第8話 記憶の底
10月22日、朝。
十一度目のループ。
詩織はベッドから出なかった。
カーテンを閉め切った部屋で、ただ横になっていた。
暗闇の中で、詩織は考え続けた。
なぜ、私は自分を殺すのか。
なぜ、無意識が私を死なせようとするのか。
答えは──
記憶の中にある。
封印した、記憶。
詩織は目を閉じた。
意識を、過去へと向ける。
思い出したくない記憶。
見たくない光景。
だが、もう逃げられない。
詩織は深く呼吸をした。
そして──
記憶の扉を、開いた。
10年前。
2014年10月。
詩織は15歳だった。
妹・梨花は5歳。
二人は屋敷の大階段の前にいた。
「お姉ちゃん、見て見て!」
梨花が笑顔で駆け寄ってくる。
手には、絵。
母と梨花が描いた絵。
「ママと一緒に描いたの!」
詩織は絵を見た。
母と梨花が手を繋いでいる絵。
幸せそうな絵。
だが──
詩織はそこにいなかった。
絵の中に、詩織はいない。
「……綺麗ね」
詩織は冷たく言った。
梨花は気づかなかった。
「でしょ?ママが褒めてくれたの!」
詩織の中で、何かが燃えた。
嫉妬。
母は、いつも梨花ばかり可愛がる。
私は──
いつも、一人。
詩織は梨花を見た。
笑顔の梨花。
無邪気な梨花。
何も知らない梨花。
「お姉ちゃん?」
梨花が不思議そうに詩織を見た。
詩織は──
手を伸ばした。
そして──
押した。
梨花の背中を。
階段の、上から。
「え?」
梨花の目が、驚きに見開かれた。
体が、後ろに傾く。
そして──
落ちた。
階段を、転がり落ちていく。
一段、二段、三段──
小さな体が、何度も床に打ち付けられる。
最後に、梨花は動かなくなった。
血が、流れている。
詩織は、階段の上から見下ろしていた。
何も感じなかった。
恐怖も、罪悪感も。
ただ──
静かだった。
使用人たちが駆けつけた。
母が叫んだ。
「梨花!梨花!」
父が救急車を呼んだ。
誰かが詩織に尋ねた。
「お嬢様、何があったんですか?」
詩織は答えた。
「分からないわ。梨花が、勝手に落ちたの」
誰も疑わなかった。
事故として処理された。
梨花は一命を取り留めた。
だが、心に──深い傷を負った。
詩織は目を開けた。
部屋は暗い。
涙が流れていた。
「私が──」
彼女は呟いた。
「私が、梨花を殺そうとした」
詩織は自分の手を見た。
この手で。
この手で、妹を──
詩織は笑った。
声を出さず、肩を震わせて。
「そうか」
彼女は呟いた。
「だから、私は死ぬんだ」
詩織は記憶をさらに辿った。
梨花を突き落とした後。
詩織は、その記憶を封印した。
都合の悪い記憶を、心の奥底に閉じ込めた。
「私は何もしていない」
そう、自分に言い聞かせた。
「梨花が勝手に落ちたんだ」
何度も、何度も。
やがて──
詩織は本当に忘れた。
自分が何をしたのか。
自分がどれだけ残酷だったのか。
全てを、忘れた。
だが──
無意識は、覚えていた。
心の奥底で、罪悪感が燻り続けていた。
「私は、罰を受けるべきだ」
無意識が、囁き続けていた。
「私は、死ぬべきだ」
そして──
このループが始まった。
何度も死ぬ、三日間。
これは──
罰だった。
自分の罪を忘れた者への、永遠の刑罰。
詩織は起き上がった。
部屋を出て、廊下を歩く。
階段の前に立った。
あの階段。
梨花が落ちた階段。
詩織は階段を下りた。
一段、一段。
足音が響く。
詩織は階段の下に立った。
床を見る。
ここに、梨花が倒れていた。
血を流して。
詩織は床に手を触れた。
冷たい。
「ごめんなさい」
詩織は呟いた。
「梨花、ごめんなさい」
詩織は梨花の部屋に向かった。
ノックする。
「梨花、入ってもいい?」
「……どうぞ」
部屋に入ると、梨花はベッドに座っていた。
詩織を見て、警戒した顔をする。
「お姉ちゃん、何の用?」
詩織は床に座った。
梨花の目の高さに合わせるように。
「梨花、私──覚えてるの」
梨花は息を呑んだ。
「何を?」
「10年前のこと」
詩織は静かに言った。
「私が、あなたを階段から突き落としたこと」
梨花の顔が強張った。
詩織は続けた。
「私は、嫉妬してた。お母様があなたばかり可愛がるから。だから──」
詩織は俯いた。
「あなたを、殺そうとした」
沈黙。
やがて、梨花が口を開いた。
「……やっと、認めたのね」
詩織は顔を上げた。
梨花は泣いていた。
「私、ずっと待ってたの。お姉ちゃんが、認めてくれるのを」
涙が頬を伝う。
「でも、お姉ちゃんは何も覚えてなかった。何も覚えてないふりをして──」
梨花は詩織を睨んだ。
「私だけが、ずっと苦しんでたの!」
詩織は何も言えなかった。
梨花は続けた。
「夜、眠れなかった。階段の夢を見た。落ちる夢を。お姉ちゃんの冷たい目を、何度も思い出した」
梨花は顔を覆った。
「誰も信じてくれなかった。『事故だ』って。でも、私は知ってた。お姉ちゃんが、わざと私を──」
梨花は泣き崩れた。
詩織は立ち上がり、梨花を抱きしめた。
梨花は抵抗した。
だが、詩織は離さなかった。
「ごめんなさい」
詩織は囁いた。
「ごめんなさい、梨花」
梨花は詩織の胸で泣いた。
「ひどいよ、お姉ちゃん。ひどいよ」
「ごめんなさい」
詩織も、泣いていた。
二人は、抱き合って泣いた。
詩織は梨花の部屋を出た。
廊下で立ち止まり、壁に手をついた。
呼吸が荒い。
詩織は気づいた。
私は──
加害者だった。
被害者じゃない。
殺されそうになっているのは、罰なんだ。
自分の罪への。
詩織は母の部屋に向かった。
ノックすると、雪乃が出てきた。
「詩織?どうしたの、こんな夜に」
「お母様、話があるの」
二人は応接室に座った。
詩織は深呼吸をした。
「お母様、私──覚えてるの」
「何を?」
「10年前、梨花を階段から突き落としたこと」
雪乃の顔が凍りついた。
詩織は続けた。
「私、ずっと忘れてた。いや、忘れたふりをしてた」
雪乃は何も言わなかった。
詩織は涙を流しながら言った。
「お母様は、それを知ってたのよね?私が梨花を突き落としたこと」
雪乃は小さく頷いた。
「……ええ」
「なのに、誰にも言わなかった」
「言えなかったのよ」
雪乃は俯いた。
「あなたは──私の娘じゃない。でも、氷室家の一員。スキャンダルになれば、家が傾く」
詩織は理解した。
「だから、隠したのね」
雪乃は顔を上げた。
その目には、涙。
「でも、私はあなたを恐れた。自分の娘を突き落とせる子供を。だから──」
雪乃は囁いた。
「あなたを、遠ざけた。冷たくした。愛せなかった」
詩織は何も言えなかった。
雪乃は続けた。
「そして、いつの間にか──憎むようになった」
二人は、沈黙した。
やがて、詩織が口を開いた。
「お母様、ごめんなさい」
雪乃は驚いた顔をした。
詩織は続けた。
「私が、全部悪かった。梨花を傷つけて、お母様を苦しめて」
詩織は立ち上がった。
「でも──もう、終わりにしたいの。この、憎しみの連鎖を」
詩織は自分の部屋に戻った。
鏡の前に立つ。
映っているのは──
疲れ果てた女。
だが、目には──光がある。
詩織は鏡に向かって言った。
「私は、加害者だった」
鏡の中の自分が、答えた。
いや、答えたような気がした。
「そうよ」
詩織は頷いた。
「だから、私は罰を受けてる。このループで」
鏡の中の自分が、微笑んだ。
「そうよ」
詩織は尋ねた。
「なら──私は、何をすればいい?」
鏡の中の自分が、答えた。
「償うのよ」
詩織は息を呑んだ。
「償う?どうやって?」
鏡の中の自分が、消えた。
詩織は一人、鏡の前に立っていた。
詩織はベッドに座った。
窓の外を見る。
月が見える。
詩織は考えた。
償う。
どうやって?
梨花に謝る?
母に謝る?
それだけで、この呪いは解けるのか?
詩織は分からなかった。
だが──
一つだけ、確かなことがある。
私は、もう逃げない。
自分の罪から。
自分の過去から。
詩織は立ち上がった。
ノートを取り出し、書き始めた。
私がしたこと:
・梨花を階段から突き落とした
・記憶を封印し、罪を忘れた
・家族を疑い、排除しようとした
・自分を被害者だと思い込んだ
詩織はペンを置いた。
そして、書き加えた。
私がすべきこと:
・罪を認める
・謝罪する
・償う
・……死なない
最後の言葉を書いて、詩織は微笑んだ。
そうだ。
死んではいけない。
死ぬことは、逃げることだ。
生きて、償わなければ。
10月23日。
詩織は家族を食堂に集めた。
父、母、梨花。
そして、柊、瑠奈、神崎も呼んだ。
全員が揃った。
詩織は立ち上がった。
「皆さん、今日は大切な話があって、集まってもらいました」
全員が詩織を見た。
詩織は深呼吸をした。
「私は──皆さんに謝らなければならないことがあります」
沈黙。
詩織は続けた。
「10年前、私は梨花を階段から突き落としました」
衝撃が走った。
父が立ち上がった。
「詩織、何を──」
「本当です」
詩織は父を見た。
「私は、嫉妬から梨花を殺そうとしました。そして、その記憶を封印し、忘れていました」
梨花は泣いていた。
詩織は梨花に向かって言った。
「梨花、本当にごめんなさい。私は最低の姉でした」
次に、母を見た。
「お母様、ごめんなさい。私はあなたを苦しめました」
雪乃は何も言わなかった。
詩織は柊を見た。
「柊くん、ごめんなさい。私はあなたを疑い、陥れようとしました」
柊は驚いた顔をしていた。
詩織は瑠奈を見た。
「瑠奈、ごめんなさい。あなたの気持ちを無視して、傷つけました」
瑠奈は涙を流していた。
詩織は神崎を見た。
「神崎、ごめんなさい。あなたを利用し、追放しようとしました」
神崎は無表情だったが、目には何かがあった。
詩織は全員を見回した。
「私は、自分を被害者だと思っていました。でも、違った。私が、加害者だったんです」
詩織は深く頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい」
沈黙が続いた。
やがて、梨花が立ち上がった。
詩織に近づく。
そして──
詩織を抱きしめた。
「お姉ちゃん」
梨花は泣きながら言った。
「やっと、やっと言ってくれたね」
詩織も、梨花を抱きしめた。
「ごめんね、梨花」
二人は抱き合って泣いた。
第8話 終
次回、第9話「最後の実験」
詩織は罪を認め、謝罪した。だが、それだけでループは終わらない。詩織は最後の賭けに出る──全てを破壊する。屋敷も、家族も、自分自身も。破壊の果てに、答えはあるのか?
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