#06

 私たちは夥しい血液を携え自宅に戻った。酷く咽せる匂いだが、窓を開けることはできない。血の香りが漂い一般人に不穏を勘付かれては困る。まぁ、この一戸建て住宅にヤクザが出入りしていることは近隣住民なら誰もが知っていることだろうけれど。


「ベッドここでいい〜?」

「ん、ありがと、隆二」


 隆二が瀕死の男を抱え部屋に入ってくる。靴が脱げなかったのか土足で入ってくるから私は眉根に皺を寄せてしまう。まぁ、仕方がない。大目に見てやろう。隆二の手で診察台に寝かせられた男はか細い呻き声を上げる。隆二は男の傷に指を這わす。「相変わらず綺麗な縫い方だねぇ。前任なんてくそだったよ」と呟いた。その言葉に私はふ、っと小さく笑う。風の便りで聞いたことがある。前任者はミスを犯し危うく組長を殺してしまうところだったらしく、その噂によると沈められたらしい。


「……じゃ、あとは仲良くおふたりさんで」


 にやけながら意味深な言葉を吐く隆二。私は部屋から出ていく彼の背中を見つめる。


「シャワーはいいのか?」

「先生と入れなきゃ意味なくない?」

「……物好きだな」

「それに俺はただの使いっ走りだからねぇ。さっきの場所に戻らないと」


 煌びやかに赤髪をかきあげる隆二。彼はまだ若い。私より二歳か三歳年下だが若いことを忘れ、頼ってしまうなにかがある。紺野のお気に入りなだけあった。隆二は私の身の上話を聞きたがっているが自らの話はしない。ヤクザの世界に足を踏み入れた者の話など種類はさまざまだろうが、ろくなものではないと誰もが知っている。誰もが脛に傷を持った半端者。どういう人生を歩んでこようがここでは関係ない。この世界でどう立ち回るか、どう生きていくか、そのほうが重要だ。


「ご苦労なことだ」

「じゃぁ、また来るねぇ」

「隆二」


 私は去ろうとする彼を呼び止め、懐から取り出した飴を投げつける。こん、っと頭に当たった飴に隆二は驚きながらも手の中に入れた。


「これだからせんせのこと大好きなんだ」

「……腹の傷、開くなよ」

「はぁい。先生大好きー」


 子ども舌の隆二に渡したのは苺の飴。紺野は隆二を気に入っているが味の好みは把握していないらしい。知っていて知らないふりをするのが紺野なのかもしれないが。隆二は私に投げキスをして消えていく。


「……く、狂って、る」

「ん?」


 途切れ途切れの言葉が落ちた。振り向けばベッドに寝ていた男が薄っすらと瞼を開けていた。生に強欲だ。嫌いじゃない。


「…な、なぜ、た、たす……けた…」

「裏社会に住まうとわかる。なにかひとつでもお気に入りの人形が欲しくなるとね」

「…ころ、せ………」


 私は男が寝そべる診察台に近付く。つぷり、縫合した傷口に指を差し込む。


「あ゛…」

「君の命は私の物だ」


 縫合した黒い糸の間から赤がぬぷり、顔を出す。たらり、腹から出た鮮赤は重力を纏い、一直線に男の腰骨の方に向かっていく。診察台を汚した。

 男は私を一瞥し、諦めたように目線を逸らした。裏社会での主従関係はその命をどちらが掌握しているかで成り立つ。そこに一切情などないのだ。紺野が私を飼っているのと同様に。

 私は紺野が無駄にするなと言った麻酔を鞄から取り出し、男に与えた。こいつなら麻酔など要らないようにも思えるが紺野から奪った命だ。息絶えられては困る。


「君、名前は?」

「い、……いお、り」

「どういう字を書くか知らないが改名したほうがいいな。いおりちゃんは二人も要らない」


 麻酔が回り始めた体。森の中で縫合した糸を抜き取り、再度清潔な糸で縫い直す。灰皿を男のがっしりした太腿に置き、灰を落としながら作業を行う。タールが私の肺に死を突き立てる。怠惰に煙草を咥えながら作業をする私を男は一心に見つめていた。

 端麗な男だ。メスを腹に挿入するまえ、ビニールシートに寝かせたこの男は今と同じように私を真剣な瞳で見つめていた。肝が据わった男の腹にメスをぬぷり、沈めると男はなにも叫ばず息を吐いた。柔い腹から血がとめどなくあふれても男はなにも声を上げなかった。毅然としたその姿が今でも脳裏に浮かぶ。


「…だれ、に忠誠を、誓えば……いい? 俺を、殴ったお、とこか?」

「聞いていなかったのか? 君の命は私の物だ。だからその類の感情は私に向けろ」

「…、お、んななんか、に……」


 私は縫合を終わらせ、ぱちんと糸を切る。数日間安静にしてれば傷は自然と閉じる。こいつが安静にしているかは謎だがな。


「ま、そう思うのは君次第だが、もう後には戻れないんだ。私から離れるなら死ぬ覚悟を持ったほうがいい」

「……いつ、しんで、もいい」

「本当か?」


 私はけらけらと男を笑う。いつ死んでもいい腹積りなら君は運が悪い。


 私は次に紺野が殴った顔に触れる。鼻が曲がり、唇が切れ、瞼は腫れ上がっていた。端麗さの欠片もない。


「…あ、んた、の名は、?」

「めい」

「…、め、いさ、ん」


 物分かりがいい男は忠誠心を込めてか私をさん付けで呼んだ。私はこのヤクザの世界で先生と呼ばれている。誰もが女の私の名など気にも留めないし覚えてもいないだろう。だから簡単に先生と呼ぶ。


「あ、ん、たを殺せば……俺はかいほ、うされるのか?」

「いいえ。私の主人が君を殺すだけだよ」


 私たち飼い犬は主人に、わんと鳴くことさえも許されない。口輪と首輪で繋がれ檻に入れられている。搾取する人間と搾取される人間がいる。ただそれだけだ。

 紺野は的確に急所を狙っていた。やはりこいつは私が止めなければ死んでいただろう。私は煙草の紫煙をふわり吐き出す。


「二重に見えたり、ある方向が見えないとかあるか?」

「……うら、しゃかいになぜいるのか? と思うびじん、がみえ、るよ」

「物が上手く見えているようでなによりだ。眼球は問題なさそうだな。目ん玉の手術をしないだけ私も楽だよ」


 冗談が言えるまでには持ち直しているようだ。やはりこいつは図太い。「ヤクザの世界は運だ」と紺野は言う。「運の女神が微笑む瞬間がたまにある」と言っていた。こいつは今がそのときなんだと私は思う。


 私は診察台を離れ、冷蔵庫から氷を取り出す。タオルでそれを包み、男の額と瞼の腫れ上がっている場所に押し当てる。唸り声が小さく聞こえた。鼻の骨が折れていたようだ。


「……骨折した鼻は綺麗に治したいか? それともヤクザ仕様にしたいか?」

「どち、らが……今後つごう、がいい……」

「この稼業に勤めるなら後者がいいだろうな」 


 く、ッと軽く喉で笑った男。氷を外してみれば挑発的な笑みを浮かべていた。紺野が私の耳元で囁く。



 やれ。アンタならできる。



 こんなときでさえ幻聴のように紺野の声が聞こえてくるのだからおかしかった。私の味方であり私の行動の理由である紺野のその言葉。

 種類は違えど、この眼前の男も心底自分に自信があるように見える。こいつは紺野と同じように上り詰められる人間かもしれない。


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