にして百貌の御方、常に頂なる者にして淫猥なる淑女よ……」

それは一見神への祈りのようであったが、そのただならぬ様子に人々はますます震え上がった。

「我を呪いたる力よ、気まぐれなる娼婦の如き、我が女神よ!」

コマゲネスは声を張り上げた。客人の中でも気の弱い者などは悲鳴を上げ、人々は恐れに肩を寄せ合った。ドロニコスとオイノンは沈痛な面持ちで自らの主人を見つめていた。

「その名に呪いあれ、デモリース! 奪いたる者よ! 憎しみあれ、報いたる者よ!」

彼はそう叫ぶと蓬髪を振り乱して立ち上がった。そして一つの詩を吟じた。

如何なる美酒も色は無く、如何なる美食も色は無く

おおデモリースよ、その神酒は何故か

我の名こそはコマゲネス、饗宴の王はここにあり

女神の呪いは我に満つ――我が切望は叶うことなし

何故我を呪うたか、何故我を呪うたか

 それはもはや詩というよりは慟哭であった。彼は言葉を続けた。宴に供するべきものはもはや一つもない、パンくずのひとかけらも、ぶどう酒の一滴でさえも。ただあるは神へ捧げらるるべきこの杯のみなり、と。どうか受け取られよ、コマゲネスは声を震わせて叫んだ。そして勢いよく、短剣を自らの喉元に突き刺し、切り裂いたのである。

 激しく迸る血はその勢いで杯へと注がれ、器を満たし、溢れさせた。やがて、コマゲネスは短剣を取り落とし、そのまま玉座へと倒れ込んで、動かなくなった。広間には、息をする者さえいなかった。

 その時である。突然に、広間に置かれた全てのかがり火台に炎が勢いよく灯った。薄暗かった広間はにわかに明るく照らし出され、そして同時に辺りにはえも言われぬ淫靡な芳香が漂い始めた。

 人々はざわめき立ち上がった。ひび割れた大理石の床から、罌粟の花が咲き始めたからである。それは瞬く間に成熟し、蠱惑の蜜をひとりでに溢れさせながら真白い花を咲かせた。枯れ果てていたはずの噴水からは芳醇なぶどう酒が音を立てて吹き流れ始めた。そしてどこからともなく紫の煙が漂った時、その場にいる誰もが平伏した。

 紫煙が一つの形を織り成した時、そこにはコマゲネスが探して終ぞ見つけ出すことの出来なかった、あの襤褸を纏った女がいた。しかし、その襤褸は次の瞬間には形を変え、ありとあらゆる色に移り変わっては光り輝く、絹の如き長衣となった。四肢は長くなめらかに、そして若々しいものとなり、そして頭巾に覆われた頭には長さも形も移ろい変わる髪が流れ落ちて、その面貌には常に変化し続ける無数の顔が目まぐるしく流動していた。そしてそれらの顔は全て嫌悪感を催すほどに美しかった。

 このものこそ、諸人が平伏した理由であった。西方にありし爛熟の花にして、堕落の宝玉。この世において最も強大なる高き神、その一柱たる、放蕩の女王デモリースであった。

「良き余興であったぞ」

 その言葉はさながら恋人の囁きであった。言葉の一つごとに、肉欲というものを知らぬ者でさえも熾烈にその欲望を燃え立たせるであろう、胸を焼き焦がすような激烈な囁きである。その声は水晶の竪琴で奏でられるようであった。そして紫煙の女神は歩んだ。彼女の踏むところでは葡萄と罌粟が咲き乱れ、その甘い愛液で自らを濡らした。かの神がドロニコスの前を横切った時、その色香にあてられて忠実なる侍従は瞬く間に絶命した。

すべるように、大いなるものはコマゲネスの骸の側までたどり着いた。そして、彼の黄金の杯に手を伸ばした。ソリュビアの王の秘宝さえ、デモリースの面前にあっては滑稽な玩具に過ぎなかった。しかし、その内に満たされた鮮血だけは、デモリースの威光に触れてますます光り輝いていた。

 飽くなき者は杯を手にした。すると、紅の泉からふっと香が立ちのぼった。それは、確かに醸された葡萄の汁の香りであった。デモリースはそれを唇へと運び、静かに飲み干した。そして、かつてコマゲネスがしたように、その杯を掲げて見せた――高らかに、死せる王をあざ笑いながら。


「汝こそ、まことに饗宴の王よ」


かくして、共演の王はその名に相応しく、神の宴に供されたのであった。

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