第一部:椿ノ首⑫
昨日、夕刻――灯心が自宅を留守にしていた時間だった――男が一人、忍び込んでいると春桜は騒ぎ出した。それがすべての始まりだと彼は語る。
忍び込んだ男は、数日前に死んだ知り合いに似ているといい、ひどく混乱し始めていた。
「何なんです」という梅之助。「死んだ人間がいるなんて」
それに彼は、
「南治郎だ、南治郎がいる」
と叫んだ。
無論当人である春桜以外は、南治郎の死が「依頼」によるものだということなど知りもしない。だから、何を慌てているのかも検討が付かず、藤郎は警察に電話しようかとも言ったが、妻と息子は相手にするなといい、春桜は警察ではどうにもならんと言い放った。
この時、家の中には四人以外は誰もいないのは事実である。その後の警察の調査でも、誰かがいたという痕跡は見当たらないと結論された。
だから――藤郎はふと首をひねった。
あれは、誰だったのか。
「アイツだ!」
そう叫んで、春桜は部屋を飛び出す。
声の先に、何か黒い物が動くのが見えた。
目の錯覚だったのかもしれない。はっきりと認識する前に消えたらしい。
清花家の床の間には、日本刀が置かれていた。
先代が趣味で買った骨董品。だが、しっかりと銘のある一品で、江戸の世では使用されたこともある刀だった。とはいえ、清花家の主が変わって以来、すっかりと放置された一品だ。刃はボロボロで引き抜くにもやっとだった。
赤錆の刃を抜き、春桜は影を追う。
刀を抜き、走る親を見て、さすがに正気ではないと悟った梅之助は父を止めるべく後を追いかけた。古き良き平屋の屋敷は、廊下が入り組んだ迷路。似たような襖と障子に仕切られていて、長年住んでいても錯乱していてはどれがどの部屋だったか分からなくなりかねない。一瞬にして、梅之助は父を見失う。
だから、それは、はっきり言えば「事故」とされるものだ。
不運の事故。
何かに怯えたものが、刀を振り回してしまったがために起きた悲しい事故。
「いた!」
という大声が響いた。
直後、藤郎が聞いたのは、障子を破る音と、
「――」
ケモノのような悲鳴だった。
藤郎が駆けつけると、そこには梅之助が血だらけになって倒れていた。
左肩から袈裟がけに刃が振り下ろされたようだが、刀は首の付け根に食い込んで止まっている。しかし、錆びた刀とはいえ、過去に人を切った名品。首近くの肉を切り裂いて、首の骨にしっかりと食い込んでいる。
血が噴水のように噴出して、障子と春桜を染める。
ましてや、親となればなおさらだ。
春桜は、梅之助が上げた声をそっくりそのままなぞるように声を上げ、床へとへたり込んだ。悲鳴を聞いて駆け付けた、春桜の妻は息子の様子に半狂乱となり、部屋を飛び出して行った。
「待っ――」
声を上げるも、もう遅い。
自分の注意が足りなかったと後悔しながら、奥さんの方を追いかける。
が、藤郎の足では、まったく追いつかなかった。
彼女は、恐ろしい速さで家を飛び出す。
門から飛び出したとき、最悪のタイミングで車が走って来ていた。
普段は車通りの少ない住宅街である。
何かの運命的なタイミングが偶然にも……もはや奇跡的に重なったとしか思えない。ブレーキをかけることもできない距離で、走ってきた女を、トラックは全力で撥ねた。
これもまた事故だ。
不慮の事故。
彼女は内臓をまき散らし、地面の上で息絶えた。
春桜が死んだとき、藤郎は側にいなかった。
だから、どうして、彼がそのように死んだのかは分からない。
藤郎が戻っても、ただ茫然としているだけだと思うくらい、春桜は床にへたり込んだまま動いていなかった。刀を側に転がして、息子を殺してしまった罪悪感に打ちひしがれているだけだと思った。
「師匠、これは事故ですよ」
藤郎が声をかける。
でも、彼は動かなかった。
ただ項垂れている。それだけ。
「師匠」
そうやって肩を揺さぶると、首だけが力なく動いた。
とても簡単に首が、ガクンガクンと動いた。
じわり。
血が溢れる。
声すらあげられない。
悲鳴ではない、呼気が口から飛び出る。
藤郎は、後ろへと飛び退いた。
春桜の体が、床に崩れる。
もう息絶えた体、そこに落語家の命と言うべき喉が、削り取られており、首には少しばかりのうなじの肉と、背骨があるだけだった。
自殺とも思ったが、その肉はどこにも落ちていなかった。
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