第2話 疑惑の婚約者


 10月22日、朝。

 四度目のループ。

 詩織は冷静だった。

 もう恐怖はない。代わりにあるのは、冷たい怒りと、明確な目的。

 敵を特定する。

 そして、排除する。

 詩織は朝食の席で家族を観察した。

 父・厳一郎は相変わらず新聞を読んでいる。母・雪乃は優雅に紅茶を飲んでいる。妹・梨花はスマートフォンを見ている。

 全員が、普通だ。

 だが、この中の誰かが──私を殺そうとしている。

「詩織、今日は柊くんが来るのよ」

 母が言った。

「パーティの最終確認をするって」

 柊真。

 詩織は頷いた。

「分かったわ」

 完璧だ。

 今日、彼の本性を暴く。


 午後、柊真が屋敷を訪れた。

 彼はいつものように笑顔で詩織を迎えた。

「詩織、会いたかった」

 彼は詩織の手を取り、軽く口づけをした。

 詩織は微笑んだ。

「私も」

 嘘だった。

 二人は応接室に通された。使用人が紅茶を運んでくる。

「パーティの準備は順調だよ」

 柊が言った。

「明後日が楽しみだ」

 詩織は紅茶を一口飲んだ。

「ねえ、柊くん」

「何?」

「私たちの結婚、本当に幸せになれると思う?」

 柊は少し驚いたような顔をした。

「当然だよ。僕は君を愛している」

 詩織は彼の目を見た。

 嘘を見抜くように。

「本当に?」

 柊は微笑んだ。

「本当だよ、詩織」

 その笑顔は完璧だった。

 練習された、完璧な笑顔。

 詩織は立ち上がった。

「ごめんなさい、少し用事を思い出したわ。すぐ戻るから、ここで待っていて」

「分かった」

 詩織は部屋を出た。

 そして──柊の車に向かった。


 柊は屋敷の駐車場に車を停めていた。

 詩織は周囲を確認し、車に近づいた。

 ドアは鍵がかかっていない。彼は油断している。

 詩織は助手席のドアを開けた。

 グローブボックスを開ける。

 中には──書類。

 会社の決算書。赤字が続いている。

 借入金の明細。数千万円。

 そして──手紙。

「真へ。お父様の会社、大変なんでしょう?私、何か力になれることがあれば言ってね。でも、あなたがあの人と結婚するのは我慢できない。早く終わらせて。愛してる。──美咲」

 詩織は手紙を握りしめた。

 美咲。

 前のループで見た写真の女性と同じ名前だ。

 柊は浮気をしている。

 そして、私との結婚は──金のため。

 詩織は車を離れ、屋敷に戻った。

 応接室に入ると、柊は相変わらず笑顔で待っていた。

「おかえり」

 詩織は微笑んだ。

「ありがとう、待たせてごめんなさい」

 彼女は彼の隣に座った。

 そして、囁いた。

「ねえ、柊くん。美咲さんって、誰?」

 柊の顔が凍りついた。


 一瞬の沈黙。

 柊は慌てて笑顔を作った。

「美咲?誰のこと?」

「とぼけないで」

 詩織は冷たく言った。

「あなたの車に、手紙があったわ。『あの人と結婚するのは我慢できない』って。あの人って、私のことよね?」

 柊の顔が青ざめた。

「詩織、それは──」

「言い訳は聞きたくないわ」

 詩織は立ち上がった。

「あなたは私を愛していない。氷室家の財産が欲しいだけ。違う?」

 柊は何も言えなかった。

 詩織は続けた。

「お父様の会社が倒産寸前なのも知ってるわ。借金も。あなたは私と結婚して、遺産を手に入れるつもりだった」

「詩織、違うんだ──」

「違わないわ」

 詩織は冷たく微笑んだ。

「でも、安心して。私はこのことを誰にも言わない」

 柊は驚いた顔をした。

「本当に?」

「ええ」

 詩織は彼の肩に手を置いた。

「その代わり、あなたには一つ、やってもらいたいことがあるの」


 詩織の計画は単純だった。

 柊を利用して、自滅させる。

 彼女は柊に囁いた。

「お父様の会社のこと、パパに相談してみたら?氷室家なら、助けられるかもしれない」

 柊の目が輝いた。

「本当に?」

「ええ。でも、直接言うのは難しいかもしれないわ。だから──」

 詩織は続けた。

「パパに、『投資の話がある』って言って。会社の資料を持って行って。でも──」

 彼女は微笑んだ。

「少し、数字を良く見せたほうがいいかもね。パパは厳しい人だから」

 柊は頷いた。

「分かった。ありがとう、詩織」

 詩織は心の中で笑った。

 彼は気づいていない。

 父は数字に厳しい。虚偽の報告をすれば、一発で見抜く。

 そして──柊を信用しなくなる。


 10月23日。

 柊は詩織の父・厳一郎に会った。

 詩織は遠くから、その様子を見ていた。

 書斎から出てきた柊の顔は、青ざめていた。

 厳一郎は激怒していた。

「詩織!」

 父が詩織を呼んだ。

 詩織は書斎に入った。

「何?パパ」

 厳一郎は柊を指差した。

「この男が何を言ったか知っているか?虚偽の資料を持ってきて、投資を求めてきた」

「え?」

 詩織は驚いた顔をした。

「柊くん、そんなこと──」

「詩織、君が言ったんだろう!」

 柊が叫んだ。

「数字を良く見せろって!」

 詩織は首を横に振った。

「私、そんなこと言ってないわ。あなたが勝手に──」

「嘘だ!」

 厳一郎が柊を睨んだ。

「もういい。出て行け。婚約は破棄だ」

「待ってください!」

 柊は懇願した。

 だが、厳一郎は聞かなかった。

「詩織を利用しようとした男など、この家に入れるわけにはいかん。二度と来るな」

 柊は詩織を見た。

 その目には、憎しみがあった。

 そして──悲しみ。

「詩織、君は──」

 彼は何も言えずに、屋敷を去った。


 詩織は自分の部屋に戻った。

 窓から、柊が車で去っていくのが見えた。

 一人、消えた。

 詩織は安堵した。

 これで、パーティに柊は来ない。

 彼は私を殺せない。

 だが──

 詩織は思い出した。

 前のループで、柊がいなくても、私は殺された。

 毒、階段、ナイフ。

 犯人は複数いる。

 柊を排除しても、まだ終わらない。


 10月24日。

 パーティの前日。

 詩織は瑠奈に会った。

 カフェで、いつものように紅茶を飲む。

「詩織、柊くんと婚約破棄したんだって?」

 瑠奈が言った。

「大丈夫?」

 詩織は頷いた。

「ええ、大丈夫。彼は私に相応しくなかったわ」

 瑠奈は同情するような顔をした。

「そう。でも、明日のパーティはどうするの?」

「予定通りやるわ。私の誕生日だもの」

 瑠奈は微笑んだ。

「そうね。楽しみにしてるわ」

 詩織は瑠奈を見た。

 彼女は笑顔だ。

 だが、その目の奥に──何かがある。

 詩織は気づいていた。

 瑠奈は、柊の名前を出したとき、一瞬、嬉しそうな顔をした。

 婚約破棄を、喜んでいる。

 なぜ?


 その夜、詩織は瑠奈の部屋を訪れた。

 瑠奈は一人暮らしをしている。マンションの一室。

 詩織はドアをノックした。

「瑠奈?私、詩織」

 ドアが開いた。

 瑠奈は驚いた顔をした。

「詩織?どうしたの、こんな夜に」

「ちょっと話したくて」

 詩織は部屋に入った。

 瑠奈の部屋は、整然としていた。

 だが、机の上に──写真立てがあった。

 詩織はそれを見た。

 写真には、瑠奈と──男性。

 詩織は凍りついた。

 その男性は──柊真だった。

「これ──」

 瑠奈が慌てて写真立てを隠そうとした。

 だが、遅かった。

 詩織は瑠奈を見た。

「あなたと柊くんが、付き合ってたの?」

 瑠奈は何も言えなかった。

 詩織は全てを理解した。

「そう。あなたは柊くんを愛していた。でも、彼は私と婚約した。だから──」

 瑠奈は俯いた。

「詩織、違うの。私は──」

「私を憎んでたのね」

 詩織は冷たく言った。

 瑠奈は顔を上げた。

 その目には、涙があった。

 そして──憎しみ。

「そうよ!」

 瑠奈が叫んだ。

「あなたは何でも持ってる!家も、お金も、美貌も!私には何もない!それなのに、あなたは私が好きだった人まで奪った!」

 詩織は何も言わなかった。

 瑠奈は続けた。

「あなたの隣にいると、私が消えそうになるの。いつも、いつも、あなたの影に隠れて。私は──」

 彼女は泣いた。

「私は、あなたが憎かった」

 詩織は瑠奈を見た。

 そして──微笑んだ。

 冷たい、鋭い笑み。

「そう。なら、あなたも私の敵ね」

 瑠奈は驚いた顔をした。

 詩織は部屋を出た。

 ドアを閉める前に、振り返った。

「明日のパーティ、来なくていいわ。もう、私たちは友達じゃないから」


 10月25日。

 誕生日。

 詩織は覚悟を決めていた。

 柊は来ない。瑠奈も来ない。

 これで、二人の脅威は消えた。

 パーティ会場に降りる。

 拍手が起こる。

 だが、人数は少ない。柊と瑠奈がいないからだ。

 詩織は微笑んで挨拶をした。

 乾杯の時間。

 詩織はシャンパンを受け取った。

 だが、飲まなかった。

 グラスをテーブルに置いた。

「すみません、今日は飲めないんです」

 誰も気にしなかった。

 詩織は会場を歩き回った。

 階段から離れた場所に立った。

 時間が過ぎる。

 何も起こらない。

 詩織は安堵し始めた。

 もしかして──

 これで、終わり?

 私は、死なずに済む?

 そのとき──

 照明が消えた。

 会場が暗闇に包まれる。

 悲鳴が上がる。

 詩織は身構えた。

 来る──

 背中に、鋭い痛み。

 ナイフ。

 詩織は振り返ろうとした。

 だが、力が入らない。

 倒れる。

 床が冷たい。

 視界がぼやける。

 暗闇の中、誰かの足音。

 詩織は必死に目を凝らした。

 そこにいたのは──

 影。

 女性のシルエット。

 髪の長い、細身の女性。

 詩織は気づいた。

 あれは──瑠奈?

 いや、違う。

 もっと小さい。

 もっと──

 梨花?

 妹──?

 そして──暗転。


 目が覚めた。

 10月22日。

 また。

 詩織はベッドに座り、頭を抱えた。

 柊を排除した。

 瑠奈も来なかった。

 それなのに、殺された。

 ナイフで、背中を。

 そして、犯人は──

 梨花?

 詩織は立ち上がった。

 妹が、私を殺そうとしている?

 なぜ?

 詩織は鏡を見た。

 映っているのは、疲れた顔の女。

 だが、目は──冷たく、鋭い。

「一人じゃない」

 詩織は呟いた。

「まだ、敵がいる」

 彼女は微笑んだ。

 氷のような、笑み。

「なら──次は、妹ね」


 朝食の席で、詩織は梨花を見た。

 梨花は相変わらずスマートフォンを見ている。

 普通の、18歳の少女。

 だが──

 詩織は気づいた。

 梨花が時々、詩織を見ている。

 その目は──冷たい。

 憎しみ。

 明確な、憎しみ。

 なぜ?

 詩織は思い出そうとした。

 梨花と私の関係。

 小さい頃は仲が良かった。一緒に遊んだ。

 でも、いつからか──

 詩織は記憶を辿った。

 そして──

 断片的な映像が浮かんだ。

 階段。

 幼い梨花。

 そして──

 詩織は息を呑んだ。

 私が、梨花を──

 いや。

 思い出せない。

 記憶が、霞んでいる。

 何かが、封印されている。

 詩織は頭を振った。

 今はそれどころじゃない。

 梨花を、排除しなければ。


 その日の午後、詩織は梨花の部屋を訪れた。

 ノックすると、梨花が出てきた。

「お姉ちゃん?どうしたの?」

 詩織は微笑んだ。

「ちょっと話があるの。入ってもいい?」

「いいよ」

 梨花の部屋は、可愛らしかった。

 ぬいぐるみ、ポスター、本棚。

 普通の少女の部屋。

 詩織は部屋を見回した。

 そして──引き出しを開けた。

「お姉ちゃん、何してるの?」

 梨花が驚いた声を上げた。

 詩織は引き出しの中から、ノートを取り出した。

 開く。

 そこには──

 詩織の写真。

 バツ印がつけられている。

 何枚も、何枚も。

 そして、文字。

「憎い」「消えろ」「許さない」

 詩織は梨花を見た。

 梨花は青ざめていた。

「これ、あなたが書いたの?」

 梨花は何も言わなかった。

 詩織は続けた。

「あなたは私を憎んでいるのね。なぜ?」

 梨花は俯いた。

 そして──顔を上げた。

 その目には、涙と──憎しみ。

「お姉ちゃんは覚えてないんでしょ?」

 梨花が言った。

「10年前。お姉ちゃんが私を階段から突き落としたこと」

 詩織は凍りついた。

 梨花は続けた。

「私は怪我をした。誰もお姉ちゃんを責めなかった。『事故だ』って。でも、私は知ってる。お姉ちゃんが、わざと押したの」

 詩織は何も言えなかった。

 記憶が、少しずつ蘇ってくる。

 階段。

 幼い梨花。

 そして──私の手。

 押した。

 嫉妬から。

 母が梨花ばかり可愛がるから。

 詩織は震えた。

「私が──」

「そうよ」

 梨花は冷たく言った。

「お姉ちゃんが、私を殺そうとしたの。なのに、誰も信じてくれなかった。だから──」

 彼女は微笑んだ。

 詩織と同じ、冷たい笑み。

「今度は、私がお姉ちゃんを殺す番」


 詩織は部屋を出た。

 廊下で立ち止まり、壁に手をついた。

 呼吸が荒い。

 私が──

 梨花を──

 殺そうとした?

 詩織は頭を抱えた。

 なぜ、覚えていなかったんだろう。

 記憶を、封印していた。

 自分の罪を、忘れようとしていた。

 詩織は気づいた。

 私は被害者じゃない。

 加害者だったんだ。

 そして──

 このループは、罰なのかもしれない。

 自分の罪を忘れた者への、永遠の刑罰。


 10月25日。

 誕生日。

 詩織は何もしなかった。

 柊を排除しなかった。

 瑠奈を拒絶しなかった。

 ただ、パーティに出席した。

 乾杯の時間。

 詩織はシャンパンを飲んだ。

 毒の味がした。

 視界が歪む。

 倒れる。

 そして──暗転。


 目が覚めた。

 10月22日。

 詩織はベッドに座り、天井を見た。

 何度やっても、死ぬ。

 敵を排除しても、新しい敵が現れる。

 いや──

 敵は最初から、全員だったんだ。

 柊も、瑠奈も、梨花も、母も、執事も。

 全員が、私を憎んでいる。

 そして──

 それは、私のせいだ。

 詩織は笑った。

 乾いた、空虚な笑い。

「そうか。私が、悪かったのね」

 鏡を見る。

 映っているのは──

 疲れ果てた、冷たい目をした女。

 詩織は呟いた。

「でも──だからって、殺されていいわけじゃない」

 彼女は立ち上がった。

 目に、光が戻る。

 鋭い、冷徹な光。

「なら──戦い方を変える」

 詩織は微笑んだ。

「敵を一人ずつ排除するんじゃない。全員を──」

 彼女は鏡の中の自分に向かって言った。

「互いに殺し合わせる」


第2話 終

次回、第3話「親友という名の毒」

詩織は新たな戦略を取る。敵を排除するのではなく、敵同士を疑心暗鬼にさせる。最初の標的は、親友・瑠奈。だが、策略の果てに待つのは──さらなる絶望か、それとも──

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