江町観察記 ― 声の残滓

出典:福井県立博物館・記録保存室音響監視ログ

記録者:和泉ゆかり

監修:三度哲夫

期間:令和七年六月十七日〜十九日


一 夜間記録開始


博物館の記録保存室には、分析後の第1号壺と第3号壺が一時的に安置されていた。

低温保存のために室温は常に13度、照明はセンサー式で、

人の出入りがない夜間は完全な暗闇に沈む。


私は三度教授の指示で、その夜の音響記録を担当した。

目的は、封印後も続く微弱な発光現象との関連を確認するためだった。


録音機のランプが赤く灯る。

あとは、静寂の中に置いておけばよい。

ただそれだけの作業だった。


だが、夜の2時23分、

録音機が自動的に再起動した。


二 初回ログ ― “息”の波形


翌朝、データを再生すると、

無人のはずの室内に、かすかな呼吸音が録音されていた。


規則的な間隔。

約4秒ごとの吸気と呼気。

周期は、供養壇で記録された肉の層の波形と完全に一致していた。


三度教授は、波形を確認したあと、静かに頷いた。


「……息はまだ続いているのだな」


そして少し考えてから、

「ゆかり君、次の夜も同条件で続けてくれ」とだけ言った。


三 第二夜 ― “声”のかたち


翌夜、私は録音室の隅で作業台に腰を下ろしていた。

モニタのランプだけが青く光り、

壺はその前で淡く影を落としていた。


夜の1時過ぎ、

マイクが拾ったノイズに、わずかな高音が混ざった。


「――」


耳を澄ます。

言葉ではない。

けれど、喉の奥から出るような“生の音”だった。


私は思わず、

「どなたか……いますか?」と声を出した。


もちろん、返事はない。

だが、波形上ではその瞬間、

音が“反応するように”震えていた。


四 教授とのやり取り


翌朝、私は記録を教授に報告した。

彼は珍しく長い沈黙のあとで言った。


「それは“声”ではないよ。

 けれど、“声になりたがっているもの”だ。」


教授は一枚の紙を取り出した。

そこには、江町の口伝の断片が書かれていた。


「見る者八度、聞く者九度、言う者なし」


「見る供養」の次に位置する言葉だ。

 村では、八度供養を重ねたあと、

 “九度目の夜に声が宿る”とされていたという。


教授は淡々と続けた。


「君が“見た”あの夜、

 供養は八度目を終えたのかもしれない。」


五 第三夜 ― 音の文字化


三夜目。

私は、机の上に紙を一枚置き、

壺のそばに録音機を設置した。


照明を落とす。

闇に溶け込むような静寂。

それから30分ほどして、再びあの音が現れた。


呼吸音。

そして、その合間に――


「……み……」


耳の錯覚だと思った。

だが波形を拡大すると、確かに子音の峰が立っていた。


その瞬間、保存室の温度が急に下がり、

窓の外の蛍光灯が一瞬だけ点滅した。


私は思わず、

机の紙に鉛筆を走らせた。


音のリズムに合わせて、無意識に線を引く。

曲線がいくつも重なり、

いつのまにか、“み”の字のような形になっていた。


六 四夜目 ― 残滓の声


その夜は、壺の一つが発光を始めた。

乳白色の膜が表面に浮かび、

まるで呼吸に合わせて脈打っているようだった。


録音を再生すると、

音の中に“複数の声”が混じっていた。

男女、老人、子供――すべてがかすかに重なり合い、

言葉のようなものを繰り返している。


「――み……たび……」


私は息を止めた。

聞き間違いではなかった。


「みたび」――それは、三度教授の名。

だが、この声は誰のものでもない。

まるで肉そのものが教授を呼んでいるようだった。


七 教授の反応


翌朝、録音を聞かせると、教授はしばらく無言でいた。

やがて、壺の前に立ち、そっと手を合わせた。


「江町の神は、語る必要がなかった。

 語らせてしまったのは、我々だ。」


教授はそれだけ言うと、録音機の電源を切った。

そして私に向かって言った。


「ゆかり君、もう記録は終わりだ。

 あとは、忘れることも仕事のうちだよ。」


八 終夜メモ(和泉ゆかり・手記)


あの音は、言葉ではなかった。

でも、確かに“誰か”の形をしていた。


 もし見ることが供養なら、

 聞くことは何だろう。

 もしかすると、それは赦すことなのかもしれない。


 肉は見られることで静まり、

 声は聞かれることで消える。


 その夜、壺の発光は止まり、

 呼吸の音も消えた。

 かわりに、壁の黒が少しだけ薄れていた。


 それが赦しの色だったのか、

 それとも、ただの夜明けの光だったのか。


 ――もう確かめることはできない。


九 結語


音響現象は三夜目以降、完全に消失した。

壺は再封印され、現在は非公開保存となっている。


分析班の報告書には、

「環境音の共鳴現象」として処理されているが、

私にはそうは思えなかった。


あの音は、確かに“聴かれるために存在していた”。


そして、聞いた者の中に、

わずかに“何か”を残していった。


それを文化と呼ぶか、呪いと呼ぶか――

まだ、誰にもわからない。

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